第67話 本来ヒロインも王子も、もう昔みたいな配置には戻れません
ローゼンベルク家の地下小祭壇は、まだ低く唸るように脈打っていた。
九十九院霊真は、セレスティア・フォン・ローゼンベルクを支えたまま、空気の重さが少しずつ質を変えていくのを感じていた。つい先ほどまでの圧は、悪役令嬢を悪役令嬢役へ押し戻そうとする、ひどく露骨で分かりやすいものだった。
婚約者役へ戻れ。
高位令嬢役へ戻れ。
冷たく、気高く、嫉妬深くあれ。
本来ヒロインの対置役として立て。
そうした押しに対し、セレスティアははっきりと拒絶した。
その結果、魔導陣は乱れた。
乱れた。
だが、止まってはいない。
「まだ終わっていません」
とルシアン・エーデル=クロイツが低く言う。
測定具の銀板は、先ほどから細かく明滅し続けている。
「ローゼンベルク嬢一人を戻すだけで収拾できないと、機構が判断し始めた」
「つまり?」
とガイゼル。
「全配置の再固定です」
ルシアンは顔も上げずに答えた。
「王子を王子役へ。本来ヒロインを本来ヒロイン役へ。聖女候補を見守る役へ。攻略対象を攻略対象らしい位置へ。全体で元に戻そうとしている」
それは、かなり最悪だった。
セレスティアだけの問題ではない。
皆まとめて、以前の“分かりやすいエロゲ的配置”へ押し戻されるということなのだから。
その瞬間、アルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタインが、小さく息を吐いた。
「やはり、来るか」
王子の顔色は悪くない。
だが、その目の奥に不快がはっきりある。
「何を感じておいでですの」
とミレーユ・セラフィナ。
アルフレッドは少しだけ眉を寄せ、それから答えた。
「“正しさ”だ」
一拍。
「王子として、最も正しく、美しく、周囲を納得させる配置へ戻れという圧」
霊真はその言葉の意味を、すぐに理解した。
昨夜の舞踏会でもそうだった。
アルフレッドはずっと、“王子らしい判断”を期待されていたのだ。
庶民出身の善良な少女を選び、
高位の婚約者を切り捨て、
正しげな物語を完成させる王子。
それが、この世界の機構にとっては最も“整った王子役”なのだろう。
「腹が立つ」
とアルフレッドは、珍しく率直に言った。
「私は王子であることを捨てるつもりはない。だが、“そういう結末に都合のよい王子役”へ戻れと言われるのは、やはり我慢ならん」
その声には、もう迷いがなかった。
◇
次に反応したのは、ミレーユだった。
礼拝堂で聖具の神託を受けた時と同じように、彼女は胸元へ指を当て、わずかに目を閉じる。
すると、祭壇奥の光がふっと揺れた。
「……来ていますわね」
と彼女は言う。
「今度はわたくしにも」
「どのような」
と霊真。
ミレーユは目を開き、静かに答える。
「清らかであれ、と」
と彼女。
「見守る者であれ。中へ入らず、誰も傷つけぬ位置から、祈りだけを捧げよ、と」
その言い方はやわらかい。
だが、やわらかいぶんだけ不気味だった。
聖女候補に求められる“正しさ”。
恋も、嫉妬も、個人的な欲もなるべく見せず、
ただ見守り、
導き、
最後に誰かの幸福を祝福するだけの役。
それはたしかに、物語としてはきれいだ。
きれいすぎるくらいに。
「……見守るだけなど」
ミレーユは少しだけ笑った。
「今さら無理ですわね」
その声音には、自嘲と決意が半分ずつ混じっていた。
「昨夜の時点で、わたくしはもうかなり自覚しておりますもの」
と彼女。
「尊敬だけではない気持ちを抱いているのに、それをなかったことにして“聖女候補らしく見守ります”など、偽りにもほどがありますわ」
礼拝堂での夜。
静かな長椅子。
神託より恋のほうがやや騒がしいと、彼女はたしかに言っていた。
つまりミレーユもまた、もう以前の配置へ戻れない。
「偽りの役を退けよ、でしたね」
と霊真。
ミレーユは微笑んだ。
「ええ。ですから今はっきり申しますわ」
彼女は魔導陣を見た。
「わたくしは、“ただ見守るだけの聖女候補役”へ戻るつもりはありません」
その言葉が落ちた瞬間、祭壇奥の光がまた乱れた。
今度は、少し鋭く。
「効いています」
ルシアンがすぐ言う。
「やはり各自の拒絶が干渉点です」
◇
「だったら次は俺かよ」
そう言って肩を回したのは、ガイゼル・ヴァン・ドレイクだった。
彼はこういう場でも妙に普段どおりだ。
いや、普段どおりに見せているだけかもしれない。
だが、その雑さが今はむしろありがたい。
「何を感じる」
とアルフレッド。
「感じるってほど上品じゃねえが」
ガイゼルは鼻で笑う。
「“便利な騎士でいろ”って感じはするな」
それは、いかにも彼らしい表現だった。
「護衛役」
とルシアンが言い換える。
「本来ヒロインや王子や悪役令嬢の周辺で、適切に剣を振り、都合よく支え、個人的な感情は後回しにする攻略対象」
「そう、それ」
ガイゼルはうんざりした顔で言った。
「俺、昔は別にそれでもよかったんだよ。分かりやすかったしな」
一拍。
「でも今は無理だ」
その短い一言に、妙な熱があった。
「俺は俺で考えてるし、見てるし、腹も立てる」
とガイゼル。
「誰かに“お前は騎士枠だからここで剣だけ振ってろ”って言われるの、思ったよりムカつく」
まっすぐだ。
まっすぐで、雑だ。
