第64話 婚約と選定の魔術式――悪役令嬢家は昔から役を押しつけられていた
ローゼンベルク家の応接の間に落ちた沈黙は、静かというより重かった。
九十九院霊真は、その重さの質が学園のそれと違うことをはっきり感じていた。
学園での圧は、まだ若さと好奇心と“物語を見たがる熱”が混ざっていた。
けれどこの屋敷の圧は違う。
もっと古く、もっと制度的で、もっと逃げ場がない。
人を見ているようでいて、
実際にはその人がどの役目を果たせるかを見ている。
王子なら王子として。
婚約者なら婚約者として。
高位貴族令嬢なら、その家の駒として。
そしてセレスティア・フォン・ローゼンベルクは、この屋敷の中では真っ先に“娘”ではなく“婚約者候補”として見られているのだと、霊真にも分かった。
「屋敷内を見せる義務はない」
と公爵が言った。
声音は静かだ。
だが、静かだからこそ逆らいにくい類の冷たさがある。
「クロイツ卿、ここは学園ではない。学術調査のための場でもない」
ルシアン・エーデル=クロイツは一歩も退かなかった。
「ええ、存じています」
と彼。
「ですが、昨夜学園地下で確認したものと、こちらの紋様が明らかに系統を同じくしていた以上、無関係とは考えにくい」
「考えにくい、か」
公爵はわずかに目を細める。
「推測だな」
「現段階では」
ルシアンは頷く。
「ですが、かなり強い推測です」
親族席の一角がわずかにざわつく。
その反応だけで、霊真には十分だった。
図星なのだ。
完全な無関係なら、ここまで空気は揺れない。
セレスティアはそのざわめきを聞きながら、ゆっくりと目を伏せた。
怒りか。
失望か。
あるいは、とうとう確信してしまったことへの諦めか。
「……見せていただけないのでしたら」
と彼女は言った。
「わたくしから申し上げますわ」
部屋の空気が、そこでまた少しだけ変わる。
公爵が娘を見る。
夫人も。
親族たちも。
皆、止めるべきか、そのまま言わせるべきか、一瞬だけ計ったのだろう。
だがセレスティアは、もう止まらない顔をしていた。
「何をだ」
と公爵。
「ローゼンベルク家の“教育”についてです」
その言葉は、あまりに整っていた。
整っているのに、底に刃がある。
◇
「幼い頃より」
セレスティアは静かに言った。
「わたくしは、王子殿下の婚約者たるにふさわしく育ちなさいと教えられてきました」
霊真は、その声音の硬さに少しだけ胸が痛んだ。
これは単なる不満ではない。
もっと深いところに長く積もっていたものだ。
「座り方」
とセレスティア。
「笑い方。歩き方。食事の取り方。視線の上げ方。言葉の終え方。誰へどの程度微笑むべきか。どこで退くべきか。どこで気高くあるべきか」
彼女は一つ一つ、指折るように口にしていく。
「それら全部が、“ローゼンベルク家の娘として”ではありませんでしたわ」
一拍。
「“王子の婚約者役として”です」
重い言葉だった。
アルフレッドが、わずかに眉を寄せる。
ミレーユは目を伏せる。
ルシアンは露骨に不快そうな顔をした。
ガイゼルに至っては、もう隠しもしない。
「幼い頃のわたくしが何を好きか」
セレスティアは続けた。
「何が得意か。どう笑うと自然なのか。そういうことは、あまり問題ではありませんでしたの」
その言い方は淡々としている。
だが淡々としているぶんだけ、かえって痛い。
「重要なのは、“どう見えるか”でしたわ」
と彼女。
「王子と並んだ時に、いかに美しく整って見えるか。庶民や下位貴族の娘たちと比べて、いかに“上に立つ婚約者”として不足なく見えるか」
そこで彼女は、少しだけ笑った。
笑った、というより、口元が冷たく歪んだに近い。
「今になって思えば、あれは教育というより、配役でしたわね」
配役。
その単語に、地下機構で見た魔導紋の冷たさがそのまま重なる。
