第18話 ヘイトの民③
宿にふくれっ面で帰ってきたディミトラさんは、「明日の朝には出発します」と宣言した。
「こんな国、二度と来てやりませんよ。私もこれ以上悪名を広めるわけにはいかないんでこらえましたがね。もう二言多かったら『紫電』の名がこの地に轟くところでしたよ。誰ですか、こんな国を欠片でも褒めたのはっ!」
アンタだよ、と心の中でつぶやく。なにを言われたのか知らないが、ディミトラさんは体から湯気が出そうなほどご立腹だ。
「まあ、この国はこの国でいろいろ事情があるっぽいでs——」
「そんなこと、こっちは知ったこっちゃあないんですよっ! なんですか、事情って! 事情があれば人を『モンチョチョ』呼ばわりしてもいいとでも!? まったくふざけてますっ!」
僕のなだめるための常套句に帽子を叩きつけて割って入ったディミトラさんは、ぷりぷりと効果音を立ちそうなほど可愛らしく膨れながら、ベッドにダイブした。「モンチョチョってなんです?」と聞いてみるが、枕に顔をうずめたまま動かない。
「ディミトラさん、一軒だけ、邪険に扱われない店を見つけたんで、そこで朝食を食べましょうよ。せっかく料理はおいしいんですから、出国前に堪能しておきましょう?」
提案してみても、ディミトラさんは「うぅぅん」と呻き声を上げるばかりで、枕に顔をうずめたまま動かなかった。
その夜。自分の荷物を整理しているときに、カメラをくるむ緩衝材として使っていた布がなくなっていることに気が付いた。どこに置き忘れたのだろう。
しばらく探してから、まあいいかと布団にくるまった。カノキジさんのところで新品のタオルを買ったので、それを代用すればいい。そのうち見つかるだろう。
二日続けて、よく眠れた。寝心地のよいベッドは偉大だ。ディミトラさんの言う通り、旅における寝床の重要性を、少し理解できた。
*
翌朝。昨日訪れた食事処に、ディミトラさんと赴いた。昨日食した肉料理を注文する。少し筋のある肉を噛み切りながら、「ほら、おいしいですね、ディミトラさん」と向かい側に話しかけるも、ディミトラさんは「ふんっ」と鼻を鳴らすばかりでご機嫌斜めな様子だ。朝起きてからずっとこの調子だ。モンチョチョ呼ばわりされたのが余程腹立たしいらしい。
食事を終えて外へ終えて外へ出ると、しわがれた声が届いた。
「よお、また会ったな」
「ベンダマさん!」
ベンダマさんは、杖に両手をかけながら、僕たちを見上げていた。
僕は笑顔で頭を下げてから、ディミトラさんに紹介する。ディミトラさんは、しかし挨拶の声を上げることはなく、軽く帽子を上げるだけだった。
「ベンダマさん、毎日ここにいらっしゃってるんですか?」
「そんな金はねぇ……たまたま穀茶の素が切れたんでな。買いに来たんだ。ちょうどよかった。あんたに会いたかったんだ」
ベンダマさんは、肩から下げた古ぼけた鞄を漁り、震えた手で一枚の紙を差し出してきた。
それは一枚の絵だった。
赤茶色の岩塔の合間に人が立っていて、その上を鳥が旋回している。その人は腹に球体を抱えており、鳥は空を覆うように羽を大きく広がている。
まるで、死へと誘う死神のように。
「久方ぶりだったよ。夢中で描いたのは」
ベンダマさんは、少し気恥ずかしそうに顎髭を撫でながら、そう言った。
「素敵な絵……いいんですか? いただいても」
「いいよ。旅人さんへの、せめてものお土産さ」
そう言って「あばよ」と去っていこうとしてしまうので、僕は慌てて呼び止めた。カメラを構える。
「ベンダマさん、俺の絵も受け取ってくださいよ」
ディミトラさんのむっとした視線を背後から感じ取るが、知ったことではない。僕はベンダマさんを店の前へと誘導する。何枚か試し撮りをして背景と光量の具合を確かめながら、世間話を振ってみる。
