第20話「貫くという定義」
雪解けの泥を激しく跳ね飛ばしながら、アキルは燃え盛る村の中心へと駆け込んだ。
靴の裏から伝わる地面の異様な熱。
熱風が顔を打ち据え、鼻腔を焦げ臭い煙が容赦なく突く。
かつて村人たちが集い穏やかに笑い合っていた広場は、今は完全に地獄の様相を呈していた。
広場のシンボルだった石積みの時計台は半ばから無惨にへし折れ、周囲の民家の藁屋根は赤い炎を上げて焼け落ちている。
熱波で雪が瞬時に蒸発し、白い蒸気と黒い煙が入り混じって視界を覆っていた。
逃げ遅れた人々の悲鳴と親とはぐれた子供の泣き叫ぶ声が、建物の崩落する轟音の合間に途切れ途切れに響いてくる。
足元には誰かが落とした冬越しのための木箱や籠が、無惨に踏み潰されて散乱していた。
その惨状の中心で、十メートルを優に超える大魔物が四本の太い足で大地を蹂躙していた。
黒光りする分厚い甲殻は、先ほどエドワードが放った超高熱の火球を真正面から受けてなお、表面がわずかに炭化してひび割れているだけだ。
魔物はその痛みに激昂し、さらに狂暴さを増して手当たり次第に建物を粉砕している。
「愚かな獣め。次で完全に消し炭にしてくれるわ!」
上空では、王国屈指の大魔術師エドワード・グランフェルが青いローブをはためかせ、両手の間に先ほどよりもさらに巨大な赤い火球を圧縮していた。
チリチリと空気が焼け焦げる音が、地上にいるアキルの耳にまで届く。
膨大な魔力が強烈な熱波となって押し寄せ、アキルの髪を激しく揺らした。
それは一個の人間が持つにはあまりにも巨大すぎる、理不尽なまでのエネルギーの塊だった。
あの火球が魔物に直撃し、再び強固な甲殻で弾き返されればどうなるか。
行き場を失って飛び散った熱線の余波が、今度こそ村のすべてを焼き尽くし、逃げ惑う人々を灰に変えてしまう。
アキルは喉の奥から叫んだが、轟音と熱風に声はかき消された。
頭上に浮遊するエドワードには、地上の惨状などまったく見えていない。
ただ眼下の標的を己の力でねじ伏せることしか頭にない彼の目は、自らの圧倒的な力を誇示する傲慢な自信に満ちていた。
もう誰も彼を止められない。
だがアキルは止まらなかった。
血が滲むほど強く唇を噛み切り、土埃と火の粉が舞う中を大魔物の足元へと向かって真っ直ぐに走った。
ズズンッ!ズズンッ!と魔物が一歩踏み出すたびに、内臓が激しく揺すぶられるような重い振動が足元から伝わってくる。
見上げるような巨体。
それに比べてアキルの体はあまりにも小さく、彼の中に眠る魔力の絶対量はエドワードの何万分の一にも満たない、ささやかで微小なものだ。
アキルは走りながら胸元へ手を入れ、先ほど土間で彫り上げたばかりの『板札』の束を引き抜いた。
紙の羊皮紙では、これから受け止める大魔術師の莫大な魔力に到底耐え切れず、一瞬で燃え尽きて灰になってしまうだろう。
だからこその、オークの木片に深く線を刻み込んだ強固な媒体だ。
しかし、エドワードの何万倍もの魔力を経由させれば、木片一枚では一瞬で消し飛ぶ。
アキルは彫り上げていた五枚の板札をピタリと重ね合わせた。
そして燃え盛る瓦礫を蹴り越え、ズズンッと重い地響きを立てて進んでくる大魔物の真正面へと立ちはだかった。
見上げるような巨大な質量が、アキルを押し潰そうと容赦なく迫ってくる。
むせ返るような獣の異臭と強烈な熱気が彼を包み込む。
上空では、魔物の進行方向の先――アキルの背後の空に浮かぶエドワードが「消し飛べ!」という怒号とともに巨大な火球を放とうと腕を振り下ろした。
太陽そのものが落ちてくるかのような圧倒的な死の奔流が、アキルの後方から魔物に向かって襲いかかる。
アキルは自分と魔物に降り注ぐその奔流に向けて、五枚重ねた板札を両手で頭上に高く掲げる。
己の微小な魔力を流し込んで意味の枠を起動し、上空へ向けて絶叫した。
「ただぶつけるんじゃない!意味の枠に、力を通せ!!」
五枚の板札に深く刻まれた文字――中心を一本の線が真っ直ぐに通り抜け、対象を一点で穿ち抜く形。
『貫』の文字が、重なり合って目も眩むような白銀の光を放った瞬間だった。
空から降り注いできたエドワードの無秩序で散漫な巨大魔力が、まるで目に見えない巨大な漏斗に呑み込まれるようにアキルの頭上に掲げられた五枚の板札へと猛烈な勢いで吸い寄せられていった。
「な、なんだ!?私の魔力が……あの少年の元へ!?」
エドワードが驚愕に見開いた目の前で、信じられない現象が起きていた。
周囲を焼き尽くすはずだった膨大な熱と光の奔流が、板札の文字の骨格に沿って極限まで圧縮されていく。
横へのブレや無駄な拡散を一切許さず、ひたすらに細く、鋭く自らの荒れ狂う魔力が、ただ一点の目的のためだけに完璧に統制されていく。
一ミリの無駄もなく流れる未知の感触、その恐ろしいほどの『美しさ』にエドワードは目を見開き、ただ息を呑むことしかできなかった。
チィィィィィッ……!
