第24話 夕焼けオムライス①
村の外れの橋を渡って、どのくらい経ったろうか。
膝に手をついて、呼吸を整える。
視線を上げた先は緑だというのに、潮の香りが鼻孔をくすぐった。
瑞々しい若草が揺れる小高い丘の上に、古ぼけた家屋が立っている。
色褪せた薄茶色の屋根だ。おそらくはリンゴよりも濃い色だったのであろう、まばらに赤色の塗料が見える。柱や壁は色がついていたのかもわからないほど、剥きだしの木の残骸となっていた。
ひゅうと風が鳴って、ディミトラさんが僕の頭上に舞い降りてきた。
「……そういえば、『海』というのは見たことがありますか?」
僕は息を切らしながら、見たことがあると答えた。
答えてから、ひとつの疑問が思い浮かび、尋ねてみた。
「この世界の海は、何色なんですか?」
「そりゃあ——」
ディミトラさんは、答えようと口を開いてから天を仰いで、音もなく天に舞い上がっていく。
「——見ての、『サプライズ』です」
ひゅんと小屋のほうへと飛び立っていくディミトラさんを恨めしく見送ってから、僕は再び歩き出した。
あの小屋だ。あの小屋が、僕がこの世界で、初めて引き受けた仕事の場となる。
*
遡ること一日前。
寂れた村で、つぎはぎだらけの獣の皮服に身を包んだ老人・カリームさんと出会った。スローロリスかと思うほど動きが緩慢で、眠たげな眼をしている、覇気のない男だった。
自己紹介がてら魔法について説明すると、興味深げにカメラの写真を眺めてから、こう言った。
「——そんなら、描いてきてほしい絵があるんだがね」
背後から「おおっ」とディミトラさんの弾んだ声が耳に届いた。僕の肩を引っ張って耳打ちする。
「ミタカ、依頼ですよ、依頼。はじめてのお仕事っ!」
就職を喜ぶ母親か。心の中でツッコミを入れてから、カリームさんに向き直った。
「ええと、どういった絵ですか?」
カリームさんは自分の後方を示すように首を振った。
「あっちに丘が見えるだろう? あそこの上に、昔俺と妻が住んでいた小屋があるんだよ。妻と暮らして、見送った場所さね」
昔を懐かしむように顎髭を撫でている。
「数年前まで住んでいたんだが、石の加護が届かなくなったんでな。庭先の墓参りにも行けなくなったんだわ」
僕はうんうんと頷いてみせる。懐かしの家を撮ってきてほしいということか。
「わかりました。小屋への地図とイメージさえあれば、すぐに撮って、描いてきますよ」
「助かるね。交換になにがほしいんだい?」
「ええっと——このぐらいでいかがでしょう」
僕は用意していた価格表を渡した。商会文字が正確に書けているのか不安だったが、伝わったようだ。カリームさんは頬をかきながら眉をひそめた。
「こんなもんでいいのかい?」
「はい、大丈夫で——いてて」
ディミトラさんが後頭部を杖で叩いて、耳打ちしてくる。
「お馬鹿っ、もっとふっかけなさいなっ!」
「これ以上だとぼったくりですよ、家撮るだけなら一時間弱で終わっちゃいますし」
ぶつくさと愚痴を言うディミトラさんを放っておいて、カリームさんに向き直った。
「それで、どんな風に描きましょう? その家」
「いやぁ、いざ言われるとな。とりあえず家の中にいる妻を描いてくれれば、それで満足だよ」
僕は微笑んだまましばし固まる。
写真のことを一から説明するのが面倒なので、「一瞬で正確な絵を描ける魔法」と伝えたのが仇になった。
僕は申し訳なさを表情に滲ませる。
「すみません、説明不足でした。……ええっとですね、僕の魔法は現実にあるものしか描けないんですよ」
「そうかい」
「ええ、なんで、奥様を描くことは——」
「大丈夫だよ、ゴーストはいるはずだから」
眠たげな瞳のまま変わらないカリームさんとは対照的に、自分の表情がこわばるのを感じる。
「妻の『ゴースト』を撮ってきてくれればいいよ」
ゴースト? 亡霊?
