第20話 魔女の毒薬②
ディミトラさんの声が聞こえた瞬間、反射的に小瓶を箱にしまって、積み荷に手をかけた。
「……ああ、戻ったんですか?」
乾いた喉から、どうにか明るい声を絞り出して、振り返った。
ディミトラさんの表情は、帽子の影と後ろの焚き火で逆光となっていて、伺い知ることができない。
「なにをしているんです?」
もう一度、先ほどよりはっきりとした口調で、ディミトラさんが問いかけてくる。チャームポイントだと思っていた魔女のとんがり帽子が、今はこんなにも恐ろしい。
「……いや、積み荷の整理を。あの、今日あの村人の人からお礼をせがまれちゃって、実を上げちゃったんですよ。テゴの実。とっさのことで、もしかして手をつけちゃいけない、荷物のほうを開けちゃったんじゃないかって、気になった次第です」
どう考えても焦りがにじみ出ている僕の声を無視して、ディミトラさんは僕の横に立って、積み荷に手をかける。
へたり込んでいる僕の頭上で、ガサゴソとなにやら漁っている。
その音が止んでから、ディミトラさんが腰を落として、僕の隣にしゃがみこんだ。帽子をとって、その表情を見せる。
「共用分の食料以外の積み荷を開けるときは、一声かけてくださいよ」
むっとこちらを見つめる表情は、非難めいていて、でもいつものかわいらしさの残るディミトラさんだった。少なくとも、そう見えた。
「こういうのは信頼問題なんですから。もし積み荷の数が合わなくなったときに、ミタカを疑いたくはないんですよ」
まったくもってその通りで、「すみません」とうなだれるしかない。「念のため明日中身をちゃんと確認しますけど、気を悪くしないでくださいよ」とため息交じりに言いながらもう一度積み荷を整理し始めた。「ほら、そんないつまでも座っていないで、ご飯にしましょうよ」と肩を叩かれたので、のろのろと立ち上がって、火所へと向かう。
背中にディミトラさんの声が聞こえる。
「ナナスマは釣れませんでしたが、コケガザミがいっぱい取れましたよ。あれは煮ると旨味が——」
そこで言葉が途切れて、音が止んだ。
焚き火を前にして振り返ると、ディミトラさんは、先ほど僕が確認していた木箱を両手に持って僕を見つめていた。
「……これを見たんですか?」
ディミトラさんの水色の瞳が、炎に当てられて揺らいでいる。
「……どうかな。いかんせん暗くてよくわからないまま箱を開けちゃったから」
僕は生唾を飲み込んでから、一歩踏み込んだ。
「—— 見られたら、まずいものでも入っていましたか?」
ごうごうと鳴る滝と、パチパチと薪の割れる音よりも、心臓の鼓動が耳の奥まで響いている。
ディミトラさんは一瞬目を見開いた後、さっと木箱を積み荷の中に押し込んだ。
「……っ別に、そんなもの、ありやしませんよ!」
それから足早にこちらに近づいてきて、「さあ、お腹がすきましたよ、お湯を沸かさないと!」と慌ただしく調理道具を並べ始めた。
対する僕は、ノロノロと鍋を手元に引き寄せて、水を注いでいく。
トクトクと鍋に水が満ちていく。滝のように水を流しても、先ほどのディミトラさんの動揺した表情が頭から離れない。
ぼうっとしたまま水を注いでいたので、やがて鍋から水があふれそうになったので、慌てて水筒を縦に戻した。
その火の鍋は、ろくに喉を通らなかった。嫌な予感が喉元を絞めて、飲めなかったのだ。
*
二日後。
僕たちは川沿いの国にきていた。
先日の集落からはさほど距離は離れていないが、少なくとも湿気地獄からは解き放たれた。海と見間違うほど広く青緑色の川は緩やかに流れており、川辺から一段上がった平地には土壁の家が無数に立っている。街いちばんの高い塔は、青い石が光っていた。
川辺で空を見上げる。もう気にすることもなくなったが、今日も夢に出てくるほど大きく不気味な星が青い空を邪魔していた。あの星はなんなのだろう。月と違って、昼間しか見えない。
本当にこの世界は知らないことばかりだ。なにを信じればいいのかわからないほどに。
ディミトラさんは、街に買い物に出かけると言ってそのまま別れた。いつもなら付き添うのに、「野暮用があるので別行動にしましょう」とそっぽを向いたままどこかへ行ってしまった。
この国に来るまでの道中も、どこかぎこちなかった。あの夜以来、あまり会話が弾まない。幸い、僕は文字の読み書きの練習に打ち込み、ディミトラさんは本の世界に入り込むという逃げ道が用意されていたのでうまくやり過ごせていた。