だが、だからこそ力がある。
「ですので」
ガイゼルは顎を上げる。
「俺も戻らねえよ。便利な騎士役にはな」
その言葉で、また魔導陣の光が揺れる。
雑に見えて、確かに効いている。
この世界の機構は、綺麗な“役割宣言”だけでなく、こういう率直な拒絶にも弱いらしい。
「本当に雑ですが」
ルシアンが言う。
「極めて有効です」
「褒めてんのかそれ」
「半分は」
「半分かよ」
こんな状況でさえ、少し笑いが混ざる。
それが逆に、全員が役ではなく自分として立ち始めている証拠みたいだった。
◇
そして、最後に残ったのはリリアーナだった。
……いや、正確には、この場に彼女はいない。
だからこそ、その不在が少しだけ重かった。
「フェアミントさんがここにいないのは痛いですね」
ルシアンが低く言う。
「呼べないのか」
とアルフレッド。
「今この場で急に呼ぶのは危険です」
ミレーユが首を振る。
「しかも彼女は彼女で、学園側の本来ヒロイン押し戻しを受けている最中でしょう」
たしかにそうだ。
本来ヒロイン。
庶民出身。
善良で、守られる側。
悪役令嬢と対置され、
最後に王子と結ばれる位置へ押されやすい少女。
それがリリアーナに与えられた役だ。
けれど彼女も、昨夜の舞踏会でそこから一歩外れた。
脅迫文と禁制品の噂が、どう構造的に広がったかを自分で調べ、自分で言った。
庇われるだけの本来ヒロイン役から降りて、自分の足で立ち始めている。
「いないなら、代わりに俺が言う」
とアルフレッドが静かに言った。
全員が王子を見る。
「フェアミント嬢も、戻らない」
と彼は続ける。
「少なくとも今の彼女は、“守られるだけの本来ヒロイン”へ簡単に戻るつもりはない。私はそう見ている」
王子のその言葉には、妙な重みがあった。
なぜなら、それは“王子が本来ヒロインを選んで庇う”という役割的な言葉ではなく、
リリアーナ自身が変わったことを、ちゃんと人として見ている言葉だったからだ。
「私もそう思いますわ」
とミレーユ。
「ええ」
ガイゼルも頷く。
「アイツ、もう前みたいな“守ってもらうだけの子”じゃねえしな」
霊真も静かに口を開いた。
「リリアーナ殿は、既に立っておられるかと」
と彼。
「本来ヒロインであっても、自分で考えて、自分で言葉を選びたいと仰っておりましたので」
その一言が、見えない場所にいるリリアーナの代弁になった。
「でしたら」
ルシアンが測定具を見ながら言う。
「理論上は十分です。今ここで“本来ヒロイン役も戻らない”と世界へ返せる」
そして彼は、少しだけ息を吸う。
「つまり、役割の主要点が全部拒絶される」
王子。
本来ヒロイン。
悪役令嬢。
聖女候補。
騎士。
皆が、昔みたいな配置には戻れないと明言する。
それが今、この小祭壇で起きているのだ。
◇
霊真は、セレスティアを支えたまま、魔導陣の中心を見た。
世界は修正したがっている。
悪役令嬢を悪役令嬢へ戻したい。
本来ヒロインを本来ヒロインへ戻したい。
王子を王子らしい主人公へ戻したい。
けれど、本人たちはもう違う。
違ってしまったのではない。
たぶん、ようやく自分で選び始めたのだ。
「皆さま」
と霊真は静かに言う。
「以前より、よいお顔でおられるかと」
その一言に、何人かが同時に息を止めた。
ルシアンは困ったように眉を寄せ、
ミレーユは少しだけ笑い、
ガイゼルは「そういうこと平然と言うよな」とでも言いたげな顔をし、
アルフレッドは短く目を閉じた。
そしてセレスティアは、苦しい呼吸の合間に、それでも小さく笑った。
「……ええ」
と彼女。
「戻るより、こちらのほうがずっとましですわ」
その言葉が、決定的だった。
魔導陣が、一瞬だけ大きく乱れる。
王家紋とローゼンベルク家紋を結ぶ線が揺らぎ、
婚約補助の輪が歪み、
祭壇奥の刻印が微かに明滅する。
「全点拒絶が入りました」
ルシアンの声は、興奮を抑えきれていない。
「戻せない。少なくとも、以前と同じ配置にはもう戻せない」
それはつまり、
本来ヒロインも王子も、そして悪役令嬢も、
もう昔みたいな“分かりやすいエロゲ的配置”へは戻れないということだった。
◇
もちろん、それで全部が解決したわけではない。
むしろ世界の修正力は、ここからもっと強くなるかもしれない。
学園地下の主機構も、王都中枢にあるかもしれない本機構も、まだ動いている可能性が高い。
それでも今夜一つはっきりしたことがある。
役を拒絶する意思は、ちゃんと効く。
そして、その意思はもう一人ではない。
セレスティアだけでもない。
アルフレッドだけでもない。
リリアーナ、ミレーユ、ガイゼル、ルシアン。
皆がそれぞれ、自分の位置を“役”ではなく“自分”で選び始めている。
その事実が、今の世界にとっては一番厄介なのだろう。
「……本当に」
とアルフレッドが低く言った。
「ここまで来ると、私たちのほうが“おかしい”のかもしれんな」
「今さらでしょう」
ルシアンが即答する。
「おまえにだけは言われたくねえな」
とガイゼル。
ミレーユは上品に微笑む。
「ですが、今のおかしさのほうが、以前の正しさよりずっと健全ですわ」
その言葉に、セレスティアがわずかに頷いた。
「ええ」
と彼女。
「わたくしもそう思います」
悪役令嬢らしくない返事。
だが、それでよかった。




