第60話 聖女候補、神託より恋のほうがやや騒がしい
礼拝堂の夜は、学園のどこより静かなはずだった。
少なくとも、ミレーユ・セラフィナはそう信じていた。
高い天井。
長椅子の整った列。
蝋燭の小さな灯り。
祈りの残滓が薄く積もった、ひやりとした石床。
夜の礼拝堂へ一人で入れば、たいていの心は静まる。ざわつきも、迷いも、昼間に浴びた視線の熱も、少しずつ沈んでいく。
……本来なら。
「静まりませんわね……」
ミレーユは祭壇の少し手前で立ち止まり、小さく息を吐いた。
今夜の彼女の心は、礼拝堂へ来ても少しも静かにならなかった。
理由は、分かっている。
断罪ルート崩壊後、学園全体のルート濃度が明らかにおかしくなっているからだ。
王子ルートは露骨に修正をかけられている。
本来ヒロインルートも押し戻しが強い。
悪役令嬢ルートはむしろ本命感を増している。
天才魔術師も、騎士も、全員が前より妙に“濃い”。
そして当然、聖女候補ルートめいた何かもまた、静かに、しかし確実に前へ出てきていた。
昨夜、自分はかなりはっきりと九十九院霊真へ気持ちを言ってしまった。
尊敬だけではない。
特別でいてほしい。
それはほとんど、恋の自白だった。
その余韻がまだ消えていないというのに、今日は昼間から礼拝堂の聖遺物がやけに騒がしい。
祈りの途中で、何度も微細な反応が返ってくる。
まるで、
「見せたいものがある」
とでも言うように。
「……神託なら、もう少し落ち着いていただきたいものですわ」
半分本気でそう呟きながら、ミレーユは祭壇奥の小さな保管室へ向かった。
そこには、学園礼拝堂でも特に古いとされる聖遺物の一つが安置されている。
《暁光の小鏡》。
鏡といっても、実際には掌に乗るくらいの銀の円盤に近い。表面は完全な鏡面ではなく、見る者によっては水面にも見える曖昧な光沢を持つ。古い文献では、“正しき選びに迷う者へ、曖昧な光景を返す”とだけ記されている。
要するに、とても面倒な聖具である。
明確な答えはくれない。
だが、何か大きな歪みが起きる時だけ妙に雄弁になる。
ミレーユがその小鏡の前へ立つと、今夜は最初から反応が強かった。
銀の表面が、ふわりと淡く揺れる。
「……本当に、今夜は騒がしいですわね」
手を伸ばし、そっと祈りの言葉を落とした瞬間だった。
鏡の表面が波打った。
◇
最初に見えたのは、崩れた舞台だった。
華やかな大広間。
散る視線。
ざわめき。
そして、その中心で立っている一人の少女。
セレスティア・フォン・ローゼンベルク。
悪役令嬢として断罪されるはずだった少女が、こちらを見ずに真正面へ立っている。
昨日の舞踏会の光景だ。
だが、実際の記憶よりも少しだけ誇張されている。
まるで、
「ここで物語は一度壊れた」
と強調するための映像のように。
「……ええ、そこはもう知っていますわ」
ミレーユが小さく呟くと、鏡の表面がさらに揺れた。
次に見えたのは、地下機構だった。
青白く脈打つ巨大な魔導紋。
王家、高位貴族、聖職を結ぶ古い記号群。
選定。
継承。
対置。
そうした不穏な文字が、光の流れのように重なっていく。
その中心近くに、一つの影が立っていた。
九十九院霊真。
仕組みに飲まれるのではなく、
仕組みの前へ立つ影。
彼の背は、鏡の中では実際よりも少し大きく見えた。
英雄的というほどではない。
むしろ不思議なほど静かだ。
だが、その静けさが逆に目を引く。
周囲では、何人もの手がその背へ伸びていた。
アルフレッド。
リリアーナ。
セレスティア。
そして、自分。
ミレーユはそこで、思わず目を細めた。
「……何ですの、それは」
鏡は答えない。
ただ、さらに曖昧な光景を返してくる。
伸びる手は、助けを求めているようにも見える。
引き留めようとしているようにも見える。
選ばれたいと願っているようにも見える。
いや、おそらく全部だ。
学園全体のルートが濃くなった結果、
攻略対象たちの感情が妙に前へ出てきている。
その中心にいるのが霊真なら、こういう象徴的な映像になるのも、たしかに理解はできる。
できるのだが。
「……とても、困りますわね」
聖遺物に向かってそう言っても仕方がない。
だが困るものは困る。
神託めいた顔をして、
実際にはかなりラブコメ的な構図を見せてくるのは、
どう考えても礼拝堂向きではない。
だが鏡はまだ終わらなかった。
最後に見えたのは、言葉だった。
光の中に、古い王朝語と聖語の混じった短い文が浮かぶ。
偽りの役を退けよ。
それだけ。
だが、その短い一文が今夜のミレーユにはあまりにも重かった。
