第69話 悪役令嬢は、自分で自分の物語を選びます
裂けた光は、すぐには消えなかった。
ローゼンベルク家の地下小祭壇で、九十九院霊真は薄赤く乱れる魔導陣を見つめながら、まだ終わっていないことを肌で理解していた。
先ほど、最後の補正波は確かに崩れた。
セレスティア・フォン・ローゼンベルク自身の拒絶と、霊真の説法めいた意味干渉が重なり、悪役令嬢役を最終固定するはずだった流れは裂かれた。
だが、それで機構そのものが大人しく止まるほど甘くはない。
古い王朝装置は、役を作りたがる。
選びたがる。
誰かを主役へ、誰かを対置役へ、誰かを落とされる側へ、きれいに並べたがる。
その欲そのものは、まだ残っている。
「まだ脈動が続いています」
ルシアン・エーデル=クロイツが銀板を睨みながら言った。
声は低いが、先ほどまでより焦りが濃い。
「主論理は崩れた。ですが、装置はまだ“代替配置”を探している」
「代替」
とアルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタイン。
「ええ」
ルシアンは頷く。
「悪役令嬢役の最終固定が失敗した以上、今度はもっと根本から再定義しようとしている。誰が何者であるかそのものを」
それは、今までよりさらに深い領域だった。
悪役令嬢かどうか。
本来ヒロインかどうか。
婚約者役かどうか。
そうした“役割”だけでなく、
その人自身が何者として生きるのか
へまで、装置が口を出してくるということなのだから。
「本当にしつこいですわね」
とセレスティアが言った。
呼吸はまだ少し乱れている。
だが、さっきのような揺らぎはもうない。
代わりに、その赤い瞳にはひどくはっきりした光があった。
折れていない。
泣いた夜を越え、
家の論理を知り、
役しか与えられてこなかったことまで突きつけられたうえで、
なお自分の足でここに立っている人の目だった。
「ですが」
と彼女は続ける。
「ここまで来たのなら、むしろちょうどよろしいのではなくて?」
全員が彼女を見る。
「ちょうどよい、とは」
とミレーユ・セラフィナ。
セレスティアは、魔導陣の中心を見つめた。
「どうせ決着をつけるのなら、今ここで最後まで」
と彼女。
「“悪役令嬢役を拒絶します”だけでは足りませんのでしょう?」
その言葉に、ルシアンの銀の瞳がわずかに細くなる。
彼も同じことを考えかけていたのだろう。
「ええ」
と彼。
「おそらく次に必要なのは、否定だけではありません」
「つまり」
アルフレッドが低く言う。
「何に戻らないかではなく、何として立つか、か」
「その通りです」
ルシアンは即答した。
「機構は空白を嫌う。役を拒絶したなら、次に“では自分は何者として立つのか”を示さねば、別のラベルを上からかぶせてくる」
それは、いかにもこの装置らしい話だった。
人を役としてしか見ないからこそ、
“役ではない”だけでは理解できない。
ならば、
私はこれです
と、本人が自分の言葉で名乗る必要がある。
セレスティアは、小さく息を吐いた。
「ええ。そういうことなのでしょうね」
◇
魔導陣が、また脈打つ。
今度の光は先ほどまでと少し違った。
強引に引き戻すというより、探るような、試すような揺れだ。
高位令嬢。
婚約者。
対置役。
悪役令嬢。
そのどれもへ収まりきらなかったセレスティアへ、
機構が別の定義を探している。
それが分かるからこそ、ここで曖昧なままでは終われない。
「ローゼンベルク殿」
と霊真は静かに呼んだ。
セレスティアは振り向く。
その顔に、もう迷いはあまりない。
「はい」
「どうありたいか、でよろしいのではないでしょうか」
と霊真。
また、そういうことを言う。
複雑すぎる王朝機構の話を、一番大事な一点へ戻してしまう。
