第61話 天才魔術師、ついに嫉妬を学術用語で処理しきれなくなる
ルシアン・エーデル=クロイツは、その日の昼過ぎにはっきりと理解した。
自分はもう、かなりよくない。
よくない、というのは倫理的とか人格的とか、そういう曖昧な意味ではない。
もっと具体的で、もっと彼らしく、不快な意味でだ。
観測対象への感情混入率が、無視できない水準に達している。
「……最悪です」
図書塔の上階、いつもの窓際机に資料を広げたまま、ルシアンは低くそう呟いた。
机の上には、
昨夜の地下選定機構の魔導紋スケッチ、
学園地下で観測された再選定シークエンスの脈動曲線、
舞踏会会場での感情誘導術式の残留測定結果、
さらに各人物の接触頻度とタイミングを書き込んだメモまで並んでいる。
本来であれば、今日の自分はこれらを整然と分類し、
学園機構と王都中枢の関連性を仮説化し、
次に来るであろう“ルート修正イベント”の発生条件を冷静に絞り込んでいるはずだった。
だが現実には、別の項目が脳内のかなり大きな容量を奪っていた。
セレスティア・フォン・ローゼンベルク。
リリアーナ・フェアミント。
ミレーユ・セラフィナ。
アルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタイン。
ガイゼル・ヴァン・ドレイク。
そしてその全員と、
九十九院霊真との接触状況。
朝は誰と会ったのか。
昼は誰が先に声をかけたのか。
どのやり取りが自然で、
どのやり取りが明らかに“イベント”だったのか。
そこまでならまだ観測と言い張れる。
問題は、その記録へ、
妙に細かい温度差の感想まで混ざり始めている
ことだった。
たとえば今朝のセレスティア。
悪役令嬢ルートの本命感が強すぎる。
朝イベントとしての完成度も高い。
断罪ルート崩壊後の“役を脱いだ高位令嬢”としての引力も露骨だ。
その分析自体は、間違っていないと思う。
だがそこへ、
だからといって強すぎるだろう
という、明らかに分析ではない感情が混ざる。
リリアーナに関しても同じだ。
本来ヒロイン押し戻しイベントが発生している。
王子との偶然接触も、守られる側への誘導も、いかにも王道だ。
それは事実だ。
だがそこへ、
それでも彼女は以前よりちゃんと抵抗していて厄介だ
などという、妙に個人的な評価が混ざる。
ミレーユに至ってはもっとひどい。
礼拝堂。
夜。
二人きり。
聖具反応。
神託共有。
どう考えても聖女候補ルートとしては強い。
しかも彼女自身、もう一歩引いた立場ではいない。
そういう分析を書きながら、
なぜ自分がそこまで詳細な情景を正確に想像できているのか。
「……本当に最悪です」
ルシアンはもう一度呟き、額を押さえた。
これはもう、研究対象への純粋な興味だけでは処理しきれない。
少なくとも、研究対象が誰とどれだけ近いかにまで、ここまで神経が向く理由としては不十分だ。
◇
そこへ、足音がした。
軽くはない。
しかし警戒心のない足音。
ルシアンは顔を上げなくても分かった。
「何でしょう」
と彼は言う。
「なぜ、私が来たとお分かりになったのでしょう」
と、霊真の声。
やはりだ。
そのことに安心する自分がいるのも、さらに腹立たしい。
「足音です」
とルシアン。
「あなたは、変に気配を殺しませんから」
「そうでしたか」
「そうです」
霊真は相変わらずだ。
図書塔の上階へ上がってきても、妙に静かに落ち着いている。
事件の中心にいて、攻略対象全員の様子をおかしくし、地下機構の再選定まで刺激しておきながら、当人だけがこんなふうに落ち着いているのだから、ひどい話だった。
「何かございましたか」
とルシアン。
「ご相談が」
と霊真。
来た。
また何か新しい接触イベントだ。
そう思った自分に、ルシアンは内心でかなり嫌そうな顔をした。
「内容によります」
「地下機構についてです」
「……それなら結構です」
あからさますぎたかもしれない。
だが今は、少しでも“個人イベント”より解析寄りの話であってほしかった。
霊真は机の反対側へ回り、広げられた紙の端へ視線を落とす。
その動作はただ自然だ。
だが、やはり近い。
図書塔の机というのは、二人で資料を見るには少し狭い。
長机ではあるが、魔導紋のスケッチや測定記録を広げると、どうしても相手の肩や腕が視界の近くへ入ってくる。
