第66話 世界は悪役令嬢を戻したい、でも本人は戻る気がまるでありません
ローゼンベルク家の夜は、静かなくせに眠ってはいなかった。
九十九院霊真は、客室に戻されたあともしばらく眠れずにいた。屋敷の空気そのものが、昼間よりもむしろ濃くなっている気がしたからだ。人の気配が多いわけではない。むしろ夜更けの貴族屋敷らしく、足音も話し声も最小限しかない。
だが、見えない“役割”の圧だけが増している。
婚約。
血筋。
選定。
王家と高位家門を結ぶ補助魔導式。
昼に見た応接の間。
夕方に見た小部屋の魔導陣。
夜庭で泣いたセレスティアの横顔。
それら全部が、まだ胸のどこかへ残っていた。
「……起きておられますか」
小さく扉を叩く音がしたのは、深夜と呼んでよい時間だった。
霊真が扉を開けると、そこにいたのはミレーユ・セラフィナだった。
夜着の上に薄い外套を羽織っている。髪も完全にはほどいておらず、急いで出てきたのが分かる。
「どうなさいましたか」
と霊真。
「来てくださいまし」
ミレーユは、珍しくかなり真剣な顔で言った。
「地下の気配が、急に強くなりましたの」
その一言で、眠気も何も飛んだ。
◇
屋敷の地下へ向かう頃には、アルフレッド、ルシアン、ガイゼル、オルバスもすでに動いていた。
ローゼンベルク家の婚約補助魔導式が安置されているあの小部屋へ近づくにつれ、空気が変わっていく。昼間より明らかに強い。壁の石に刻まれた古い紋様が、月のない地下でかすかに赤みを帯びて見えた。
「最悪です」
とルシアンは低く言った。
「機構が自律起動しています」
「何が引き金だ」
とアルフレッド。
「断罪ルート崩壊後の再選定シークエンスが、屋敷側の婚約補助式と接続した」
ルシアンは歩きながら答える。
「学園地下で乱れた分を、こちらで補おうとしているのでしょう」
「補う」
と霊真。
「ええ。つまり“壊れた役割配置を、より強く戻す”」
それは要するに、世界が悪役令嬢を元の位置へ押し戻そうとしているということだった。
小部屋の扉を開いた瞬間、その推測は確信へ変わった。
魔導陣が、昼間とは比べものにならないほど明るく脈打っていたのだ。
中心にある王家紋。
それを囲むローゼンベルク家の結び紋。
婚約、継承、適合を示す古い文字列。
それらが順番に光り、次第に速度を増し、まるで一つの物語を再上演しようとするみたいに回り始めている。
「抑えきれてない」
ルシアンが舌打ちする。
「学園地下の主機構と相互干渉してる」
「止められるか」
とオルバス。
「完全停止は危険です。反動が読めません」
ルシアンは魔導陣の縁へ膝をつき、測定具を広げる。
「ですが、このまま放置するともっと危険だ」
「具体的には」
アルフレッドが問う。
ルシアンは顔を上げずに答えた。
「役割固定です」
部屋の空気が一段冷える。
「王子は王子役へ。婚約者は婚約者役へ。本来ヒロインは本来ヒロイン役へ」
ルシアンの声は冷たい。
「今の装置は、それぞれを“もっとも物語として安定する位置”へ押し戻そうとしている」
そして、その中心にいるのは間違いなくセレスティアだった。
◇
「セレスティア様は」
とミレーユが言いかけた、その時だった。
部屋の奥、奥の壁の向こうから、かすかな物音がした。
足音ではない。
何かが揺れたような音。
霊真が一歩前へ出る。
ガイゼルも同時に動いた。
奥にはもう一つ、狭い通路があった。
昼間は気づかなかった。魔導陣の光が弱かったせいだろう。今は壁際の線がはっきり見え、その先へ小さな祭壇のような空間が続いているのが分かる。
そこに、セレスティアがいた。
「ローゼンベルク殿」
と霊真。
彼女は振り向いた。
だが、その顔色が昼間より明らかに悪い。
「……起きてしまいましたのね」
とセレスティア。
「やはり」
彼女は一人でここへ来ていたのだ。
いや、“呼ばれた”のかもしれない。
「なぜここへ」
アルフレッドが厳しく問う。
怒っているのではない。心配しているのだ。
セレスティアは、壁に手をついたまま苦く笑った。
「眠れませんでしたの」
と彼女。
「それで、少しだけ気配をたどってきたら……」
その続きを言う前に、魔導陣がさらに強く脈打った。
「下がれ!」
ガイゼルが叫ぶ。
だが、もう遅かった。
光が走る。
祭壇奥の紋様と中央の魔導陣がつながり、部屋全体へ薄い赤金の線が広がる。
その線の一部が、まるで生き物みたいにセレスティアの足元へ絡んだ。
「……っ」
彼女の体が大きく揺れる。
霊真は反射的に駆け寄った。
今度は距離とか、見た目とか、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「セレスティア殿」
肩を支える。
熱い。
体温そのものではない。魔導式の圧に当てられているのだ。
「何を見ていますか」
と霊真が問うと、彼女は苦しそうに目を閉じた。
「見ているというより……」
セレスティアは呼吸を整えようとしながら言う。
「押されておりますの」
「どこへ」
とミレーユ。
セレスティアの指先が小さく震えた。
「婚約者役へ」
と言う。
「王子の隣へ立ち、庶民娘を見下ろし、正しく嫉妬し、正しく高慢でいなさいと」