だが今夜に限っては、それがたぶん正解だった。
「どうありたいか」
セレスティアは繰り返す。
そして、少しだけ笑った。
「本当に、単純にしてくださいますのね」
「難しくしすぎても、分からなくなりますので」
と霊真。
その返しに、ガイゼルが後ろで肩を揺らした。
アルフレッドも、疲れたように小さく息を吐く。
ミレーユはやわらかく目を細めた。
この男は、地下の古代選定機構に説法した直後でも、平然とこういうことを言う。
だから困る。
そして、だからこそ皆ここまで引きずられてきたのだろう。
「分かりましたわ」
とセレスティアは言った。
その一言とともに、彼女はゆっくりと霊真の支えから完全に離れ、魔導陣の真正面へ一歩出た。
夜会用の華やかなドレスではない。
屋敷で整えられた高位令嬢の装いだ。
それでも彼女は、やはりどこから見ても“悪役令嬢にされやすいほど美しい令嬢”に見える。
だが今、その姿はそれだけでは終わらない。
自分の物語を、自分で取り返しに来た人間の立ち姿だった。
◇
「わたくしは」
と、セレスティアは静かに言った。
魔導陣の光が、一斉に彼女へ向く。
王家紋も、
ローゼンベルク家の結び紋も、
婚約補助の文字列も、
その全部が、“次の定義”を待つように脈打っている。
「王子殿下の婚約者役として、生まれてきたわけではありません」
光が揺れる。
「本来ヒロインの対抗役として、育てられたかったわけでもありません」
一拍。
「ましてや、断罪されるための悪役令嬢役など、わたくしは最初から望んでおりませんわ」
その言葉は明快だった。
家の中でも、
学園でも、
ずっと押しつけられてきたラベルのすべてを、順番に否定している。
だが、今夜必要なのはそこから先だ。
役ではない。
ならば何か。
セレスティアは、そこでほんの一瞬だけ目を閉じた。
幼い頃。
礼儀作法。
婚約者教育。
高位令嬢としての気高さ。
舞踏会の断罪舞台。
夜庭での涙。
地下機構の冷たい選定。
それらすべてが、胸の中を通り過ぎる。
そして最後に残ったのは、意外なほど単純なことだった。
ただ、自分として生きたい。
それだけ。
彼女は、目を開く。
「わたくしは」
ともう一度。
「セレスティア・フォン・ローゼンベルクとして生きますわ」
その声は、先ほどまでよりずっと強かった。
「ローゼンベルク家の娘であることは否定しません」
彼女は続ける。
「高位令嬢であることも、わたくしの一部なのでしょう」
一拍。
「ですがそれは、“役”として誰かの都合へ収まるためではありません」
光が、大きく揺れる。
「王子殿下の婚約者役だから立つのではなく」
セレスティアの赤い瞳が、真正面を射抜く。
「悪役令嬢役だから戦うのでもなく」
さらに一歩。
「わたくしがセレスティア・フォン・ローゼンベルクだから、わたくしの足でここに立つのです」
最後の一言は、地下空間にひどくはっきり響いた。
悪役令嬢要素。
高位令嬢要素。
婚約者要素。
その全部を背負ってなお、
それらへ飲み込まれず、
私は私だ
と言い切る。
それは、この世界の機構にとって最も理解しにくい宣言だったのかもしれない。
◇
次の瞬間、魔導陣がひどく大きく明滅した。
「来る!」
ルシアンが叫ぶ。
最後の反応波だ。
だが今までと違う。
押し戻すためのものではなく、むしろ定義の失敗に対する演算の乱れに近い。
王家紋とローゼンベルク家紋をつなぐ線がねじれ、
婚約補助の円環がぶつぶつと途切れ、
“適合”“対置”“継承”の文字が一斉に読めなくなるほど崩れていく。
「停止ではない」
ルシアンは銀板を見ながら言う。
「だが……主論理の固定が外れる!」
ミレーユが祈りの言葉を重ねる。
アルフレッドは王家紋側へ向けて一歩出る。
