第68話 史上最年少阿闍梨、選定機構そのものへ説法を始める
ローゼンベルク家の地下小祭壇は、もはや静かな儀式場ではなかった。
九十九院霊真は、薄赤く脈打つ魔導陣の中心を見つめながら、その場の空気が“怒っている”ことをはっきり感じていた。
怒っている。
あるいは、焦っている。
王子は王子役へ戻らない。
本来ヒロインも、守られるだけの役へは戻らない。
悪役令嬢は悪役令嬢役を拒絶した。
聖女候補は見守るだけの清らかな位置へ退かず、
騎士も便利な護衛役に収まりきらない。
天才魔術師に至っては、孤高の攻略対象らしさより執着のほうが前へ出てきている。
つまり、配置が全部崩れているのだ。
それを、世界の側が――いや、正確にはこの王朝由来の選定機構が、なんとしてでも戻したがっている。
「まだ、来ます」
とルシアン・エーデル=クロイツが低く言った。
測定具の銀板が細かく震え、端に刻まれた線が不規則な波を描く。
「主機構側からの押し返しです。こちらの支流だけでは処理しきれないと判断し、もっと強い“基準”を持ち込もうとしている」
「基準」
とアルフレッド。
「ええ。役を固定するための、もっと根本的な補正です」
ルシアンの声は冷たい。
「次はたぶん、“誰が主軸か”そのものを強く定義しに来る」
それは、かなりまずい話だった。
今まではまだ、悪役令嬢ルートだの本来ヒロインルートだの、比較的分かりやすい形の押し戻しだった。
だが“主軸そのものの定義”となると、物語全体の土台が再び固定されかねない。
王子は主役。
本来ヒロインは選ばれる側。
悪役令嬢は対置され、落とされる側。
他の攻略対象は、それらを彩る位置へ。
そこへもう一度強く戻されれば、昨夜から今夜まで積み上げた抵抗が、水の泡になる可能性もある。
「……面倒ですわね」
セレスティア・フォン・ローゼンベルクが、まだ少し苦しそうな呼吸のまま言った。
「ええ」
ミレーユが静かに答える。
「本当に」
全員が疲れている。
だが、誰も退く顔はしていなかった。
そしてその中心で、霊真はふと気づいた。
ここまでずっと、自分たちは“拒絶”ばかりをしている。
戻らない。
役ではない。
押し込めるな。
それは正しい。
必要なことだ。
だが相手は機構だ。
古い制度の魔導装置であり、選定と配置のために作られた王朝の仕組みだ。
ただ壊すだけでも、
ただ拒絶するだけでも、
足りないのではないか。
「……少し」
と霊真が言った。
「よろしいでしょうか」
皆の視線が集まる。
「何だ」
とアルフレッド。
「この機構へ」
霊真は魔導陣を見た。
「直接、申し上げたほうがよい気がいたします」
一瞬、地下空間が静まった。
ルシアンが最初に反応する。
「申し上げる?」
「はい」
「何を」
「よくないことは、よくないと」
あまりにも霊真らしい返答で、ガイゼルが一瞬だけ顔を覆った。
ミレーユは笑いそうになるのをこらえ、
アルフレッドは真面目に考え込む。
セレスティアだけが、少しだけ目を細めた。
「……説法、ですの?」
と彼女。
霊真はごく自然に頷いた。
「そう呼ぶのでしょうか」
「たぶん、そうですわね」
セレスティアは苦しい中でも、ほんの少しだけ笑った。
「この状況でそれを思いつくの、本当にあなただけですわ」
◇
「待ってください」
とルシアンがすぐ言った。
「理論上は不可能ではない」
全員が彼を見る。
今のは止める流れかと思ったのだろう。
だがルシアンは本気だった。
「この機構は、感情や役割認識に反応する」
彼は早口で言う。
「つまり、単なる物理的な装置ではない。概念的な命令、あるいは意味づけにも応答している可能性がある」
「それが説法でどうなる」
とガイゼル。
「説法という言葉が嫌なら“意味干渉”でもいい」
ルシアンは苛立たしげに言った。