◇
「……偽りの役を退けよ」
声に出してみると、礼拝堂の静けさが少しだけ深くなる。
偽りの役。
誰のことかは、もう明らかだった。
悪役令嬢として押し込められるセレスティア。
本来ヒロインとして守られる側へ戻されるリリアーナ。
正しい王子役へ修正をかけられるアルフレッド。
孤高の攻略対象であれと押されるルシアン。
便利な騎士役へ固定されるガイゼル。
そして、自分もまた、ただ見守る聖女候補役として整えられようとしているのかもしれない。
けれど、そのすべての中心にいるのはやはり霊真だ。
彼が来たから、断罪ルートは壊れた。
彼がいたから、皆が役から少しずつ外れ始めた。
そして今、地下機構はそのズレを修正しようとしている。
ならば、この神託の意味も一つだろう。
――役へ戻るな。
――役へ戻すな。
それが、聖遺物なりの答えなのだ。
ミレーユは、小鏡を見つめたまましばらく動かなかった。
偽りの役を退けよ。
そう告げられたのなら、自分もまた“聖女候補らしい立場”に甘えてばかりはいられない。
そしてもう一つ。
鏡に映った“伸びる手”の情景が、どうにも頭から離れない。
あれは、単なる象徴だろう。
ラブコメ的に言えば、かなりあからさまな構図だ。
だが、自分の手もその中にあった。
つまり聖具は、かなり遠慮なく
「あなたもその中心へ心が向いています」
と教えてきたわけである。
「……神託より恋のほうが騒がしいのですけれど」
思わず、そう呟く。
そしてその直後、自分で少し笑ってしまった。
礼拝堂の夜にそんなことを言う聖女候補というのも、だいぶどうかと思う。
だが、もはや今の学園で“正しい役”だけ守っていても仕方がないのだ。
◇
保管室を出ると、礼拝堂本堂の空気は少しだけ変わっていた。
いや、変わっていたというより、自分のほうが少し変わったのかもしれない。
そこでふいに、扉の開く音がした。
振り向けば、九十九院霊真が立っている。
まるで今のタイミングで来るのが自然だったかのように、妙に静かな顔で。
「……どうして、こんな時に」
とミレーユ。
「礼拝堂の気配が少し強かったので」
と霊真。
「もしや、と思いまして」
やはりこの人は、必要な時に現れる。
しかも自分ではそれを特別なことと思っていない。
「何かございましたか」
と霊真。
ミレーユは少しだけ目を細めた。
いろいろあった。
聖遺物が反応した。
神託めいた映像を見た。
偽りの役を退けよ、という言葉を受け取った。
そしてその中に、自分のかなり個人的な感情まで混ざっていた。
全部そのまま言うには、礼拝堂の夜は少し静かすぎる。
「聖具が反応しましたの」
と、まずは事実から話す。
「そうでしたか」
霊真はすぐそばまで歩み寄る。
距離は近すぎない。
だが、何かあれば支えられるくらいには近い。
「かなり明確なものでしたか」
「明確、というほどでは」
ミレーユは小さく首を振る。
「でも、方向は分かりましたわ。地下機構の件と、無関係ではなさそうです」
「どのような」
「偽りの役を退けよ、と」
その一言に、霊真は静かに頷いた。
「やはり」
「やはり?」
「人を役へ押し込めるのは、よくないことなのでしょう」
そうやって、難しい啓示をものすごく簡単な言葉へ戻してしまう。
そこが、この人の不思議なところだ。
「……ええ」
ミレーユは笑う。
「たぶん、とても正しく、そしてとても身も蓋もない言い方ですわね」
霊真は少しだけ首をかしげた。
褒められているのかどうか判断に迷う顔だ。
「それと」
とミレーユは続ける。
「あなたのことも、中心に見えました」
ここで、彼は少しだけ目を瞬いた。
「私でしょうか」
「ええ」
ミレーユは頷く。
「皆がそれぞれ手を伸ばしていましたの。助けを求めるようにも、引き留めるようにも、選ばれたいと願うようにも見えましたわ」
そこまで言ってから、自分で少し恥ずかしくなる。
神託の説明としては真面目だ。
だが、内容が内容である。
「そうでしたか」
と霊真。
やはり、返しは静かだ。
「はい」
ミレーユは小さく息を吐く。
「ですから、もう“わたくしはただ見守る側です”という顔だけはできませんわね」
それは、自分自身への確認でもあった。
聖女候補であることは変わらない。
けれど、だからといって何もかも一歩引いた位置から見守るだけでは、もういられない。
「それが、偽りの役ではないのでしょうか」
と霊真。
また、そういうことを言う。
欲しいところへ、欲しい言葉だけを置いていく。
だから困る。
「ええ」
ミレーユは微笑む。
