第73話 王都中枢の噂――この国には“正ヒロインが決まる夜会”があるらしい
王都の夕暮れは、学園の放課後とは違う種類のざわめきを持っていた。
九十九院霊真たちが時計塔近くの宿舎へ戻った頃、空はまだ群青へ沈みきらず、石造りの街並みの上に薄い金色が残っていた。昼間の王都は人の視線が濃い。だが夕方になると、それに別の熱が混ざる。
噂だ。
しかも学園のような、年若い者同士のきゃあきゃあとした噂ではない。
王都の噂はもっと静かで、
もっと上品で、
もっと意図を持って流れる。
誰がどの夜会へ呼ばれたか。
誰が王家の側近と話したか。
誰がどの家門と並び、どの席へ着いたか。
そしてそれが、何を意味するか。
つまりここでは、噂そのものが社交の一部なのだろう。
「……疲れましたわね」
そう言ったのはセレスティア・フォン・ローゼンベルクだった。
宿舎の談話室は、王都滞在用に王家側が押さえた小さな別館の一室だ。広くはないが、対外用の応接ではないぶん少しだけ気が抜ける。重たいソファと低い卓、壁際のランプ、そして王都らしいやたら上質な茶器が並んでいる。
セレスティアはそのソファの端へ腰を下ろし、さすがに今日は少しだけ気を抜いた顔をしていた。
学園にいる時の悪役令嬢めいた張りつめ方とも違う。
昼の高位サロンで見せた“上品に切り返す高位令嬢”の顔とも違う。
役を何枚も着替えたあとの素の疲れ方だった。
「はい」
と霊真。
「かなり」
その返事に、セレスティアは少しだけ笑う。
「本当に、そういう相槌は妙に便利ですわね」
「便利でしょうか」
「ええ。余計な気遣いが入っていないので」
ミレーユ・セラフィナがその向かいでティーカップを手にしながら、やわらかく息をついた。
「ですが、まだ終わっておりませんわ」
と彼女。
「王都の人たち、今日一日でこちらの配置をかなり把握し始めていましたもの」
「配置」
とリリアーナ・フェアミントが少し嫌そうに言う。
「ええ、配置ですわ」
ミレーユは頷いた。
「王子殿下、本来ヒロイン枠、悪役令嬢枠、聖女候補枠、攻略対象枠……そういう見方を、王都は学園よりずっと自然にやります」
「自然にやるってのが一番最悪だよな」
ガイゼル・ヴァン・ドレイクが椅子へ深く座りながら言う。
「昼間の連中、全員“物語の観客”みてぇな顔してたし」
「観客で済んでいればまだましです」
とルシアン・エーデル=クロイツ。
相変わらず紙束を広げている。
「王都の上流層は、観客であると同時に脚本側でもある。そこが学園との違いです」
その言い方に、アルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタインが低く言った。
「つまり、噂がそのまま選定へ繋がる可能性があるということか」
「ええ」
ルシアンは即答する。
「そして、それをやる場が王都には昔からある」
彼はそこで一枚の紙を卓へ置いた。
王都の社交行事一覧、らしい。
だがその中で一つだけ、他より濃く印がついている項目がある。
《選定夜会》。
「やはり、それですのね」
とミレーユ。
セレスティアの赤い瞳が少しだけ細くなる。
リリアーナも紙を覗き込み、あからさまに嫌な顔をした。
「名前からして嫌です」
と彼女。
「分かりやすすぎます」
「私もそう思う」
アルフレッドが苦く言う。
◇
《選定夜会》という名前は、最初に聞いた時点で既にかなりひどい。
だが、問題は名前だけではなかった。
「王都では古くからある夜会です」
とオルバス・グランディールが言う。
学園長は今日一日、王都側の古い記録と照合を続けていたらしい。
「表向きは、王家と高位家門、聖職関係者、そして一部の有力若年層が集う社交の場。だが実態はそれだけではない」
「もっと面倒だと」
ガイゼル。
「ええ」
オルバスは頷く。
「この場では、誰が王家の近くへ置かれるか、誰が今後の婚約候補や側近候補として有力か、誰が“王都にふさわしい人物”かが、かなり暗黙に絞り込まれる」
暗黙に。
だが、その暗黙が一番厄介なのだろう。
「しかも」
ルシアンが話を継いだ。
「本機構は、おそらくこの夜会で最も強く作動します」
「根拠は」
とアルフレッド。
「昼間の時計塔周辺の脈動です」
ルシアンは紙へいくつかの線を書き込む。