王子。
婚約者。
本来ヒロイン。
悪役令嬢。
対置。
選定。
それはもう偶然ではないのだろう。
◇
「セレスティア」
と夫人が低く言う。
「言葉を選びなさい」
その声には、母親としての怒りよりも、家の秩序を乱されることへの警戒が強かった。
「選んでおりますわ」
セレスティアは即座に返す。
「むしろ、今までずっと選ばされてきた側ですもの。これでもかなり整えております」
親族の一人が、不快そうに扇を閉じた。
「感情的すぎる」
と初老の女が言う。
「だからこそ、おまえはああいう場で誤解されるのだ」
その瞬間、ガイゼルが鼻で笑った。
「まだそれ言うのかよ」
全員の視線が彼へ向く。
だがガイゼルは構わない。
「“誤解されるような女だから悪役扱いされても仕方ねえ”って話に戻したいんだろ?」
と彼。
「もう無理だって。昨夜それ潰れたじゃねえか」
「ドレイク卿」
公爵が低く言う。
「何だ」
「ここは我が家の内輪の話だ」
「違うな」
ガイゼルは笑わなかった。
「地下機構と繋がってるなら、もう“内輪”じゃ済まねえよ」
その一言が、部屋へかなり露骨な揺れを起こした。
ミレーユが小さく息を呑み、
アルフレッドは静かに頷き、
ルシアンは“そう、それです”とでも言いたげな顔をする。
そう。
ここで起きていることは、もう単なる家族喧嘩ではない。
ローゼンベルク家が、学園地下機構と同じような“役割固定の論理”で動いているなら、
それは王家にも、
聖職にも、
そして学園そのものにも波及する問題だ。
◇
「……見せましょう」
不意に、そう言ったのは公爵だった。
全員が彼を見る。
夫人が「あなた」と小さく呼ぶ。
だが公爵は目だけでそれを止めた。
「隠しきれる段階ではない」
と彼は言う。
「昨夜の舞踏会が失敗し、地下機構が刺激され、君たちがここまで辿り着いた以上、もはや“家の教育方針”だけで誤魔化すのは無理だ」
その声音には諦めがあった。
だが同時に、まだ何かを守ろうとする硬さもある。
「ついて来なさい」
と公爵。
「ただし、見たからといって何もかも理解したつもりになるな。これはローゼンベルク家の都合だけで始まったものではない」
その言い回しが、逆に事態の大きさを示していた。
つまりこの家もまた、何かもっと大きな仕組みの一部に組み込まれているのだ。
◇
案内されたのは、屋敷の奥まった一画だった。
普段は使われていないらしい長い廊下。
絵画も、花も、装飾もほとんどない。
代わりに壁へ一定間隔で古い燭台があり、そこへ灯された小さな炎だけが道を照らしている。
屋敷の奥へ行くほど、空気が変わっていく。
霊真はそれを感じていた。
地下機構と似た気配。
だが学園のそれより、もっと家に密着している。
血筋。
婚約。
継承。
そうしたものの“重み”が、空気へ染み込んでいるようだった。
「この先ですわね」
セレスティアが小さく言う。
「知っているのか」
とアルフレッド。
「存在だけは」
彼女は答えた。
「幼い頃、一度だけ父に“ここにはローゼンベルク家の誇りが眠っている”と言われましたもの」
誇り。
その言葉が、今はやけに空虚に聞こえる。
公爵が廊下の突き当たりにある小部屋の扉へ手をかける。
重い音とともに扉が開いた。
中は、礼拝堂にも似た空間だった。
だが聖なる感じはない。
もっと静かで、
もっと制度的で、
もっと逃げ場のない部屋。
中央には円形の魔導陣。
学園地下機構ほど巨大ではないが、系統は明らかに同じだ。
王家の紋に近い線。
ローゼンベルク家の紋。
婚約を示すような結びの形。
そして、その周囲を囲む、古い王朝語の刻印。
ルシアンがほとんど条件反射で前へ出た。
「……やはり」
と彼。
「これは支流です。学園地下の選定機構と構造が繋がっている」
「婚約・継承・適合」