カメラの中に保存された写真データを確認してみる。写真の大半は、ディミトラさんの背中や横顔だ。逐一データの整理は行なっているが、それでも撮り積もっていく量が多い。予備の保存用SDカードも底を尽きているので、あと十数枚撮ったらいよいよ断腸の思いで消さなければならない写真が出てくることになる。
ディミトラさんは、残したい写真とかあるのかな。
写真を遡っていると、後ろから声をかけられた。
「なんだ、今日はあの魔女さんと一緒じゃないのか?」
振り返ると、先日の村で通訳を務めていた男が立っていた。この国では珍しい、白い肌に高い鼻。出自はこの周辺域ではないだろう。
「こんにちは。……ええと、バシカさん?」
村では出会ったときにディミトラさんから紹介されて挨拶を交わしただけだったので、名前すらおぼろげだったが、彼は満足げに僕の隣に腰かけてきた。
「覚えててくれてうれしいよ。村じゃほとんど話せなかったからな……いつからこの国に?」
「昨日からです。バシカさんは?」
「俺は今しがた着いたところだ。蒸し暑さから解放されて、いい気分に浸ろうと川辺に来たところだ」
バシカさんは懐から葉巻を取り出して、こちらに差し出してきた。僕は首を横に振る。煙草は吸ったことがないし、吸う予定もない。「モクを断るなんて変わっているな」と笑いながら、火を灯した。
「あんた、絵がうまいんだってな」
「はあ……そうみたいです」
正確には絵ではないんだけど。という考えあっての曖昧な反応だったのだが、「謙遜することはねえよ」と曲解される。
「ディミトラも褒めていたよ。『あれは貴重なものだ、自分の魔法なんかよりよほど価値がある』ってな」
僕はまた微妙な反応しか返せない。平時なら喜んでいただろうが、今はその褒め言葉すら恐ろしい。
それにしても貴族以外で『ディミトラ』と呼び捨てにする人は初めてみた。
「ディミトラさんとは以前からの知り合いなんですか?」
「ああ、何年前だったかなぁ。この国で出会ったんだよ。……五年以上は前かな。そんときは前の弟子ちゃんが一緒だったから」
前の弟子ちゃん。
また弟子の話だ。ディミトラさんには、つい最近まで弟子がいたのか? バシカさんに尋ねてみると、煙を空に吐きながら答えてくれた。
「いつまでいたのかは知らんがな。背の高い、栗毛の綺麗な姉ちゃんだったよ。あんたと違ってやたらと元気で明るかったな」
悪かったですね、根暗で。
「あのとんがり帽子は、多分その弟子ちゃんのだよ。前はあんな帽子、弟子ちゃんしかかぶっていなかったから。……形見としてかぶってるんだろ」
形見。
「……お亡くなりになられたんですか?」
「どうもそうらしい」
「どうして?」
「んなもん俺が知るわけないだろ」
葉巻を地面に押し付けて、火を消した。
「旅人や魔法使いが死ぬなんて日常茶飯事だからな。慣れちまっている自分が悲しいよ。俺もいつ野たれ死ぬことやら……」
「……事故死ってことですか?」
「さあてね。病の可能性だってあるし、戦に巻き込まれた可能性だってある。……というかあんた、さっきから俺に聞かれても困るんだよ。本人に直接聞けばいいじゃないか」
それはそうだ。そうなのだが、でもそうもいかないのが問題なのだ。ディミトラさんが、素直に答えてくれるとは思えない。
緩やかに流れる水面を眺める。一枚の葉が下流に流れていくのを見送ってから、バシカさんに問いかけた。
「バシカさん。何度も聞いちゃって申し訳ないんですけど……」
「あん?」
「ディミトラさんは、あの村でなにを買ったんですか?」
バシカさんは、少し息を吸い込んで、取り繕うように新たに葉巻に火をつけた。
「……ええと、なんだったかな。交易用の葉っぱとか、そんなんじゃなかったかな。あそこのモクはうまいからな」
嘘だ。嘘をついている。
否定したいのに、どんどん堀が埋まっていってしまう。
まさかとは思う。
まさかとは思うが、ぬぐい切れない考えがせり上がってくる。
前の弟子も、殺して魔法を奪ったんじゃないだろうな?
「……なあ、あんた大丈夫か?」
隣のバシカさんが、心配そうにこちらをのぞき込んでいる。
「顔色が悪いぜ? 薬をやろうか? 俺は調合師なんだ、元気の出る素を用意できるぜ——」
薬にかこつけて、毒を盛るという方法もあるな。
「結構です」
僕は「予定があるので」と無計画に立ち上がって、その場を去った。
バシカさんがじっと僕を見つめ続けているのを、背中で感じ取っていた。