胸の内からじわりと息苦しさが這い上ってきた。
奥さんのことを、本当に愛していたのだな——。
僕は息を吸い込んでから、頭を下げた。
「ええっと、それはちょっとできかねまして——」
「できますよ」
僕を押しのけて、ディミトラさんが割って入ってきた。
「奥さんのゴーストがいらっしゃるなら、お茶の子さいさいです。今もいるんですか?」
「おそらくだがね。ま、いるならでいいよ」
「ちょ、待ってください、ディミトラさん」
今度は僕が耳打ちをする番だった。
「なに勝手に話を進めているんですか! いもしない亡霊なんてどうやって撮るんです」
「いますよ」
「——は?」
「いますよ、『ゴースト』は」
目を瞬かせてから、問い詰める。
「……いるんですか!? ゴーストが」
「はい」
「ゴーストってあれですか? ……亡くなった方の姿が半透明で見える的な」
「そうです」
「いるんですか!?」
「だからいるって言ってるでしょうに」
「だって……ドラゴンも鬼もいないのに」
「そりゃいるわけないでしょうに」
「魔女はいて」
「そりゃいるに決まってますよ」
「死神はいないのに」
「いたらびっくりです」
「なのにゴーストはいるんですか?」
「いないとおかしいでしょう」
「……ふざけているんですか、この世界は」
「ふざけているのはミタカのほうです」
眉間を抑える僕を押しのけて、ディミトラさんはカリームさんのほうへ歩み寄っていく。
「しかしですね、ご老人。ゴーストを撮るのは多少魔力を使いましてね。先ほどの報酬に色をつけてもらわないと——」
*
小屋の前まで登り着いて、ふうと息を吐いた。遠目で見たよりも損傷が激しい。杭は朽ち果て、柱も斜めに歪んでいる。蟻よりも小さな灰色の虫が列を作って柱を登っている。
鼻孔の奥を浜風がくすぐった。雑草をかき分けて、小屋の裏手に回る。まだ先が見えないうちから、海の予感が心を躍らせた。
はたして、海は碧だった。青と呼ぶには穏やかで、緑と呼ぶには冷たい色をしていた。波は高く、ざあざあと絶え間ない海の砕ける音がする。見たこともない海であり、しかしその香りは間違いなく僕の肌に染み付いた潮のそれと相違なかった。
「海が好きなんですか?」
横に目をやると、ディミトラさんが杖に腰かけていた。
「そう見えます?」
「なんとなく表情が柔らかかったので」
「……少し、懐かしさを感じました」
若かりし頃は山登りばかりしていたので、たまに触れる海は心地よかった。ここの景色と同じように、高い場所から見下ろす海が好きだった。どこまでも広い世界、膨大な飛沫は風に乗って、山の上にいても五感で海を教えてくれる。
雄大で、自分の存在がちっぽけに思えるほどに。
僕はリュックを背負いなおして、小屋に向き直る。
「行きましょうか。日が高いうちに終わらせたいです」
がさがさと雑草を膝でかきわけながら、中空のディミトラさんに話しかける。
「そういえば、ゴーストって、昼でも出るんですか?」
「出るっていうか、いつでもいますよ。……そっちの世界では、夜しか出ないんですか?」
「いや、こっちの世界では夜でも出ませんけど……」
ささくれた扉の前に立つ。ノブにふれると、ちくりとささくれが指の腹に食い込んだ。
舌を舐めて、ふうと短く息を吐く。
「……行きますよ?」
「なにを緊張しているんです?」
だってゴーストですよ? 心の中で返答してから、そうっと扉を開いた。
薄暗い小屋の中は、わずかに差し込む日の光で埃が舞っているのが見えた。わずかにひんやりと冷たい。真ん中に空の花瓶の置かれたテーブルと椅子がある。奥に暖炉と炊事場があり、左側には二階へと上がる階段が見えた。
人の気配はない。
「さっさと中に入りなさいな」
ごんと杖で小突かれた。僕は「お邪魔しま~す」と小声で言いながら、小屋の中に足を踏み入れた。一歩踏み込むたびにぎいぎいと床が軋む。
周囲を見渡す。蜘蛛の巣のはった棚。扉脇の水桶や木束。カビの生えたベッド。
僕は相反する不安と安堵の気持ちを抱えながら、ディミトラさんのほうを振り返った。
「……いませんね」
振り返った先に、青色の淑女が立っていた。
「いらっしゃい」
「っ!?」
悲鳴を出すことすらできないままに、後ろにのけぞって尻もちをついた。
青の淑女の姿がぶれて、口元に手を当てた姿に変わる。
「大変! あなた、大丈夫?」
僕はもごもごと心配ない旨をつぶやいて、ゴーストを見上げた。
髪を後ろにまとめて、エプロンを身に着けていた。娘とまではいかないが、想像よりもずっと若い。口元に手を当てた姿から微動だにせず、ただその姿はノイズが入ったように時折青い光が波打っていた。
幽霊というよりも、これは――。
「ホログラム――?」
「なんです? その単語」
ディミトラさんはそう言ってから、帽子を取って淑女に頭を下げた。
「お邪魔しております、ミセス・サブリナ」
ディミトラさんの挨拶に答えるように、その姿がざあと揺れ動いて、ディミトラさんにお辞儀を返した。
「ようこそ、なにもないですけど、ゆっくりしていってください」