「王都中枢本機構は、日常的には視線や導線の“補助”程度に留まっている。ですが特定の儀礼的イベントが来ると、一気に出力を上げる可能性が高い」
「つまり」
とミレーユ。
「夜会そのものが、本機構の大型端末のような役割を果たすのですね」
「端的に言えばそうです」
ルシアンは頷いた。
「座席、入場順、ダンス相手、会話の流れ、視線誘導、評判の固定。全部まとめて“イベント進行管理”に使われる」
談話室がしんと静まる。
あまりにも、エロゲーム的だ。
王子と誰が最初に踊るか。
誰が誰の隣へ座るか。
誰がどのタイミングで対置されるか。
それだけで空気が決まり、
噂が決まり、
“選ばれやすさ”まで決まる。
「……どう見ても、メインヒロイン決定イベントですわね」
セレスティアが小さく言った。
誰もすぐには反論しなかった。
できないからだ。
◇
リリアーナは両手でカップを包みながら、少しだけ顔をしかめた。
「正ヒロインが決まる夜会、みたいな感じですか」
と彼女。
「嫌すぎるんですけど」
「ええ」
ミレーユも本気で同意する。
「わたくしもあまり趣味ではありませんわ」
「趣味の問題で済めばいいんだがな」
ガイゼルが言う。
「要は王都全体で“誰が一番それっぽいか”を品評するわけだろ」
「品評」
セレスティアが吐き捨てるように繰り返す。
「本当に下品ですこと」
だが、王都の論理から見れば下品ではなく、むしろ当然の整理なのかもしれない。
王家に近い位置。
高位令嬢の格。
庶民から引き上げられる物語性。
聖女候補としての清らかさ。
その全部を一晩の大舞台へ集め、
最も“都合のよい物語”を固める。
たしかに、選定夜会という名前はそのまますぎた。
「昼間の感じだと」
とアルフレッドが言う。
「すでに王都の空気は、かなりこちらを“夜会向きの配置”として見ていた」
「はい」
と霊真。
「かなりそのように見えました」
「いや、そこでそんなに素直に頷かれると逆に腹が立つな」
アルフレッドが小さく苦笑する。
だが事実だった。
王都の人々はすでに、
アルフレッドを王子主人公枠として、
リリアーナを庶民シンデレラ枠として、
セレスティアを悪役令嬢から本命へ反転しうる高位令嬢枠として、
ミレーユを聖女本命候補として、
そこへ霊真を“全部の中心を狂わせる異物主人公”みたいに見始めている。
つまり選定夜会が始まれば、その空気はもっと濃くなる。
◇
「問題は」
とルシアンが紙を叩いた。
「この夜会が単なる観測の場ではないことです」
「どういう意味だ」
ガイゼルが問う。
「王都の上流層は、“誰がふさわしいか”を見るだけでは済まない」
ルシアンは答える。
「見た結果をそのまま噂にし、噂を制度へつなげる。婚約候補、側近候補、聖職側の推薦、各家門の思惑、その全部が連動する」
「つまり」
ミレーユがゆっくり言う。
「一晩の空気で、本当に今後の配置が変わりうるのですね」
「ええ」
ルシアン。
「本機構が全力で干渉するならなおさらです」
それは、昼間の比較会話とは次元が違う。
王都高位サロンは、まだ“観測と噂の場”だった。
選定夜会は、その観測結果を
“現実の配置”へ固定する場
になる可能性がある。
そこまで理解した時、リリアーナが小さく呟いた。
「だったらなおさら、行きたくないです」
「私も同感ですわ」
とセレスティア。
「ええ、本当に」
悪役令嬢役へ戻したい世界。
本来ヒロイン枠へ押し込みたい世界。
その両方が、王都の夜会という形で完成する。
考えるだけで趣味が悪い。
「ですが」
とアルフレッドが言った。
「行かぬわけにはいかない」
王子の声は低い。
だが、そこに迷いは少ない。
「ええ」
ミレーユも頷く。
「本機構が最も強く動く場なら、むしろこちらから入るしかありませんわ」
「入口があるなら、中心もある」
ルシアンが言う。
「夜会会場の地下か、隣接区画に大型端末がある可能性が高い」
「じゃあ結局」
ガイゼルが肩をすくめる。
「夜会で主役みてぇに並ばされながら、裏では本機構を探るってわけか」
「かなりその通りです」
霊真が真顔で言った。
その返答に、セレスティアは一瞬だけ目を閉じた。
「……本当に」
と彼女。
「あなたがそのまとめ方をなさると、余計にゲームじみますわね」
