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ウィザード・プロンプト ~落ちこぼれ少年は、漢字で魔法の常識を覆す~  作者: 早野 茂
第五部《規格と支配、未定義への挑戦編》

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第34話「国家の招待」

王都の中心にそびえる、白亜の王城。

「どうぞ、こちらへ」

漆黒の軍服を着た近衛兵の声はあくまで丁重だったが、アキルの前後をピタリと挟むように歩くその足取りには一切の逃げ道を許さない鉄の意志が込められていた。

塵一つ落ちていない深紅の絨毯に、アキルの泥だらけのブーツが黒い染みをつけていく。

だが近衛兵たちはその汚れを咎めることすらしない。

彼らは客人を「もてなす」のではなく、ただ「対象を長官執務室へ連行する」という命令の完遂しかインプットされていないようだった。


重厚な黒檀の扉の前で足音が止まる。

ノックの音。そして、扉が音もなく滑るように開かれた。


軍務局長官執務室。

そこは息が詰まるほどに空気が乾燥し、静まり返った空間だった。

壁を覆い尽くす巨大な書棚には、背表紙の色と高さがミリ単位で統一された分厚いファイルが狂いなく並んでいる。

部屋の中心に置かれた巨大な机の上には、インク瓶とペン、そして数枚の羊皮紙が、定規で測ったかのように直角に配置されていた。

部屋に響くのは壁に掛けられた大きな振り子時計の、チク、タク、という冷たい秒針の音だけだ。


「よく来てくれた。王立魔法学院、Fクラスのアキル君」

机の奥に座る初老の男――国家の軍事のすべてを統べる軍務卿イザーク・ヴァンデミオンが白手袋に包まれた両手を組んで静かに言った。

彼はアキルの色あせた制服や泥だらけのブーツを見ても、眉一つ動かさない。

ただ感情の抜け落ちた爬虫類のような冷たい目で、アキルの胸元にある手垢にまみれた『赤い袋』をジッと見つめていた。


イザークは白手袋の指先で、机の上に置かれていた分厚い羊皮紙の束を一つ、アキルの前へ滑らせた。

サァッ、と乾いた音が鳴る。

一番上に置かれているのは国家の赤い蝋印が押された辞令書だった。

「王立魔法軍、特別技術顧問。それに伴う大佐の階級と、年金として白金貨三千枚。さらに、君の家族の王都一等区への移住と、永久的な生活保障だ」

秒針の音に混じって、イザークの抑揚のない声が響く。

「君のこれまでの境遇は調べさせてもらった。魔力操作の適性がなく、故郷の村では不遇な扱いを受けていたそうだな。だがもう泥にまみれて木切れを削る必要はない。サイン一つで、君は国家の最高幹部として迎え入れられる」


アキルは辞令書に触れようとはせず、ただ静かにイザークを見返した。

「……破格の待遇だな。見返りはなんだ」

「君の持つ、その『文字』の技術のすべてだ」

イザークは二つ目の羊皮紙の束を滑らせた。

アキルが視線を落とす。

そこには昨夜の演習場で彼が使用した『炎』『制』『拡』といった文字の形がインクで正確に模写されていた。

だがアキルの目がわずかに細められる。

羊皮紙に書かれているのは、彼が黒板に書いたような「字の成り立ち」や「意味の根源」ではなかった。

それは完全な表組み《フォーマット》だった。


『文字形状:炎』

『規定出力:火力等級A』

『使用用途:対物破壊、広域制圧』

『詠唱・思考:不要。ただ形を正確になぞることのみを要求する』


そこには「火が二つ重なり合って上へ押し上げる」という、彼がレオンを救うために必死に伝えた『炎』の根源的な意味は、一行たりとも書かれていない。

「……ここに文字の成り立ちや、なぜその力を持つのかという理由は書かれていない」

アキルが淡々とした声で指摘するとイザークは机の上のペンを白手袋の指でミリ単位で真っ直ぐに直した。

「不要だからだ」

チク、タク。壁の時計の針が進む。

「兵士に『なぜ』を考えさせる必要はない。意味を深く理解させれば、彼らは余計な応用や工夫を始め、システムに予測不能なエラーを引き起こす。彼らに必要なのは、ただ与えられた枠を正確に書き、与えられた結果を出すことだけだ」

イザークの冷たい目が、アキルを真っ直ぐに射抜いた。

「君の技術の最も素晴らしい点は、才能のない平民たちから思考を奪い、国家という巨大な機構の完璧な『歯車』として、盲目的に従わせることができる点にある」


部屋の空気が急激に重く、冷たくなった。

アキルは無意識のうちに自らの胸元にある『赤い袋』をぎゅっと握りしめていた。

袋の布地越しに硬いオークの木片の感触が伝わってくる。

彼が文字を彫り、意味を教えたのは思考を奪うためではない。

母リーナに『火』を教えた日。

彼女は火の散る意味を理解し、台所で安全にスープを煮込んだ。

落ちこぼれの仲間たちに『守』や『結』を託した日。

彼らは文字の形を共有し、自らの役割を理解し、互いの命を繋ぎ合わせた。

レオンに『炎』を投げ与えた夜。

彼は自らの力の形を理解し、絶望の淵から生還した。

文字は他者と繋がり、世界を理解し、自ら考えるための「開かれた道具」のはずだった。


だが目の前の男は違う。

イザークは、この文字から「意味」と「理解」を完全に剥ぎ取り、ただ結果だけを強制する「絶対的な規格」として、人々を縛り付ける鎖にしようとしているのだ。


「……意味を理解させず、ただ形だけを強制すれば、いつか必ず致命的な暴走バグが起こる」

アキルの低い声が、静寂の執務室に響いた。

「文字は思考を止めるためのものじゃない。共有し、考えを深めるためのものだ。意味を奪われた枠は、ただの檻だ」


イザークは白手袋の指先で、机の上の辞令書をツントンと二回叩いた。

「君の青臭い理想論は聞いていない。私は、国家の利益と統治の効率の話をしているのだ」

振り子時計の音が、ひときわ大きく響く。

「サインしたまえ、アキル君。これは招待ではない。国家の決定だ。君がここで首を縦に振らなければ、君のその小さな村の家族も、あの教室で身を寄せ合っている友人たちも、明日からどうなるか……私には保証できない」


冷酷な脅迫。

イザークの顔には怒りも悪意もなく、ただ事務的な処理を遂行する官僚の無機質さだけが張り付いていた。

アキルは泥だらけのブーツを踏みしめ、机の上に置かれた金貨の袋と辞令書を、そして己の生み出した文字がただの記号として処理されたマニュアルを、静かに見据えた。


窓の外では、王都の空を灰色の分厚い雲が覆い始めている。

チク、タク、と正確に時を刻む冷たい秒針の音が響く中、アキルは決してペンの置かれた机へは手を伸ばさず、胸元の『赤い袋』をさらに強く握りしめた。


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