「そういうことなのでしょうね」
◇
しばらくして、礼拝堂の長椅子へ二人で腰を下ろした。
夜の礼拝堂。
二人きり。
静かな灯り。
それだけで十分に“イベント”っぽいのだが、ミレーユはもうそこにいちいち動揺しないことにした。
……いや、正確には、動揺している。
だが動揺していることそのものも、もう認めてしまったほうが楽なのだ。
「昨夜から今日にかけて」
とミレーユ。
「皆の様子が前よりずっと濃いでしょう?」
「はい」
霊真は頷く。
「かなり」
「聖具にも、同じことが映っていましたわ」
とミレーユ。
「断罪ルートが壊れたせいで、今度は各ルートがもっと前へ出てきている感じですの」
「エロゲのように」
と霊真が真顔で言う。
ミレーユはそこで吹き出しかけた。
「……そうですわね。かなり」
礼拝堂でその言葉を使うのはどうかと思うが、否定しきれないのが困る。
「ただ」
と彼女は続ける。
「今のわたくしは、それを全部“よくない”とも思っていませんの」
霊真が彼女を見る。
「聖女候補としては、少々問題かもしれませんわね」
ミレーユは苦笑した。
「ですが、皆が役ではなく、自分の心で動き始めているのなら……少なくとも前よりはましですもの」
それは、本心だった。
ルートが濃くなること自体が問題ではない。
それが“押しつけられた役”として濃くなるのが問題なのだ。
ならば今、自分が霊真のそばにいるのも、少なくとも半分以上は自分の意志だと言える。
それを認めると、また少しだけ心臓がうるさくなる。
「ミレーユ殿」
と霊真。
「何でしょう」
「本日は」
彼は少しだけ考えてから言った。
「いつもより、お近くにおられる気がいたします」
ミレーユは完全に固まった。
礼拝堂の静けさが、一瞬で意味を変える。
「……そ、それは」
何とか声を出す。
「たぶん、長椅子の幅ですわ」
「幅」
「ええ。礼拝堂の長椅子は、少し狭い時がありますの」
自分で言いながら、何を言っているのだろうと思う。
明らかに通路の狭さ言い訳を使うセレスティアみたいなことを言っている。
だが霊真は、少しだけ考えてから頷いた。
「そうでしたか」
「そうですわ」
ほんの少しだけ距離を取ろうとする。
だがそれをやると今度は露骨すぎる気がして、結局ほとんど動けない。
礼拝堂の夜は静かで、
灯りはやわらかくて、
隣にいる相手は相変わらず妙にまっすぐだ。
これで心が騒がないほうが無理というものだった。
◇
「でも」
とミレーユは小さく言った。
「たぶん、前より騒がしいのは聖具だけではありませんの」
「はい」
と霊真。
「……え?」
何だか、普通に受け入れられた気がする。
「ご自身のお心も、でしょうか」
と彼。
それを礼拝堂で真顔で言うのはずるい。
しかも、優しさだけでなく本気でそう思って言っている顔なのがもっとずるい。
「ええ」
ミレーユは観念して答えた。
「かなり」
「それは、大事なことかと」
またそうやって、変に綺麗な肯定をする。
「本当に」
とミレーユは笑った。
「あなたは、時々信じられないほど聖職向きのことをおっしゃいますわね」
「そうでしょうか」
「ええ。ですが残念ながら、今それを言われると、わたくしの恋のほうが少し騒がしくなります」
そこまで言うと、さすがに霊真も少しだけ黙った。
黙って、困った顔をする。
その困り方がまた、正直でいい。
「……申し訳ありません」
と彼。
「謝るところではありませんわ」
ミレーユは小さく首を振った。
「むしろ、今のはわたくしが悪いのです。礼拝堂で何を言っているのかしら、本当に」
そう言いながらも、後悔はなかった。
もう昨夜、自分はかなりのところまで認めてしまっている。
ならば今日、少しだけそれを明るい言い方へ変えたくらいで何が変わるわけでもない。
むしろ、そのほうが今の自分には自然だった。
◇
礼拝堂を出る前、ミレーユは最後に《暁光の小鏡》のほうを一度だけ振り返った。
銀の表面は、今はもう静かだ。
だが、今夜見せられたものは十分すぎるほど重い。
偽りの役を退けよ。
その言葉は、たぶんこれからもっと意味を持つ。
悪役令嬢にも、
本来ヒロインにも、
王子にも、
聖女候補にも、
攻略対象たちにも。
そして自分にも。
「……分かりましたわ」
とミレーユは、ごく小さく呟いた。
「わたくしも、もう“見守るだけの役”ではいません」
その宣言は、半分は聖具へ、
もう半分は自分の恋心へ向けたものだった。
礼拝堂を出たあとも、胸の中はまだ少し騒がしい。
だがその騒がしさは、昨夜よりも少しだけ嫌ではなかった。




