第62話 ローゼンベルク家より召喚状、悪役令嬢ルートは学園外でも休ませてくれません
その手紙が届いたのは、昼下がりの教室だった。
五限と六限のあいだ、少しだけ気の緩む時間帯。
王立エーヴェルシュタイン学園二年の教室には、昼食後特有のぼんやりした空気がまだ残っていた。窓の外は明るく、春とも初夏ともつかない柔らかな風がカーテンを少し揺らしている。
その、比較的平和な空気を切り裂くようにして、廊下側の扉が開いた。
「ローゼンベルク嬢」
呼んだのは、学園職員ではなかった。
ローゼンベルク家の紋章を胸に留めた、黒衣の使者である。
教室の空気が、一瞬で変わる。
ざわ、と小さく波立つ気配。
霊真はその変化を、もはや慣れたものとして感じ取った。
高位貴族の使者が教室へ直接来る。
それだけでも十分目立つ。
しかも呼ばれたのが、今もっとも学園内で“悪役令嬢ルート本命化”などという迷惑な見方をされているセレスティア・フォン・ローゼンベルクなのだから、周囲が静かでいられるはずもない。
「……はい」
セレスティアは席を立った。
声は平静だ。
だが、霊真には分かる。
ほんのわずかに、呼吸が浅い。
使者は教室の中ほどまでは入らず、扉のところで一礼したまま、封蝋の押された白い封書を差し出した。
「本家より、至急」
それだけ。
余計な説明はない。
だが、その短さのほうが逆に圧を感じさせた。
セレスティアが封書を受け取る。
封蝋には、赤い蝋へ金で押されたローゼンベルク家の紋章。
昨日、地下機構で見た紋に近い形だった。
その瞬間、霊真は教室の空気の奥で別のものも感じた。
ざわつき。
好奇心。
不安。
そしてごく薄く、
「来た」
という、物語を期待するような熱。
やはり、この世界は油断ならない。
◇
使者が去ったあとも、教室の視線はしばらくセレスティアへ向いたままだった。
本人はすぐには封を切らない。
机の端へ封書を置き、何でもない顔で着席する。
それがまた、彼女らしい。
だがその“何でもない顔”が本当に何でもない時期は、もう過ぎている。
今のセレスティアは役を拒絶したぶんだけ、自分の内側の揺れも前より少し見えやすくなっていた。
リリアーナが、数席向こうからそっと彼女を見る。
ミレーユもまた、別の列から静かに様子をうかがっている。
ルシアンは露骨に顔をしかめ、
アルフレッドは王子らしく表情を動かさぬまま、しかし明らかに意識している。
そして霊真もまた、気になっていた。
五限が始まり、教師が入ってきて、教室は表向きいつもの授業へ戻った。
だが封書はずっとそこにある。
白い紙の小さな塊ひとつが、教室全体の意識の隅へ居座り続けていた。
セレスティアは授業中、一度もそれへ触れなかった。
その我慢強さが、かえって胸に悪い。
◇
放課後になって、ようやく彼女は動いた。
教室を出る人の流れが一段落したころ、セレスティアは封書を手に立ち上がる。
そのまま霊真の席の近くまで来て、わずかに視線を落とした。
「少し、お時間をいただけますかしら」
それは、今朝の“相談兼確認イベント”の続きのようでもあり、まったく別のものの始まりのようでもあった。
「はい」
と霊真。
後ろで、誰かが息を呑む気配がした。
「またローゼンベルク様……」
「今度は手紙持ってる……」
「完全に実家イベントでは?」
「悪役令嬢ルート、学園外ステージ移行の導入っぽすぎる……」
だんだん女子生徒たちの分析精度が高くなっている気がする。
霊真には半分も分からないが、嫌な予感だけは共有できた。
◇
二人が向かったのは、昨日の朝と同じ中庭脇の回廊だった。
夕方の光が石壁を淡く染めている。
人目はある。
だが、はっきり聞こうとしなければ会話までは届かない距離だ。
最近の学園では、この“少し見えるが聞こえない”位置がやたらとイベント向きになっている。
本当に困る。
セレスティアは周囲を確かめるように一度だけ視線を巡らせ、それから封書の封を切った。
中から取り出した便箋を開き、数行だけ読み下し、その場で小さく息を吐く。
「やはり、ですわね」
「ご実家からでしょうか」
と霊真。
「ええ」
セレスティアは紙を見たまま答える。
「本家より正式な召喚状ですわ」
召喚状。
その言葉自体がすでに重い。
「内容は三つ」
彼女は淡々と読み上げた。
「一つ、昨夜の舞踏会騒動について説明せよ。二つ、殿下との婚約関係をどうするつもりかを示せ。三つ、学園での評判悪化を正す姿勢を見せよ」
やはり重い。
しかも、どれも“家の論理”そのものだった。
セレスティア本人の心や考えではなく、
舞踏会の失敗、
婚約の価値、
外聞の回復。
すべてが役割と家名の言葉で書かれているのだろうと、霊真にも容易に想像できた。
「……お辛いですね」