「機構は“人を役へ押し込めることが善”だと認識している。ならば、その前提そのものへ別の意味をぶつけられれば、演算が乱れる可能性はある」
「難しい言い方をやめてくださる?」
とセレスティア。
ルシアンは一拍だけ黙ってから言い直した。
「この装置に、“それは間違っている”と理解させられれば、少しは止まるかもしれない、ということです」
かなり無茶な話だった。
だが、この場にいる者たちはもう、常識的な線だけで戦ってはいない。
悪役令嬢ルートの断罪を壊し、
地下機構を見つけ、
婚約補助魔導式と接続し、
役そのものを拒絶して、ここまで来たのだ。
今さら“説法は非常識だからやめよう”と言う者はいなかった。
「できるのであれば」
とミレーユ。
「やってみる価値はありますわ」
「私も同意する」
アルフレッドが頷く。
「このまま押し合いを続けるだけでは、いずれもっと大きな反動が来るかもしれん」
「なら」
とガイゼル。
「阿闍梨様、頼んだ」
雑な振り方だが、信頼は本物だ。
セレスティアは、霊真を見た。
その目は、疲れていて、それでも強かった。
「……わたくしも」
と彼女。
「聞きますわ」
その一言が妙に重い。
自分の人生を“役”にされてきた少女が、
今、その仕組みそのものへ何が語られるのかを聞くと言っているのだから。
◇
霊真は、ゆっくりと魔導陣の中央へ歩み出た。
王家の紋。
ローゼンベルク家の紋。
婚約と継承を結ぶ古い刻印。
そのすべてが、自分の足元で薄赤く脈打っている。
嫌な感じだ。
冷たいのに、どこか人の欲に似ている。
整えたい。
分かりやすくしたい。
選びたい。
落としたい。
そうした願いが、長い年月をかけて制度になったような感触。
だから霊真は、目を閉じて一度だけ呼吸を整えた。
これは祈りではない。
だが、祈りに近い。
説法というなら、そうなのだろう。
人ではなく、仕組みへ向けた言葉だ。
「……人を」
と彼は静かに言った。
「役へ押し込めても、安らぎにはなりません」
部屋の空気が、そこで少しだけ止まる。
声は大きくない。
けれど不思議なくらい、石壁にも、床の魔導紋にも、まっすぐ染みていく感じがあった。
「王子を王子役へ」
と霊真。
「婚約者を婚約者役へ。本来ヒロインを本来ヒロイン役へ。悪役令嬢を悪役令嬢役へ。そうして整えたつもりでも、それは人を楽にはしません」
薄赤い光が、わずかに脈動を乱す。
ルシアンの測定具が小さく震えた。
彼は何も言わない。
今は、数値よりもこの言葉のほうを見ている。
「よい関係は」
霊真は続ける。
「落とされる役を作って成り立つものではないかと」
その一言に、セレスティアの指先が小さく揺れた。
悪役令嬢。
対置役。
断罪されるために置かれた側。
その役をずっと背負わされてきた彼女にとって、それはたぶん何より聞きたかった否定だった。
「正しさは」
霊真は魔導陣の中心を見た。
「誰か一人を“そういう役だから”と決めることではないはずです」
光が、今度ははっきりと乱れた。
王家紋をめぐる輪が一瞬だけ暗くなり、
ローゼンベルク家の結び紋が逆向きに明滅する。
「効いている……!」
ルシアンが低く呟く。
「意味干渉、成立している」
だが同時に、機構も黙ってはいなかった。
祭壇奥から、今までで最も強い圧が返ってくる。
選べ。
整えよ。
配置せよ。
物語として安定する形へ戻れ。
そんな無言の命令が、部屋全体へ押し寄せた。
ミレーユが胸元を押さえ、ガイゼルが歯を食いしばり、アルフレッドも目を細める。
そしてセレスティアのほうへ、またはっきりと悪役令嬢役への引力が向かった。
冷たくあれ。
高慢であれ。
本来ヒロインへ嫉妬せよ。
婚約者として正しく対置されよ。
「……っ」
セレスティアの体が大きく揺れる。
「ローゼンベルク殿!」
霊真が振り向く。
彼女は歯を食いしばっていた。
苦しいはずだ。
だが、その赤い瞳は折れていない。
「戻りませんわ」
