第65話 悪役令嬢、泣くのも気高く我慢していたけれど今夜は少しだけ無理でした
ローゼンベルク家の一角にある小さな夜庭は、屋敷の空気のわりに妙に静かだった。
九十九院霊真は、石造りの回廊を抜けてその庭へ出た瞬間、ようやく少しだけ息を吐いた。昼間から続く重い会話と、家門の論理と、婚約と選定の魔導式。屋敷の中はどこへ行っても“役”の気配が濃すぎて、普通に呼吸をするだけでも少し骨が折れる。
夜庭には低い噴水が一つあり、白い石で囲まれた小道の脇に夜咲きの花が植えられている。灯りは控えめで、月明かりのほうがよく見えるくらいだ。風は冷たくないが、昼間の緊張の熱を覚ましてくれるには十分だった。
そして、その庭の端にセレスティア・フォン・ローゼンベルクがいた。
一人で立っている。
白い外套の裾が夜気に揺れ、細い指が手すりへ軽く触れている。
姿勢は崩れていない。
背筋もまっすぐだ。
いかにも彼女らしい。
だが霊真には分かる。
あれは“平気だから立っている”のではない。
崩れたくないから、崩れぬ形だけ保っている立ち方だ。
応接の間を出てから、彼女は「少し一人にしていただけるかしら」とだけ言って部屋を離れた。
その時点で、霊真はたぶん少し気になっていた。
ローゼンベルク家の婚約補助魔導式。
幼いころから婚約者役として整えられてきたこと。
そして家族が、それを“損失”や“役割”の言葉でしか返さなかったこと。
あの場でセレスティアは確かに立っていた。
言い返してもいた。
だが、だから平気とは限らない。
むしろ立てたからこそ、その反動は後から来るのかもしれなかった。
「……お一人になりたいところへ、申し訳ありません」
霊真がそう声をかけると、セレスティアの肩がほんのわずかに揺れた。
振り返った顔は、思ったより落ち着いている。
落ち着いているのだが、そのぶんだけ目元の緊張が分かる。
「レイシン様」
名前を呼ぶ声も、まだ大きくは崩れていない。
「どうして、こちらに?」
「少し」
と霊真。
「気になりましたので」
セレスティアは、そこで小さく息を吐いた。
「そういうところですわね」
と彼女は言う。
「本当に」
その声音には、呆れ半分、安堵半分みたいな柔らかさがあった。
夜庭の噴水が静かに水音を立てている。
それ以外に、しばらく言葉は続かなかった。
霊真は、無理に話を促さない。
立ち去れと言われれば去るつもりで、だが今はその少し手前の場所へ留まる。
その距離感が、セレスティアには少しありがたかった。
◇
「……わたくし」
と、やがて彼女が言った。
「もう少し、平気だと思っておりましたの」
夜の庭は静かだ。
だから、小さな声でもよく聞こえる。
「何がでしょう」
と霊真。
「全部ですわ」
セレスティアはそう答えて、少しだけ視線を逸らした。
「家のことも。
婚約のことも。
幼い頃から“そういう役”として育てられてきたことも。
もう少し、冷静に受け止められると思っておりました」
彼女は手すりへ置いた指先へ、ほんの少しだけ力を込める。
「だって、薄々は分かっておりましたもの」
と彼女。
「この家が、わたくしを娘としてより“ローゼンベルク家の婚約者役”として見ていることくらい」
それはたぶん、嘘ではないのだろう。
セレスティアほど聡い人なら、ずっと前から気づいていたはずだ。
ただ、気づいていることと、それを事実として突きつけられることは別だった。
「ですが」
と彼女は続ける。
「いざ、あそこまで明確に見せられると……思ったより、きついものですわね」
その“きつい”という言い方が、逆に痛い。
平気ですとも言わず、
壊れそうですとも言わない。
その中間で、気高く残ろうとしている声音だった。
霊真は静かに頷いた。
「はい」
とだけ答える。
慰めるための安い否定をしない。
“そんなことはありません”とも言わない。
ただ、そのきつさをそのまま受け止める。
それが今は、一番よい気がした。
◇
「……役しか与えられてこなかったのね」