極限まで収束された白銀の光は、強固な装甲の向こうへ「スッ」と音もなく吸い込まれ――そのまま大魔物の巨体を一瞬で通り抜けた。
一瞬の、不気味な静寂。
破壊音すらなかった。
四本の太い足が、命の糸を切られた操り人形のようにガクンと不自然に折れ曲がる。
ズズンッ……。
十メートルを超える黒い山が力なく崩れ落ち、重い地響きとともに土埃が舞い上がる。
と同時に、肉が焼け焦げたような強烈な異臭がアキルの鼻を突いた。
ズゴゴゴゴォォォォン……!
魔物が倒れてから数秒の空白の後。
はるか遠くの地でとてつもない破壊が生じたことを報せる、腹の底を揺らすような重い轟音が、遅れてアキルたちの耳に届いた。
微かに空気が震えるのを感じながら、アキルがその重低音の響いてきた方向へと視線を向けると――はるか彼方にそびえる山の稜線の一部が、まるで巨大な刃物で削り取られたかのように、綺麗な半円状に抉れ飛んでいた。
エドワードの莫大な魔力は、甲殻のただ一点を穿ち、威力を保ちながら、はるか遠くの地形すらも完全にぶち抜いていたのだ。
深い静寂が広場に舞い降りた。
燃える建物の爆ぜる音だけが微かに響く中、土埃がゆっくりと冷たい風に流されていく。
空を覆っていた分厚い冬の雲が割れ、一筋の光が広場を真っ直ぐに照らし出していた。
エドワードは宙から舞い降り大魔物の死骸へと歩み寄った。
その巨大な顔の額の部分に一人の薄汚れた平民の少年が立っている。
少年の小さな掌の下。
どんな魔法も弾き返したはずの分厚い額の装甲に、たった一つだけ、アキルが掲げた板札の幅と同じほどの円形の穴が、深々と空いていた。
エドワードは息を呑み、少年――アキルをまじまじと見つめた。
「貴様が……私の力を、ただ一点に統制したというのか?」
アキルは荒い息を吐きながら、手の中で限界を迎えて半分炭化した五枚の『貫』の板札の灰を払い落とした。
強大な力を無理やり経由させた反動で、全身の筋肉が小刻みに震え、視界が白く明滅している。
「出力が大きければいいわけじゃない……」
アキルは掠れた声で、静かに言った。
「意味を与えて、枠に収めれば……力は散らずに、抜くべき場所だけを抜ける」
エドワードの視線がアキルの足元に落ちた黒い木炭の灰に注がれた。
感情のままに暴走させていた己の魔力が、あんな小さな板札の束で完璧に統制された。
一ミリの無駄もない純粋な力となって流れていった底知れぬ感触が、まだ両手に生々しく残っている。
エドワードの背筋を強烈な悪寒と畏敬の震えが駆け抜けた。
傲慢な大魔術師の喉は干からび、辺境の泥にまみれた少年の前で、ただ沈黙することしかできなかった。
長い沈黙の後。
エドワードはようやくかすかに震える呼気を吐き出し、懐から銀色に輝く硬貨のようなものを弾き飛ばした。
それは冷たい弧を描きアキルの足元の泥の上に落ちた。
表面に、王都の魔法学院の紋章が刻まれたメダルだった。
「来月、王都の学院で特待生の選抜試験がある。その推薦メダルを持っていけ」
エドワードはそれだけを言い残し、再び風を巻き上げて空へと飛び去っていった。
アキルは泥にまみれた銀のメダルを拾い上げ、その冷たい金属の感触を指先で確かめた。
村の人々が倒れた魔物を見て安堵の声を上げ始めている。
遠くの泥道を、父と母、そしてミナとトールがアキルの名を泣きながら叫んで走ってくるのが見えた。
背後には崩れ落ちた大魔物の死骸と、煙を上げる村の焼け跡。
そして手の中には彼を全く違う世界へと導く冷たい銀のメダルがある。
アキルは大きく息を吸い込み、駆け寄ってくる家族に向かって、泥だらけの顔をほころばせた。
長く厳しい冬が終わり雪解けの風が静かに吹き抜けていた。
第三部終了です。
この章は、アキルの工夫が「暮らし」だけでなく「戦い」にも通じると示せた章でした。
そしてここから、彼は村の外の世界へ向かいます。