ミレーユが刻印を読み取るように呟く。
「こちらのほうが、より血筋と家門に寄っていますわね」
アルフレッドは顔をしかめた。
「つまり、ローゼンベルク家は昔から王家との婚約・選定に関わる家として、この機構を持っていたということか」
「持っていた、というより」
公爵が静かに言う。
「与えられていた、だな」
その言葉に、セレスティアがゆっくりと振り向いた。
「与えられていた……?」
「ローゼンベルク家は代々、王家の婚約と選定を補助する家として立てられた」
公爵は続ける。
「王位継承や正妃選定のたび、王家にふさわしい相手を“安定化”させる。そのための婚約補助魔導式を保有する役目を負ってきた」
霊真は、その説明を聞きながら、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。
やはりだ。
この家は、ただ婚約者にふさわしい令嬢を育ててきたのではない。
もっと前から、
王家の婚約者役を成立させるための家
だったのだ。
「つまり」
とルシアンが低く言う。
「ローゼンベルク家は、“婚約者役を背負いやすい血筋”として王朝装置へ組み込まれていた」
「その表現はあまりに身も蓋もないが」
と公爵。
「間違ってはいない」
身も蓋もない。
だが、そうとしか言いようがなかった。
◇
セレスティアは、その魔導陣を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
怒っているのか。
悲しいのか。
そのどちらでもあるのか。
表情だけでは読み切れない。
だが、彼女の肩がほんのわずかに強張っているのを霊真は見た。
「では」
と、やがて彼女は言った。
「わたくしは、生まれる前から“王子殿下の婚約者候補役”として用意されていた、ということですの?」
静かな問いだった。
静かだからこそ、痛い。
「そこまで単純ではない」
夫人が言う。
「適性は必要です。誰でもよかったわけではありません」
「ですが、誰であるかより“何であるか”が先だったのでしょう?」
セレスティアは返す。
「娘かどうかではなく、婚約者役に適しているかどうかが」
夫人は一瞬、口をつぐんだ。
それが答えだった。
セレスティアは笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、その赤い瞳だけが少しずつ冷えていく。
「……なるほど」
彼女は言う。
「ようやく、全部つながりましたわ」
その声音に、ミレーユが痛ましそうに眉を寄せる。
アルフレッドは何か言いかけて、だが言葉を選びきれない。
ルシアンですら、今は迂闊に理屈を差し込まなかった。
霊真だけが、静かに彼女を見ていた。
「わたくしが少しでも高慢に見えれば、“婚約者役らしい”」
セレスティアは続ける。
「庶民の娘と対置されれば、“悪役令嬢として都合がいい”」
一拍。
「つまり、わたくしは最初から人としてではなく、“役として便利な形”へ育てられていたのですわね」
誰もすぐには否定しなかった。
否定できないからだ。
地下機構。
婚約補助魔導式。
家門と血筋。
全部が、その結論を支持してしまっている。
「……ずっと」
セレスティアは、小さく言った。
「ずっと役しか与えられてこなかったのね」
その一言は、部屋の中心へ落ちて、誰の胸にも静かに刺さった。
◇
霊真は、その声を聞いた瞬間、何も飾らずに口を開いていた。
「それは、よくありません」
部屋の全員が、彼を見る。
公爵も、
夫人も、
アルフレッドも、
ミレーユも、
ルシアンも、
ガイゼルも、
そしてセレスティアも。
あまりにもまっすぐで、
あまりにも単純で、
だが、今この場で誰より必要な言葉だった。
「娘である前に婚約者役であるとか」
霊真は静かに続ける。