と彼女は言う。
「何度でも、申し上げます。わたくしは戻りません」
それに呼応するように、霊真ももう一度前を向いた。
「聞いていただきたい」
と彼は機構へ言う。
「人は役ではなく、人そのものとして見られたほうがよいかと」
古い王朝装置へ向けるには、あまりにも素朴な言葉だった。
だがその素朴さが、逆に機構の演算を乱しているのだろう。
意味が違いすぎるのだ。
選定機構は、人間関係を制度として整える。
霊真は、人を人として見ろと言う。
その食い違いが、装置の中で大きな軋みを生んでいる。
「落とされる役を作らぬこと」
と霊真は続ける。
「それが、まず必要かと」
光が弾けた。
◇
「来ます!」
ルシアンが叫んだ。
「最後の補正波です!」
それは今までよりずっと大きかった。
部屋全体が揺れる。
祭壇奥の紋様が一斉に開き、婚約補助式と学園地下の主機構が直結したように光の線が走る。
そしてその波は、迷いなくセレスティアへ向かった。
やはり最後に固定したいのはここなのだ。
悪役令嬢を悪役令嬢へ戻せば、王子も本来ヒロインも、それぞれ“分かりやすい位置”へ整いやすくなる。
だから世界は最後に、彼女を叩き込もうとしている。
「セレスティア!」
アルフレッドが声を上げる。
王子としてではない。個人としての声だった。
ミレーユも祈りの言葉を重ねる。
ガイゼルは一歩前へ出る。
ルシアンは測定具を最大出力に切り替えた。
霊真は、もう説法を止めずにそのまま続けた。
「その方は」
と彼は機構へ向けて言う。
「落とされるために生きているのではありません」
言葉と、最後の補正波が正面からぶつかる。
霊真には、見えた気がした。
古い装置の中にある“当然”が、
ほんの少しだけ揺らぐのを。
悪役令嬢は、物語のために必要。
本来ヒロインを立てるために必要。
王子の正しさを美しく見せるために必要。
その当然へ、
必要ではない
と、真正面から言ったのだ。
次の瞬間、セレスティアがはっきりと顔を上げる。
その目には、涙ではなく怒りと誇りがあった。
「わたくしは」
と彼女は言った。
「悪役令嬢役など必要としておりませんわ」
その声が、補正波の中心へ刺さる。
光が、大きく裂けた。
◇
しばらくのあいだ、誰も動けなかった。
魔導陣の光はまだ残っている。
だが先ほどまでの“押しつける意志”は明らかに弱まっていた。
少なくとも、同じ強度での強制固定はできていない。
ルシアンが荒く息を吐く。
「……完全停止ではない」
と彼。
「ですが、主軸の論理がかなり崩れました」
「つまり」
とガイゼル。
「悪役令嬢役を最後に固定して全体を戻す算段が、通らなくなった」
ルシアンは銀板を見ながら答える。
「ローゼンベルク嬢個人が、それを論理ごと拒絶したうえに、レイシンさんが“そもそも落とされる役は必要ない”と意味干渉したせいで」
言い方は相変わらず理屈っぽい。
だが、少し声が震えていた。
興奮しているのだろう。
セレスティアは、まだ少し息を乱しながらも立っている。
今度は支えがなくても、ちゃんと。
霊真はその姿を見て、小さく息を吐いた。
悪役令嬢要素は強いままだ。
むしろ、ここまで来ると彼女は“悪役令嬢という属性を背負わされながら、それを拒絶し続ける本命ヒロイン”みたいな位置にいる。
それでも今は、その言い方すら少し違う気がした。
彼女は、誰かの都合のよい属性ではなく、
自分で自分の立ち位置を選び始めているのだから。
「……本当に」
とセレスティアが小さく言った。
「史上最年少阿闍梨というのは、地下の古代魔導機構にまで説法するものなのですのね」
その言い方に、少しだけ笑いが戻る。
疲れた笑いだ。
だが、さっきまでよりずっとましな空気の笑いだった。
「必要であれば」
と霊真。
「そういうところですわ」
セレスティアは言った。
そして、今度はちゃんと笑った。




