第36話「標準魔法字制定案」
王都の中心にそびえる、白亜の王城。
軍務局長官執務室。
「めくってみたまえ、その続きを」
初老の軍務卿イザーク・ヴァンデミオンの声に従い、アキルは重い革のバインダーのページをめくる。
後半のセクションには、『標準魔法字制定案』という無機質な見出しが印刷されていた。
そこには、漢字魔法が、国家の都合に合わせて完全に切り刻まれ、用途別に細かく規格化されたリストが延々と並んでいた。
「生活等級」「行政等級」「軍事等級」。
それぞれの階級において、どの文字を、どのような手順で、どれだけの魔力出力で使用すべきかが、息が詰まるほどの細密さで規定されている。
生活等級には『紙符』のみ、軍事等級には『板札』の使用を義務付けるといった媒体の指定に始まり、たとえば『火』は平民には「着火のみ」に制限され、『風』は「推進力」のみで刃としての転用を固く禁ずるなど、文字の持つ可能性が用途と出力ごと完全に固定され、檻に閉じ込められていた。
そしてアキルの目を最も強く引きつけたのは、ページの最下部に赤字で記された太字の警告文だった。
『いかなる理由があろうとも、認可されていない二つ以上の文字の組み合わせ、および独自の回路構築を固く禁ずる。違反者は国家反逆罪として処断する』
「文字の組み合わせを、禁ずる……?」
アキルの声が微かに掠れた。
彼の脳裏に、Fクラスの薄暗く軋む教室の光景と、故郷の温かい台所の記憶が重なって蘇る。
クロエが『界』と『導』の板札を徹夜で金属線で繋ぎ合わせ、「これなら自動で負荷を逃がせるわ!」と、アキルの提示した意味を完璧に理解し、新たな回路を完成させた歓喜の笑顔。
そして、母リーナの「使いにくい道具は良い道具じゃない」という言葉をきっかけに、暗闇でも裏表を間違えないよう紙符の端を折るという、自分たちで安全に使うための知恵を出し合っていたあの日のやり取り。
あれは関わった皆で「文字の意味」を深く理解し、悩み、自ら工夫して生み出した「自分たちだけの魔法」だった。
しかし目の前の規格案は、その「工夫」をシステムへの反逆として冷酷に切り捨てる。
「大衆に創造性など求めていない」
イザークはアキルの視線の先を読み取ったように言い放った。
「彼らに必要なのは、明日も同じ作業をマニュアル通りにこなし、決められた結果を出すことだ。余計な知恵を持たせ、独自の組み合わせなど始められれば、必ず国家の統制から外れるノイズとなる。君の文字は、彼らを安全な無知の中に留めておくための、完璧な檻になる」
理解を奪い、工夫を禁じ、単語の反復だけを強制する。
魔法はもはや「人の手にある道具」ではなくなる。
巨大な国家という機械を回すための、冷たく強固な「制度」に成り下がるのだ。
イザークはバインダーをパタンと重い音を立てて閉じると、机の引き出しから三枚の真新しい薄い羊皮紙を取り出した。
それらを扇状に広げ、アキルの目の前へ静かに滑らせる。
サァッ、と乾いた紙の擦れる音が、無機質な部屋に響く。
一番上の紙には、アキルの故郷である辺境の村の地図と、母リーナ、父ゴルド、弟トール、妹ミナの名前が黒々と記されていた。そこに血のように赤いインクで押されているのは、『特例重税区指定および労役徴用令』という生々しいスタンプだ。
「君の母親や父親は、過酷な採掘場でどれだけ耐えられるかな。幼い弟や妹の身体も、あのような劣悪な環境ではすぐに蝕まれるだろう」
二番目の紙には、ガルド、クロエ、テオ、セレナの姿が、魔導で精巧に写し取られた似姿としてクリップで留められている。彼らの顔の下には、冷酷な文字が並んでいた。『国家保安法違反による王立魔法学院退学処分、および地下監房への身柄移送』。
「彼らは治安維持局の管理下へ送られる。あの才能あふれる若者たちが、一生陽の光を見られないのは国家の損失だが、規格に従わないノイズは排除するしかない」
三番目の紙は、先ほどの『特別技術顧問辞令書』だ。
イザークは白手袋の指先で、銀色の万年筆をアキルの前へ転がした。
カラカラ、という小さな金属の摩擦音が、処刑台のレバーを引く音のように執務室に響く。
「君がこのペンを取るか、それとも私がこのペンを取るかだ」
チク、タク、チク、タク。
壁の振り子時計の秒針の音が、アキルの鼓膜を直接殴りつけるように響く。
イザークの顔には、怒りも悪意もない。
ただ、国家という巨大な機構の意思を淡々と執行する、冷徹な刃物の無機質さだけが張り付いていた。
圧倒的な力。
個人の意志など一瞬で押しつぶしてしまう、規格と制度の暴力。
アキルの泥だらけのブーツが、分厚い絨毯の上でミリ単位で後ずさりそうになる。
指先から血の気が引き、視界の端が白く点滅した。
サインをすれば、家族も仲間も助かる。
だが、その代償として、彼の手で生み出した漢字魔法は人々の思考を奪う「支配の鎖」として世界を覆い尽くす。
サインを拒めば、彼がこれまで命懸けで繋いできた大切な人たちが、明日にも冷たい牢獄や過酷な労役へ引きずり込まれる。
王都の空を覆う灰色の雲から、ついに冷たい雨が執務室の大きな窓ガラスを叩き始めた。
ポツ、ポツ、という冷たい音が、埃一つ舞わない執務室の空気に不規則な傷を刻む。
アキルの視界がぐらりと歪む。
胃の腑が鉛を飲んだように重く、呼吸がひどく浅くなる。
前世の記憶。窓のない暗い部屋で、上が決めた仕様書の通りに動くことだけを強いられ、バグを出さないためだけの歯車として、心臓をすり減らして死んだ感覚。あの時と同じ、逃げ場のない息苦しさが、冷たい泥水のように足元から這い上がってくる。
「……」
アキルは、震えそうになる右手を、胸元の『赤い袋』に押し当てた。
分厚い布地越しに伝わってくる、いびつなオークの木片の感触。
ガルドが分厚い手で『守』の板札を握りしめ、前衛で壁となった不器用だが力強い手つき。
クロエが『界』と『導』の回路を繋ぎ合わせ、新しい発見に歓喜を爆発させた弾んだ声。
テオが『制』の光を明滅させ、汗だくになりながらも仲間の術を支えた熱を帯びた指先。
セレナが『育』の杖を抱きしめ、恐怖に耐えながらも決して光を絶やさなかった祈るような表情。
そして、彼らが必死の工夫と互いへの信頼の末に、天才レオンの制御不能な暴走を空へ撃ち出したあの純真紅の火柱の記憶。
(僕は、誰かの思考を縛るために、この文字を作ったんじゃない)
絶望の淵で彼は決して目を逸らさなかった。
机の上に並べられた三枚の重い書類。国家の絶対的な意志を代弁する冷たい銀色のペン。
そして、己の胸元でいびつな形を保ち、熱を放つ『赤い袋』。
アキルは泥だらけのブーツを分厚い絨毯に深く踏みしめ、逃げ場のない檻のような冷たい空間の中で、ただそれらをじっと見つめ返していた。