「……そういえばベンダマさん、その首から下げたペンダントは、誰のものなんです?」
「……ん? ああ、これか」
ベンダマさんは右手でペンダントを摘まみ上げた。昨日の小屋で壁にかけられていた、暗い色の小石がついた首飾りだ。
「旅人が身に着けてる青い石に似てますけど」
「そうだ。もとは俺の友人から譲り受けたものだ」
へえ。貴重なものだと思っていたけど、青い石を譲ることなんてあるのか。僕は絞り値を調整しながら、ぼんやりと考える。
「きれいな色だったんでな。こっそり河原の似たような小石と変えておいたんだ。そのうち光らなくなっちまったが、気に入ってる」
こっそり変える? 僕は聞き流しながらレンズを覗いて、焦点をベンダマさんの顔に合わせる。皺くちゃな顔。もじゃもじゃの髭と眉。つぶらな瞳。
「あいつが施してくれたもののなかでは、いちばん美しいものだった。旅人としては、やはり優秀だった」
僕はカメラのレンズから瞳を外し、裸眼でベンダマさんの顔を見た。
皺くちゃな顔。もじゃもじゃの髭と眉。つぶらな瞳。
昨日小屋でもてなしてくれた、穏やかな顔つきそのままだ。
「旅人を追い出すなんて、馬鹿げた政策だ。施しを受けるだけ受けておけばいいものを」
その顔が、その瞳が、今はひどく不気味に見えた。
「……さっきからなにを言ってるんです?」
「? なにがだ?」
ベンダマさんは、不思議そうに首を傾げた。
「こっそり変えたって……それじゃまるで窃盗じゃないですか」
「旅人相手に盗人だなんて、大げさな」
ベンダマさんはふがふがと笑う。
「ちょっともらっただけだ。もてなしたんだから、それぐらいいいだろう」
「? どういうことです? その旅人さんは知っていたんですか?」
「さあ。知らないんじゃないか? 穀茶を飲ませた後にもらったからな」
「知らないんじゃないかって——」
言葉を途中で見失ってしまう。
飲ませた後に?
昨日の小屋の光景が目に浮かぶ。渡してもらった、甘い香りのする薄茶色の飲み物。震える手で差し出してくれた、温かな穀茶。
あれには、なにが入っていたんだ?
「……ベンダマさん、その旅人さんは、別れ際になにか言ってませんでしたか?」
ベンダマさんは、顎髭を撫でながら視線を上に向ける。
「さあて、なんだったか……ああ、『信じていんだよな?』とか、そんなことを言っていたかな」
信じていいのか。
旅人さんも、薄々察していたのだろうか。目の前にいる優し気な男が、自分のもつ常識とかけ離れた場所にいるかもしれないことに。
「——それで、なんと返したんですか?」
「『さあ』と。なんのことだからわからなかったからな」
僕が黙していると、ベンダマさんはまた不思議そうに眉をひそめた。
「どうしたんだ? 絵はすぐ出来上がるって話だったが」
「……いえ」
僕はレンズを再び覗いて、ベンダマさんの顔にクローズアップする。
皺くちゃな顔。もじゃもじゃの髭と眉。つぶらな瞳。
小動物を思わせる、つぶらな瞳だ。チャウチャウのようだと思い描いた、柔和な表情だ。
今は、違う。
黒い、黒い、その瞳は、獲物を狩るカマキリの眼光と重なった。
シャッターを切る直前、ベンダマさんに問いかけた。
「……ベンダマさん、俺からもタオルの施しを受けましたか?」
この世の理を理解していないような、昆虫のような瞳。すぐ下の髭もじゃが揺れ動いた。
「——さあ?」
パシャリ。
僕はシャッターを切って、現像機につないだ。やがて一枚の写真が出てくる。僕はその写真を確認もせずに、ベンダマさんに差し出した。
「どうぞ」
ベンダマさんは震える手で、写真を受け取った。
「おお、これはすごいな。こんな一瞬で絵が描けるなんて……いやはや、魔法使いとはやはり格が違うな。一度でいいからこんな絵が描いてみたいもんだ」
ベンダマはふがふがと笑うのを、僕はぼうっと見つめていた。