「何か分かりましたか」
と霊真。
「いくつか」
ルシアンは努めて平静な声を作った。
「特に重要なのは、再選定機構の中心座標です」
「中心座標」
「ええ。つまり、装置が“今どこを主軸として再配置を試みているか”という話です」
霊真は静かに聞いている。
それがありがたい。
変に口を挟まず、しかし理解しようとはする。
「昨夜までは」
とルシアン。
「王子・本来ヒロイン・悪役令嬢の三点配置が主でした。つまりアルフレッド殿下、フェアミントさん、ローゼンベルク嬢の三角構造」
「はい」
「ですが今は、そこが少しずれている」
ルシアンは紙の上へ新しい線を書き足す。
「今、選定機構が最も強く基準にしているのは……おそらくあなたです」
霊真は少しだけ目を瞬いた。
「私でしょうか」
「そうです」
ルシアンは即答する。
「あなたが中心へ来たことで、各ルートが全部“あなたを起点として”再配置され始めている」
それはもう、かなり前から予感していたことでもある。
王子ルートも。
本来ヒロインルートも。
悪役令嬢ルートも。
聖女候補ルートも。
どれも最近は、以前よりずっと露骨に霊真との接触や意味づけを強めている。
「つまり」
と霊真。
「皆さまの様子が、さらにおかしくなるのでしょうか」
「……ええ」
ルシアンは少しだけ間を置いて答えた。
「かなり高い確率で」
それを口にした瞬間、自分の中の嫌な部分が、妙に納得してしまった。
そうか。
だから自分はこんなに気にしているのだ。
中心が霊真へ移っている。
つまり、全員の感情や接触や“イベントの濃度”が、彼を軸にして競合を始めている。
それなら、自分が他の面々の動向に神経を尖らせる理由も、一応は“学術的”に説明できる。
できる。
……一応は。
◇
「それは」
と霊真が言った。
「困りますね」
あまりに素直な感想で、ルシアンは少しだけ顔をしかめた。
「困る、で済ませるにはだいぶ深刻ですが」
「そうでしょうか」
「そうです」
霊真は資料の一つへ視線を落とす。
「接触頻度と偏り」
と彼は紙に書かれた文字を読み上げる。
「好感度イベント傾向」
さらに一行。
「優先共有順位案」
そこで、ようやく彼が少しだけ首をかしげた。
「ルシアン殿」
「何でしょう」
「これは、研究でしょうか」
来た。
ルシアンは一瞬、本気で言葉に詰まった。
「……当然です」
と、何とか言い切る。
「再選定機構の挙動を解析するうえで、接触頻度とイベント密度の観測は不可欠です」
「そうでしたか」
「そうです」
霊真は、そこに明確な疑いを向けてはいない。
向けていないのだが、その“本当にそうなんだな”という顔が逆に苦しい。
なぜなら、完全には嘘ではないからだ。
分析の必要はある。
接触頻度も重要だ。
イベント密度も、機構の修正傾向を測るうえで有効だろう。
だがそこへ、
誰がどれだけ近いか
とか、
どのルートが今強いか
とか、
悪役令嬢ルートばかり強すぎないか
という、明らかに個人的な不快感まで混ざっているのは別問題だった。
「……ただ」
ルシアンは言葉を継いだ。
「分析結果として、今後の接触頻度は可能な限り均等化したほうがよいと考えています」
言ってしまった。
しかも、かなり真顔で。
「均等化」
と霊真。
「ええ」
ルシアンは頷く。
「特定ルートへの偏りが強まると、選定機構はそこを“本命配置”と認識しやすくなる。したがって、あなたは可能な限り接触を平準化すべきです」
理屈は通っている。
だが、かなり無理があるのも自分で分かる。
霊真は少し考え、それから静かに言った。
「セレスティア殿とも、リリアーナ殿とも、ミレーユ殿とも、アルフレッド殿とも、ガイゼル殿とも、均等に話したほうがよろしいと」
「そうです」
ルシアンは即答した。
「理論上は」
理論上。
そこに逃げ道を作っているあたり、自分でも完全には自信がないのだろう。
「ルシアン殿も、でございますか」
と霊真。
「当然です」
また即答してしまった。
そのあまりの即答ぶりに、今度は霊真が少しだけ黙る。
その沈黙がまた嫌だった。
「……何でしょう」
とルシアン。
「いえ」
霊真は静かに言った。
「かなり、強いのだなと思いまして」
「何がです」
「均等化のお気持ちが」
「お気持ちではなく理論です」
言い切った。