その言葉は、地下機構の冷たさよりずっと生々しかった。
悪役令嬢のテンプレート。
王子の婚約者であり、
本来ヒロインへ対置され、
最終的には断罪されるための高位令嬢。
それを、この魔導式はセレスティアへ直接押し戻そうとしているのだ。
「それだけではありませんわ」
セレスティアは続ける。
「“婚約を正しなさい”“庶民娘へ苛立ちなさい”“気高く、冷たく、嫉妬深くあれ”……そういう、いかにも分かりやすい役へ」
ルシアンが、珍しくはっきりと悪態をついた。
「下劣だ」
それは本当にそうだった。
人の中にある揺れや弱さを消して、
都合よく“悪役令嬢らしい感情”だけを増幅させようとしている。
しかもこの場所は、ローゼンベルク家の婚約補助式の中枢だ。
生まれる前から背負わされてきた役を、今ここでさらに強く上書きしようとしているのだとしたら、あまりにも悪質だった。
◇
「戻りませんわ」
セレスティアは、まだ霊真に支えられたまま、はっきりと言った。
その一言に、魔導陣の光がわずかに乱れる。
ルシアンがすぐ反応した。
「効いている。もっと明確に拒絶してください」
「……そんな言い方で」
ミレーユが眉を寄せる。
「今の彼女へ」
「ですが事実です」
ルシアンは冷たく言い返す。
「この機構は意思の明示に反応しています」
セレスティアは苦しそうに呼吸をしながらも、顔を上げた。
その赤い瞳には、涙ではなく、今は明確な怒りがある。
「戻りませんわ」
彼女はもう一度言う。
「婚約者役へも、悪役令嬢役へも。本来ヒロインの対抗役へも」
光がまた揺れた。
だが揺れたぶんだけ、今度は別の圧が返ってくる。
今度はアルフレッドのほうへだ。
王子が一瞬だけ顔をしかめる。
「……っ」
「殿下?」
とミレーユ。
アルフレッドは深く息を吸ってから、低く答えた。
「来るなと言っているのに、来る」
「何が」
とガイゼル。
「“正しい王子であれ”という押しだ」
アルフレッドは言った。
「婚約を整えろ。場を正せ。秩序のために冷静に、決断しろ。そういう、実に王子らしい圧だ」
世界の修正力は、セレスティアだけへ向かっているのではなかった。
王子は王子役へ。
本来ヒロインは本来ヒロイン役へ。
そして悪役令嬢は悪役令嬢役へ。
全員を、元のエロゲめいた配置へ戻そうとしているのだ。
「本当に面倒ですわね」
セレスティアが吐き捨てるように言う。
「ええ」
アルフレッドも即答した。
「非常に」
その短いやり取りが、妙に頼もしかった。
少なくとも今ここにいる二人は、もう昔みたいにその役へ素直に戻るつもりがない。
◇
ミレーユは小さく祈りの言葉を紡ぎながら、低く言った。
「礼拝堂の聖具でも、同じ方向を示しておりました」
「偽りの役を退けよ、でしたか」
と霊真。
「ええ」
ミレーユは頷く。
「ならば今、必要なのはそれですわ」
ルシアンも、魔導陣の縁へ追加の刻印を書き込みながら続ける。
「拒絶の意思が鍵です」
と彼。
「この機構は“役にふさわしい応答”を引き出したい。逆に言えば、本人たちがそれを拒めば反発が生じる」
「要するに」
ガイゼルが言う。
「“そういう役じゃねえ”って全力で言えってことか」
「極めて雑ですが、その通りです」
ルシアンは珍しく否定しなかった。
セレスティアは、そこで一度だけ目を閉じた。
再び開いた時、顔色はまだ悪い。
だが、その瞳の芯は昼間より強い。
「わたくし」
と彼女は言う。
「婚約者役へ戻りたくありません」
魔導陣が強く脈打つ。
それでも彼女は止まらない。
「気高く、冷たく、嫉妬深く、本来ヒロインへ対置されるための高位令嬢にも戻りませんわ」
一拍。
「断罪されるために立つ悪役令嬢にも、戻る気はまるでありません」
最後の一言で、光が大きく乱れた。
部屋全体が震える。
壁の紋様が明滅し、祭壇奥の線が逆流するみたいに揺れる。
「効いています!」
ルシアンが叫ぶ。
「続けて!」
セレスティアは苦しげに息をつく。
だが、ここで折れない。
「戻りませんわ」
ともう一度。
「わたくしは、あの舞踏会で一度ちゃんと拒みましたの。今さら世界の都合で戻るつもりはありません」
その声はもう、夜庭で泣いた少女のものだけではなかった。
泣いたうえでなお立つと決めた人の声だ。
◇
反動が来た。
今度は部屋全体の空気が一気に重くなる。
ミレーユが胸を押さえ、
アルフレッドが眉をしかめ、
ルシアンの測定具が異音を立てる。
「……強い」
とルシアン。
「学園側の主機構まで揺れています」
「まだ来るのか」
ガイゼルが舌打ちする。
「来るでしょうね」
ミレーユが苦しげに答える。
「“戻らせたい力”のほうも本気ですもの」
世界は悪役令嬢を戻したい。
婚約者役へ。
王子ルートの対置役へ。
あの分かりやすい断罪の位置へ。
だが本人は、まるで戻る気がない。
その衝突が、今まさにこの場で起きているのだ。
霊真は支えたまま、セレスティアの耳元へ届くくらいの声で言った。
「戻らぬほうが、よいかと」
セレスティアは息を整えながら、それでも少しだけ笑った。
「……ええ」
と彼女。
「分かっておりますわ」
その笑みは苦しい。
だが、折れてはいない。
そしてそれだけで、世界の修正力にとっては十分な抵抗だった。