と彼が静かに言う。
セレスティアはそこで少しだけ顔を上げた。
赤い瞳に、わずかな驚きが浮かぶ。
「そう見えまして?」
「はい」
「……そう」
彼女は手紙を折りたたむ。
仕草はきれいだ。
きれいすぎるくらいに。
だが、その指先に少しだけ力が入っている。
「正直に申しますと」
セレスティアは言った。
「面倒ですわ」
その言い方に、霊真は少しだけ安心した。
“大丈夫です”と強がらなかったからだ。
「昨夜のことも、婚約のことも、評判のことも、全部ひっくるめて“ローゼンベルク家の令嬢として説明しなさい”ということですもの」
彼女は苦く笑う。
「まったく、わたくし個人としては少しも休ませてくれませんのね」
悪役令嬢要素は、学園の中だけでは終わらない。
むしろ実家こそが本場なのだと、その一言だけで分かる。
◇
「どうなさいますか」
と霊真が問う。
セレスティアは一瞬だけ迷うように目を伏せた。
それから、驚くほど早く顔を上げる。
「行きますわ」
即答だった。
「逃げません」
と彼女は続ける。
「学園で断罪ルートを壊したのに、家の前では何も言えないのでは意味がありませんもの」
その声は静かだが、昨夜の舞踏会の延長線上にある強さだった。
悪役令嬢として追い詰められ、泣いて退場するルートはもう選ばない。
それを本人が完全に決めているのが分かる。
だが同時に、霊真には少し気になったことがある。
「お一人で、でしょうか」
セレスティアはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
「そこですわ」
と彼女。
「それを申し上げようと思っておりましたの」
夕方の回廊の風が、彼女の髪を少し揺らす。
「今度は、一人では行きません」
その言葉に、霊真は目を瞬いた。
「ご同行なさる方が」
「いていただきますわ」
とセレスティアは言った。
その言い方は、半分は宣言で、半分は願いに近い。
「昨日、地下機構を見ました」
彼女は続ける。
「ローゼンベルク家の紋も、あそこにありましたわ。ならば、うちの家は無関係ではない。婚約のことも、選定のことも、学園だけで終わる話ではないのでしょう」
「はい」
「でしたら」
セレスティアは、まっすぐ霊真を見る。
「今度は最初から、こちらも一人で行くべきではありません」
言っていることは極めて理性的だ。
理性的なのだが、そこで彼女が次に誰の名を出すかは、考えるまでもなかった。
「来てくださいますわよね」
とセレスティア。
かなり直接的だった。
王子でもなく、
ミレーユでもなく、
ルシアンでもなく、
まず霊真へそれを言う。
その事実だけで、回廊の向こうの空気がまた少し濃くなった気がした。
「ご実家へ、でございますか」
と霊真。
「ええ」
セレスティアは頷く。
「ローゼンベルク家へ」
高位貴族の本家。
婚約と家名と血筋の論理が渦巻く場所。
悪役令嬢という属性の根がありそうな場所。
そこへ、異世界から来た史上最年少阿闍梨が同行する。
たしかに、それはかなり大きな意味を持つ。
「もちろん」
とセレスティアは少しだけ視線を逸らしながら言った。
「あなたお一人だけ、という意味ではありませんわ。殿下にも、学園長にも、必要なら他の方々にも相談するつもりです」
その補足が少し早口なのが、かえって可笑しい。
そこを気にしているのだろう。
「ですが」
彼女は言い直した。
「まず、あなたに聞いていただきたかったのです」
その一言には、かなりはっきりした信頼が滲んでいた。
霊真は静かに頷く。
「承知しました」
セレスティアの睫毛がわずかに震える。
「……そう」
と小さく言って、
それから少しだけ口元をやわらげた。
「断られなくてよかったですわ」
夕方の光のせいかもしれない。
だがその瞬間、彼女は悪役令嬢というより、ただの少し強がりな少女に見えた。
◇
当然、その話はすぐに共有されることになった。
場所は学園長室ではなく、比較的目立たぬ旧応接室。
集まったのは、アルフレッド、ミレーユ、ルシアン、ガイゼル、オルバス、そしてセレスティアと霊真。
封書の内容を読み上げると、部屋の空気が一段だけ重くなる。
「……思った以上に露骨だな」
とアルフレッド。
「舞踏会の失敗を“家としてどう処理するか”だけで見ている」
「うちの家らしいですわ」
とセレスティアは冷たく言う。
「個人の気持ちなど、家名の後ろですもの」
ミレーユが小さく息を吐いた。
「婚約関係をどうするつもりか、とはっきり書いてあるのですね」
「ええ」
セレスティアは頷く。
「つまり家としては、“昨夜の騒動があってもなお王子婚約者役を続けられるか”を見ているのでしょう」
役。
そこへ戻る言い方を、彼女自身が使うのが少し痛い。