「人である前に配置であるとか、そのようなことは、やはりよくないかと」
公爵が微かに目を細める。
「理想はそうだろう」
と彼は言う。
「だが王家と家門の現実は――」
「現実でも、よくないものはよくないかと」
霊真は一歩も引かなかった。
理屈で勝とうとしているのではない。
制度を全部否定できるほど、この世界を知っているわけでもない。
それでも、今ここで一人の少女が“役しか与えられてこなかった”と気づいてしまったのなら、そのことだけは否定したくなかった。
「……本当に」
とセレスティアが小さく呟く。
「あなたは、そういう時だけ一番ほしい言葉を持ってきますのね」
その声音は、壊れそうで、壊れていない。
ぎりぎりのところで立っている人の声だった。
◇
ルシアンは、そこで初めて少しだけ顔を上げた。
「学術的にも」
と彼。
「かなり最悪です」
その言い方に、ガイゼルがわずかに吹き出しそうになる。
だが今は笑う場面ではない。
「婚約補助魔導式が家門教育にまで混ざっていたなら、ローゼンベルク嬢個人の感情や性格が、長年“役に適する形”へ調整され続けてきた可能性がある」
ルシアンは続ける。
「地下機構が彼女を悪役令嬢役へ押し込みやすかったのは、学園に入ってからではなく、それ以前から素地が作られていたからです」
理屈としては、冷静だ。
だが、その内容は冷酷ですらある。
ミレーユが低く言う。
「救いがありませんわね」
「だからこそ」
アルフレッドがそこで口を開いた。
「今ここで切らねばならない」
王子の声は低い。
だが強い。
「婚約も、選定も、家門の結びつきも、全部必要なものかもしれない。だが、それが“人ではなく役を見る”ところまで腐っているなら、少なくともそのまま受け入れるわけにはいかない」
公爵が王子を見る。
その目には、複雑な感情が混ざっていた。
反発だけではない。
諦めだけでもない。
むしろ、自分もずっと見ないふりをしてきたものへ、ついに王族側からも触れられたことへの疲れに近い。
「殿下」
と公爵。
「それは王家側にも同じだけ刃が向く話ですぞ」
「承知している」
アルフレッドは答える。
「だからこそ、私が見なかったことにはしない」
その言葉に、セレスティアがほんの少しだけ顔を上げた。
婚約者役としてではなく、
今の彼女を見ている王子の声だった。
◇
それでも、セレスティアの胸の奥に溜まったものは消えない。
役しか与えられてこなかった。
その事実は、簡単には消化できない。
彼女は魔導陣を見つめたまま、静かに言った。
「では、わたくしが王子殿下の婚約者役から外れることを、家はどう見るのかしら」
夫人が答えた。
「損失でしょうね」
あまりにも迷いがない。
そして、その迷いのなさが残酷だった。
娘の幸福ではない。
家としての損失かどうか。
その判断が先に来る。
セレスティアは、そこで初めてはっきりと笑った。
ただし、その笑みはひどく冷たかった。
「ええ。そうでしょうね」
と彼女。
「ようやく、よく分かりましたわ」
そして、振り返る。
父を。
母を。
親族たちを。
家そのものを、赤い瞳で真っ直ぐ見る。
「でしたら、なおさら戻るつもりはありません」
その言葉に、空気が変わる。
「セレスティア」
と夫人。
「役として生きるために育てられたのだとしても」
彼女は言葉を止めない。
「わたくしが今からもその役を続ける義務はないはずですわ」
その宣言は静かだ。
だが、昨夜の舞踏会よりも深い場所での反逆だった。
悪役令嬢ルートを拒絶するだけではない。
その前段階――“王子の婚約者役として育てられてきた人生”そのものへ、初めて正面から反旗を翻したのだ。
霊真は、その横顔を見ていた。
苦しいだろう。
怖いだろう。
それでも彼女は立っている。
だから彼は、やはり思う。
役へ戻してはならない、と。