だがたぶん、半分は気持ちである。
◇
図書塔の窓から差し込む午後の光が、少しずつ傾き始めていた。
静かな空間だ。
ページをめくる音と、遠くの足音しか聞こえない。
そういう場所で、こんな会話をしていること自体、最近の学園らしいと言えばらしい。
「接触の偏りは」
とルシアンは、少しだけ声を落として言う。
「機構の修正傾向を増幅します」
「はい」
「王子ルート、本来ヒロインルート、悪役令嬢ルート、聖女候補ルート。今は全部があなたを起点に再編されている」
「はい」
「その中で、特定ルートばかり濃くなるのは危険です」
そこまで言ってから、彼はわずかに目を逸らした。
危険。
それは事実だ。
だがその中には、
見ていて気に食わない
も少し混ざっている。
いや、少しではないかもしれない。
そこで初めて、ルシアンはかなり不本意な形で理解した。
ああ、自分は嫉妬しているのだ、と。
セレスティアが朝の回廊で先に声をかけることへ。
リリアーナが“本来ヒロインらしくない本来ヒロイン”として前へ出ていくことへ。
ミレーユが礼拝堂で静かに心を寄せていくことへ。
アルフレッドが王子として本音を見せることへ。
ガイゼルが身内みたいな位置へ平然と収まっていることへ。
その全部に、自分は反応している。
研究対象だからではない。
学術的関心だけでもない。
もっと個人的で、
もっと面倒で、
もっと理論的でない理由によって。
「……不愉快です」
とルシアンは低く言った。
「何がでしょう」
霊真は相変わらず真面目に聞く。
「自分が」
と彼は答えた。
「思ったより単純な感情で動いていることが」
そこまで言うと、さすがに霊真も少しだけ目を瞬いた。
「嫉妬でしょうか」
と彼。
ルシアンは、本気で数秒固まった。
「……あなたは」
彼はようやく絞り出す。
「時々、ひどく容赦がありませんね」
「申し訳ありません」
「謝らないでください。事実ですので」
言い返してから、自分で少しだけ嫌になる。
セレスティアみたいなことを言っている。
「ただ」
とルシアンは続けた。
「学術的に表現するなら、競合感情の増幅です」
「嫉妬ではなく」
「嫉妬も含むかもしれません」
彼はとうとう認めた。
「ですが、もっと構造的です」
構造的。
そう言えば、少しは自分の気が済む。
「選定機構があなたを中心へ置いた結果、全ルートの競合が強まっている」
とルシアン。
「ならば私のこの不快感も、個人の未熟さだけではなく、構造的圧力を受けた結果である可能性が高い」
「なるほど」
と霊真。
「少し安心でございますね」
その返しに、ルシアンは思わず顔を上げた。
「安心?」
「はい」
霊真は頷く。
「ご自分だけの問題ではないのであれば」
またそうやって、面倒な話を妙にやさしい形へ変えてしまう。
だから困る。
だから余計に、いちいち心が動く。
「……ええ」
ルシアンは小さく息を吐いた。
「たしかに、少しは」
完全には認めたくない。
だが、その言葉で救われた部分があるのも事実だった。
◇
そのあと、二人は地下機構の再選定波形についてしばらく真面目に話した。
王子ルート修正。
本来ヒロイン押し戻し。
悪役令嬢ルート本命化。
聖女候補ルートの静かな加速。
それらすべてが、霊真を中心として再配置されている可能性。
そしてその中で、ルシアン自身もまた、
“孤高の天才魔術師攻略対象”みたいな位置へ押されつつあること。
「厄介です」
とルシアンは最後に言った。
「私は、本来こういう立場ではないはずなのですが」
「そうでしたか」
「ええ。もっと冷静で、もっと一歩引いて、もっと理論だけで動く側です」
霊真は少し考えてから答えた。
「今も、かなり理論的かと」
それは、慰めなのか、本気なのか、判断に困る言い方だった。
だがたぶん、本気なのだろう。
この人はそういうところだけ、変に誠実だ。
「……ありがとうございます」
とルシアン。
「複雑です」
「何がでしょう」
「その返しがです」
霊真は少しだけ困った顔をする。
その顔を見ると、また変に安心してしまうのが嫌だった。
だが同時に、その安心を否定しきれない自分もいる。
結局のところ、攻略対象全員の様子がおかしくなっているのなら、自分ももう完全な例外ではないのだろう。
それを認めるのは非常に癪だが、
認めてしまうと、少しだけ楽でもあった。