「——ミタカ、そろそろ行きますよ」
そう言って、ディミトラさんがさっさと通りを歩いていく。
ベンダマさんを見下ろす。なにか伝えようと口を開いてみるが、言葉が出ない。僕はあきらめて、「それでは」と短く告げた。
「ああ、寂しくなるな。またいつでも来てくれよな」
そう言うベンダマさんに、僕はかすかに頭を下げるだけで、言葉を返すことはできなかった。
*
「ミタカ、なんか変な画面になっちゃったんですけど、どうすればいいんですか?」
ピラちゃんに揺られながらカメラを弄っていたディミトラさんが、僕に助けを求めてきた。僕は無言でカメラを取り上げてから、二、三操作をしてからディミトラさんに返す。
少々乱暴な僕の態度に、ディミトラさんははあ、わざとらしくため息をついた。
「……ミタカ、文化間の相違なんてよくあることですよ。おそらくあの国では、昔から旅人にはなにをしてもよいという風習があったのでしょう。今の罵詈雑言を投げかける、ずっと前から」
「……とりあえず、あの国の評価が地の底に落ちました」
「気が合いますね。……しかしですよ、逆もまたしかりですから気をつけるのですよ。こちらが知らない間に、訪れる国に不義を働いていることだってあり得るんですから」
ディミトラさんは僕に向けてカメラを構えている。
「うーん、ミタカは絵になりませんね」
「形だけ俺の言葉を真似ないでください」
僕はディミトラさんからカメラを取り上げた。カメラロールを遡りながら、ふととある青年のことを思い出した。
「そういえば、あの入国前に出会った若人は正しかったですね。外の世界に旅立てるのはいいことです」
ディミトラさんはピラちゃんの背中の縁に片腕をかけて、前を見ている。そよ風にディミトラさんの髪がさらさらと揺れている。
「……そうでしょうか? 自国民には優しい国だと思いましたがね」
「あんな国にいたらろくなことにはなりませんよ! 自分で判断して行動できて——」
ガタン。
突然ピラちゃんが進行を止めた。ぷしゅーを白い息を吐く。
ディミトラさんは帽子をかぶりなおしながら、ピラちゃんから飛び降りた。僕も後に続いて、ピラちゃんの前側に移動する。
ピラちゃんの前に、なにかが転がっていた。
「力のないものは、淘汰されるのが、この世の常です。例外はありません」
ディミトラさんが、それを見下ろしながら、言葉を落としていく。
「夢や希望だけで生きていけるほど、国の外は甘い世界ではないんですよ」
僕はその場にしゃがみこんで、それのフードを少しめくりあげて、つばを飲み込んだ。
それは、入国前に出会った青年だった。おそらくは、だ。うつぶせに転がったそれは、下半身がなく、顔面も削り取られていた。ぬかるんだ付近には、いくつもの獣の足跡が残されていた。
「壁の中なら、幸せに生きられたでしょうに」
ディミトラさん言葉が上から落ちてくる。冷たい音色に、じわじわと舌の湿り気が失われていく。
「……お、俺はどうなんです?」
僕は声を震わせながら、ディミトラさんを振り返った。
「俺はどうなんです? なんの力も……知識もないままに、旅に出てしまっていますよ」
帽子の影でディミトラさんの表情は、うまく見えない。水色の瞳が、今は暗く僕を見下ろしている。
弱肉強食が世の常だというのなら、僕はディミトラさんに——。
やがてディミトラさんは帽子を取って——。
「私がそばにいるではありませんか」
——ふっと、僕に微笑みかけてくれた。
*
若人の遺体は、祈りだけ捧げてそのままにしておいた。ギムンカが手を出したものに触れるのは御法度なのだという。
ガタンと再びピラちゃんが動き出す。僕は後方に遠ざかっていく若人だったものを見る。無意識のうちに、その倒れた姿に己の肉体を重ねてしまい、慌てて首を振って前に居直った。