セレスティアは、ごく小さく繰り返した。
「さきほど自分で口にして、ようやく実感した気がしますの」
月明かりが横顔を照らす。
昼間の応接の間では、彼女はあの言葉を冷たく言い切った。
今夜のここでは、その同じ言葉が、ずっと柔らかく、そしてずっと深く聞こえる。
「王子殿下の婚約者役。
高位令嬢役。
そして、必要があれば悪役令嬢役」
彼女は一つずつ言う。
「全部、わたくしの前に“用意されていたもの”だったのでしょうね」
噴水の音が、妙に遠く感じられる。
「わたくし自身が何を望むかとか」
セレスティアは少し笑った。
笑ったが、うまく笑えていない。
「そういうことは、最初からあまり重要ではなかったのでしょう」
「よくありません」
と霊真は言った。
また、それだ。
難しい言葉ではなく、
まっすぐに、
真っ先に、
そこだけを言う。
セレスティアは少しだけ目を閉じた。
「ええ」
と彼女。
「本当に、よくありませんわね」
それを誰かに言ってもらえるだけで、どうしてこんなに苦しいのか、自分でも分からない。
たぶん、ずっと欲しかったのだ。
王家と家門の現実がどうとか、
適性が必要だったとか、
そういうもっともらしい説明ではなく、
ただ単純に、
「それはよくない」
と言ってくれる声を。
「……悔しいですわ」
とセレスティアは呟いた。
「何がでしょう」
「わたくし」
彼女は自分でも少し驚くほど素直に言った。
「思ったより、家のことが好きだったのかもしれませんの」
霊真は黙っている。
「嫌いなわけではなかったのです」
セレスティアは続ける。
「厳しくても、冷たくても、あれが当然だと思っておりましたし、少なくとも家としては正しいのだろうと」
一拍。
「でも、今日のあの言い方を聞いてしまったら」
夫人の、損失という言葉。
公爵の、役としての説明。
親族たちの、奇妙な面子だという視線。
あれらすべてが、セレスティアへ
「お前は娘である前に、婚約者役として価値がある」
と告げていた。
それは、思っていたよりずっときつかったのだろう。
「……少しだけ」
と彼女。
「悲しかったのですわ」
その“少しだけ”に、どれだけ無理があるかくらい、霊真にも分かった。
◇
夜庭の気配が、少しだけ揺れた。
風ではない。
人の気配だ。
おそらく、少し離れた回廊の角か、植え込みの陰あたりに誰かいる。
いや、“誰か”というより、たぶん複数だ。
この屋敷にいる使用人か、あるいは親族筋の若い者たちか。
悪役令嬢家の夜庭で、王子でもない異世界転移者と令嬢が二人きり。
それだけで、十分に“何かありそうな夜イベント”へ見えるのだろう。
まったく困ったものだ。
霊真は、その気配に気づきながらも、今は何も言わなかった。
セレスティアも、たぶん分かっている。
だが、今はそちらを気にしている余裕があまりない。
「……本当は」
とセレスティアが言う。
「泣きたくなどありませんの」
その一言で、霊真は彼女のほうを見た。
月明かりの下で、セレスティアの瞳はまだ赤くはない。
だがその赤い色の奥に、ぎりぎりのものが揺れている。
「気高くいたいですし。
強くいたいですし。
せめてこういう時くらい、“ローゼンベルク家の令嬢”らしく、涼しい顔でおりたいのです」
と彼女は続ける。
「でも、今夜は少しだけ……無理かもしれませんわ」
その声が、最後でほんの少しだけかすれた。
ああ、と思う。
ここなのだ、と。
今まで、彼女はずっと泣くことすら気高く我慢してきたのだろう。
悪役令嬢らしくあること。
高位令嬢らしくあること。
婚約者役として不足なく見えること。
その全部を背負ったまま、崩れそうになるたび内側へ押し込めてきた。
だが今夜は、その押し込め先がもう足りないのだ。
「泣いてもよろしいかと」
と霊真は静かに言った。
セレスティアは、そこで初めてはっきりと揺れた。
「……そんなに簡単に」
と言いかけて、
その先が続かなかった。
声が途切れる。
それでも彼女はまだ笑おうとした。