◇
しばらくして、王都側の案内役として動いていた老侍従が談話室へ入り、恭しく一礼した。
「殿下」
と彼はアルフレッドへ向けて言う。
「正式な招待状が届いております」
来たか、と全員が同時に思ったのが分かるくらい、空気が揺れた。
侍従が差し出した封書は、昼間ローゼンベルク家から届いたものよりさらに儀礼色が強い。王家の赤ではない。王都中枢の古い銀と青の紋章が押されている。
「選定夜会への招待です」
侍従は続けた。
「参加予定者一覧も同封されております」
アルフレッドが封を切る。
数行を確認しただけで、彼の眉がわずかに寄る。
「……なるほど」
「何かございましたか」
とミレーユ。
王子は紙を卓へ置いた。
そこへルシアンが素早く身を乗り出し、ミレーユも、リリアーナも、ガイゼルも視線を寄せる。
セレスティアは一瞬遅れて、だが確実にそれを見る。
参加者一覧。
王子アルフレッド。
聖女候補ミレーユ。
ローゼンベルク家令嬢セレスティア。
フェアミント家より推薦者リリアーナ。
その他、王都の有力若年層。
そこまではまだ予想の範囲内だった。
問題は、その下にある一文だ。
「“主役候補席”……?」
とリリアーナが読み上げる。
室内が静まり返る。
「そんなもの、本当にございますの?」
セレスティアが低く言う。
「ええ」
アルフレッドは苦い顔で頷いた。
「しかも、席次として明記されている」
王子の隣ではない。
だが会場中心に近い一群として、
主役候補席
なる語がはっきり記されている。
あまりにも露骨だった。
「……趣味が悪すぎますわ」
ミレーユがさすがに顔をしかめる。
「今さらそこまで正直に書く必要があるのかしら」
「むしろ」
とルシアン。
「ここまで来ると清々しいですね。王都本機構も、もはや隠す気がないのでしょう」
「私は清々しくありません」
とセレスティア。
「かなり不快ですわ」
それはそうだろう。
主役候補席。
つまりこの夜会は、表向き社交の顔をしていながら、
実際には
“誰が今もっとも中心へ立ちうるか”
を見せるための舞台なのだ。
正ヒロイン。
悪役令嬢から反転した本命。
清楚な聖女候補。
庶民シンデレラ枠。
その全部を、王都が堂々と並べて見比べる。
そこまであからさまだと、もはや笑うしかない。
「どうなってるんだこの国」
ガイゼルが本気で言った。
◇
談話室の空気がまだざわつく中、霊真は静かにその一覧を見ていた。
主役候補席。
選定夜会。
王都本機構。
ここまで来ると、もはや“エロゲーム世界っぽい”ではなく、
この世界そのものがそういう進行を前提にして動いているとしか思えない。
「……何か、分かりましたか」
セレスティアが小さく尋ねる。
霊真は少しだけ考え、それから真顔で答えた。
「王都の皆さまは」
と彼。
「かなり本気で、正ヒロインを決めたいのだなと」
談話室が一瞬だけ静まり、それからガイゼルが吹き出した。
「いや、そうなんだけどよ!」
「言い方!」
とリリアーナも思わず声を上げる。
「でもすごく正しいですわ」
ミレーユが困ったように笑う。
「本当に困りますけれど」
セレスティアも、目を閉じて小さく息を吐いた。
「ええ」
と彼女。
「本当に、本気すぎて困りますわね」
だが、その声にはどこか別の色も混ざっていた。
主役候補席。
悪役令嬢役へ戻したがる世界のくせに、
同時に“主役候補”としても彼女を認識している。
それはつまり、王都本機構すら、セレスティアをただの対置役としては処理しきれなくなっているということなのかもしれない。
悪役令嬢ルートは崩れ、
婚約者役の固定も弱まり、
それでもなお強く中心へ引かれる。
その不安定さこそが、今の彼女の“本命感”なのだろう。
「……何だか」
とリリアーナが小さく言う。
「ますます、ゲームのメインイベントっぽくなってきましたね」
「ええ」
ルシアンが即答する。
「どう見てもそうです」
「嫌ですわねえ」
ミレーユ。
「嫌だな」
アルフレッド。
「面倒だ」
ガイゼル。
「本当に」
セレスティア。
全員が、それぞれ少し違う嫌さで同意した。
だが同時に、誰も逃げる気はない。
なぜなら、選定夜会はたぶん、
この王都という“ゲーム進行管理された街”の心臓部に触れる最初の本番だからだ。