ガイゼルは何かあれば即座に動ける位置へ。
霊真はただ、セレスティアが最後まで立てるよう、少し後ろで見ている。
そして、その中心で、セレスティアはもう一度言った。
「わたくしは、役へ戻りませんわ」
その言葉に呼応するように、装置の光がついに大きく沈んだ。
完全に消えたわけではない。
だが、さっきまでのように“強制ルート固定”をかける力は、明らかに弱まっている。
王家紋はまだ残る。
ローゼンベルク家の紋も、聖職側の刻印も消えていない。
つまり、機構そのものは生きている。
だが、
悪役令嬢を悪役令嬢役へ押し込み、そこから物語全体を固定する
という最も露骨な機能は、大きく傷ついたのだろう。
「止まり……ましたの?」
ミレーユが小さく言う。
「完全には」
ルシアンが答える。
「ですが“強制ルート固定”の力は相当弱まっています。少なくとも、以前と同じ精度ではもう働けない」
アルフレッドが、そこでようやく深く息を吐いた。
「それで十分だ」
と王子。
「今夜は、十分すぎる」
◇
しばらくして、全員がようやく少しだけ肩の力を抜いた。
ガイゼルが先に口を開く。
「つまり、まとめると」
彼は腕を組む。
「悪役令嬢ルートの固定はかなり潰れた。王子ルートも、本来ヒロインルートも、前みたいな“分かりやすい形”へは戻りにくくなった。そういうことか」
「ええ」
ルシアンが頷く。
「しかも、主軸座標のずれはそのままです」
「主軸座標」
とミレーユ。
「レイシンさん中心です」
とルシアンは、もはや隠す気もなく言った。
霊真は少しだけ首をかしげた。
「そうでしたか」
「そうです」
ルシアンは即答する。
「ですから、今後も接触イベントと競合感情の発生頻度は高止まりする可能性があります」
その理屈っぽい言い方に、ガイゼルが吹き出す。
セレスティアも、今度はちゃんと笑った。
「要するに」
と彼女。
「攻略対象全員の様子は、今後もおかしいままということですわね」
「かなり乱暴ですが」
ルシアンは少しだけ息を吐く。
「だいたい合っています」
その言い回しが、妙に可笑しかった。
学園での断罪ルートが壊れ、
地下機構が見つかり、
実家イベントで婚約補助魔導式が暴かれ、
そして今夜、悪役令嬢自身が“自分で自分の物語を選ぶ”と宣言して、強制ルート固定を傷つけた。
ここまで来てもなお、
中心にいる男だけが相変わらず少しずれているのだから、本当にこの世界はどうしようもない。
◇
「次は」
とオルバスが言った。
学園長はここまで黙って全体を見ていたが、今になってようやく口を開いた。
「王都中枢だな」
その一言で、空気が少し引き締まる。
「やはり」
アルフレッドが頷く。
「ええ」
ミレーユも続く。
「礼拝堂の聖具も、学園地下機構も、この屋敷の婚約補助式も、全部がどこかへ繋がっている感じがございますもの」
ルシアンが銀板を畳みながら言う。
「主機構のさらに上位。王都中枢にある本機構」
一拍。
「これを探らねば、根は切れません」
セレスティアは、そこで少しだけ目を伏せた。
疲れているはずだ。
けれど、その口元にはもう今夜の弱さだけではない強さがある。
「でしたら」
と彼女。
「次は王都ですわね」
王子が頷き、
聖女候補が微笑み、
天才魔術師が面倒そうな顔で同意し、
騎士が肩を回す。
そして霊真は、そんな皆を見て静かに言った。
「以前より、皆さまよいお顔でおられるかと」
また、それだ。
セレスティアは少しだけ笑って、今度は素直に答えた。
「ええ」
と彼女。
「悪役令嬢役へ戻るくらいなら、今のほうがずっとましですもの」
その言葉が、この章の最後にふさわしかった。
役を押しつける世界に対して、
悪役令嬢は、自分で自分の物語を選んだのだ。