少しだけ、いつもの強気な顔へ戻ろうとした。
けれど、その途中で目元が耐えきれなくなる。
「わたくし」
と彼女は言った。
「せめて、もっと平然としていたかったのに」
次の瞬間、とうとう一粒だけ、涙が落ちた。
それを見た時、霊真はもう何も考えなかった。
ただ一歩だけ近づく。
「失礼いたします」
と、小さく言う。
セレスティアは逃げなかった。
逃げる余力も、たぶんなかった。
霊真は彼女の肩へそっと手を置き、崩れすぎぬよう支えた。
抱きしめる、というほどではない。
だが距離は近い。
夜の庭で二人きり。
月明かり。
泣き顔。
支える手。
どう考えてもエロゲ的にはかなり強い夜イベントだ。
だが当人たちにそんな余裕はない。
セレスティアは最初、肩を強張らせた。
それでもすぐには離れない。
数秒たって、ようやく少しだけ力を抜く。
「……本当に」
涙声で言う。
「あなたは、こういう時だけずるいですわ」
「ずるい」
「ええ」
彼女は目元を押さえながら、でも完全には手を離さない。
「わたくしが一番、崩れてはいけない相手の前で、一番崩れやすくしてしまうのですもの」
その言葉には、かなりはっきりした信頼と好意が混ざっていた。
離れた回廊の陰で、また気配が揺れた。
たぶん誰かが息を呑んだのだろう。
だが今は、どうでもよかった。
◇
少しのあいだ、セレスティアはそのまま静かに泣いた。
声を上げるわけではない。
大きく縋るわけでもない。
ただ、気丈に保っていたものが、今夜だけ少し溶けるように。
霊真は何も言わない。
言わないまま、彼女が完全に崩れないように支えている。
それが今は、一番よい気がした。
やがて、涙が少し落ち着いたころ、セレスティアは小さく息を吐いた。
「……見苦しいところを、お見せしましたわね」
「いいえ」
と霊真。
「そのようなことはありません」
またそうやって、変にまっすぐなことを言う。
「普通、こういう時は」
セレスティアは少しだけ困ったように笑った。
「“誰にも言いません”とか、そういう台詞ではなくて?」
「必要でしょうか」
「……必要かもしれませんわね」
と彼女。
「かなり」
少しだけ、空気が和らぐ。
「では」
と霊真は言う。
「誰にも申しません」
「ええ。そうしてくださいまし」
セレスティアは頷き、
それから小さく付け足した。
「できれば、今夜のわたくしは……“気高く泣いた”ということにしておいてくださいな」
「承知しました」
「本当に承知しないでくださる?」
「難しいのでしょうか」
「難しいですわ」
そのやり取りをしているうちに、セレスティアの呼吸はようやく少し整ってきた。
泣いたからといって、全部が軽くなるわけではない。
実家の圧も、婚約補助魔導式も、役を押しつけてくる世界の構造も何も解決していない。
それでも今夜だけは、少しだけ、内側の重さが外へ出た。
それはきっと必要なことだったのだろう。
◇
「レイシン様」
とセレスティアが静かに呼ぶ。
「はい」
「わたくし、もう役には戻りたくありません」
その言葉は、涙のあとのほうがむしろ強かった。
「王子の婚約者役でも。
悪役令嬢役でも。
ローゼンベルク家の便利な駒でも」
一拍。
「もう、あの頃のようには戻りたくありませんの」
霊真は静かに頷く。
「はい」
「ですから」
セレスティアは少しだけ目を細めた。
「次も、きっと立ちますわ」
その顔は、もうさっきまで泣いていた人の顔だけではない。
泣いたうえで、なお立つと決める人の顔だった。
「そのほうがよろしいかと」
と霊真。
セレスティアは、そこでようやくほんの少しだけ笑った。
「ええ」
と彼女。
「そう言っていただけると思っておりました」
夜庭の月は、少し高くなっていた。
悪役令嬢の実家イベントは、どう考えてもまだ終わらない。
むしろここからが本番かもしれない。
それでも今夜、セレスティアは一度ちゃんと泣いて、
それでも戻らないと口にできた。
その意味は、きっと小さくない。