ルシアンは封書の複写を見ながら、露骨に顔をしかめた。
「実家イベントとしては満点ですが、現実としては最低です」
「その分析は何ですの」
とセレスティア。
「率直な評価です」
ガイゼルが肩を揺らす。
「でもまあ、行くしかねえわな」
「ええ」
セレスティアは即答した。
「逃げるつもりはありません」
「そこは分かる」
アルフレッドが言う。
「問題は、誰が行くかだ」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ微妙になった。
誰が行くか。
護衛と立場と意味づけと、全部が絡む問いだからだ。
王子が同行すれば、婚約問題が前へ出る。
ミレーユが行けば、聖職と神託の色が強くなる。
ルシアンは実務的には有用だが、貴族家の屋敷で柔らかく振る舞う未来があまり見えない。
ガイゼルは護衛として極めて頼もしいが、こちらも別の意味で圧が強い。
「私が行くのは決まっているとして」
とセレスティア。
「もう一人、先にお願いしたい方はおりますわ」
言う前から分かる。
という空気が室内に流れた。
ルシアンは露骨に目を細め、
ミレーユは上品に微笑み、
ガイゼルは面白がるのを隠していない。
「レイシン様です」
とセレスティア。
やはりだった。
「昨日の地下機構もそうですし、うちの家が選定にどこまで関わっているかを知る意味でも、あなたには来ていただきたいのです」
彼女は理路整然と言う。
「それに、わたくし自身の立場としても」
そこで一瞬だけ言葉を切る。
「……一人より、よろしいですもの」
後半だけ、少しだけ小さい。
だがその小ささがむしろ強い。
ルシアンが低く呟く。
「悪役令嬢ルート、本当に遠慮がなくなってきましたね」
「何かおっしゃいまして?」
とセレスティア。
「事実確認です」
「後で覚えていらっしゃい」
ミレーユがそこでやわらかく口を開いた。
「わたくしも同行したほうがよろしいのではなくて?」
と彼女。
「礼拝堂側の聖具反応と、ローゼンベルク家の魔導紋の関連は気になりますわ」
たしかにもっともだ。
実務上も必要性がある。
「僕も行く」
とアルフレッド。
「婚約と王家の選定が絡む以上、王族として確認しなければならない」
「でしたら」
とルシアン。
「私も当然必要です。地下機構の解析をしているのは私ですから」
「おまえら全員行く気か」
とガイゼル。
「じゃあ俺も護衛で必要だろ」
「必要でしょうね」
オルバスが疲れたように言った。
「人数を絞るという概念はないのか、君たちには」
だが結局、全員それぞれに理屈が通ってしまっているのがひどい。
セレスティアが小さく額を押さえる。
「……本当に、家のほうで余計な空気になりそうですわ」
「でしょうね」
ルシアンが真顔で言う。
「悪役令嬢の実家イベントに、王子、本来中心人物、聖女候補、魔術師、騎士がぞろぞろ来るのですから」
「その言い方はやめてくださる?」
「構造把握です」
「何でもそう言えば済むと思わないことですわ」
そのやり取りに、ガイゼルが声を立てずに笑っていた。
◇
話が一段落したあと、皆が帰り支度を始めても、セレスティアは少しだけその場へ残っていた。
霊真もそれに気づき、自然に歩み寄る。
「ご不安ですか」
と彼が小さく尋ねる。
セレスティアは少しだけ黙った。
前ならここで、
「別に」
と切り返していたかもしれない。
だが今の彼女は、少し違う。
「……ええ」
と素直に言った。
「かなり」
その一言が、ひどくまっすぐだった。
「学園で断罪されるのとは、また別ですもの」
セレスティアは続ける。
「家では、わたくしを最初から“役”として扱う人たちばかりですわ。婚約者役。高位令嬢役。ローゼンベルク家の駒。そういう目でしか見ない人たちの前へ、また戻るのですから」
霊真は黙って聞く。
それだけで、セレスティアはもう少し話せた。
「でも」
と彼女。
「今は、前より怖いだけではありませんの」
「はい」
「わたくし、あそこへ行っても、もう前みたいには戻りたくないのです」
その言葉は、断罪ルート崩壊後のセレスティアの芯そのものだった。
悪役令嬢へ戻らない。
婚約者役だけの人形へ戻らない。
家名のための配置へ、素直には戻らない。
「ですから」
彼女は霊真を見た。
「今度も、ちゃんと立ちますわ」
「はい」
と霊真。
「そのほうがよろしいかと」
セレスティアは少しだけ笑った。
その笑みは、いつもの棘を含んでいるのに、前よりずっと柔らかい。
「ええ」
と彼女。
「今度は、学園の外でですわね」
悪役令嬢ルートは、どうやら学園内だけで完結してはくれないらしい。
むしろここからが本番なのだと、夕方の静かな応接室で、二人は同時に感じていた。




