第57話 選ばれる役、落とされる役――古い魔導装置は物語を作りたがる
地下深くに刻まれた巨大な魔導紋は、生き物のように静かに脈打っていた。
九十九院霊真は、床一面に広がる複雑な紋様を見下ろしながら、胸の奥に広がる妙な感覚をじっと受け止めていた。光そのものは強くない。青白く、古く、冷たい。なのに、その光はただそこにあるだけではなく、こちらを“見ている”ようにも感じられる。
見ている。
測っている。
そして、選ぼうとしている。
そう思った瞬間、やはりこれはよくないものだと霊真は改めて思った。
人が人を見るのではなく、
仕組みが人を役として見ようとする。
それは、どう考えても穏やかなことではない。
「再選定シークエンス、ですか」
霊真が静かに繰り返すと、ルシアン・エーデル=クロイツは測定具を覗き込んだまま、非常に不機嫌そうな顔で頷いた。
「ええ」
と彼。
「昨夜の舞踏会で断罪ルートが成立しなかった。その結果、機構が“想定配置の不成立”と判断した可能性が高い」
言い方は淡々としている。
だが、その奥には明確な苛立ちがある。
「つまり」
とアルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタイン。
「一度失敗した配置を、別の形で修正しようとしているのか」
「そう考えるのが自然です」
ルシアンは答えた。
「少なくとも、この脈動は単なる残留魔力ではありません。何かを再計算し、再配列しようとしている。人の関係そのものを」
その言葉に、セレスティア・フォン・ローゼンベルクがわずかに顔をこわばらせた。
彼女はまだ霊真に軽く支えられたままだった。
先ほど機構が強く脈打った瞬間、気配を揺らされたのは彼女が最も大きかったからだ。
「……気分は」
と霊真が小さく尋ねる。
セレスティアは一度だけ目を閉じ、それから頷いた。
「もう、大丈夫ですわ」
声はまだ少しだけ硬い。
「ただ……とても、嫌な感じがしますの」
「どういう」
ミレーユが静かに問う。
セレスティアは少し迷ったあとで、正直に言った。
「まるで、“あなたはここです”と勝手に決められる感じですわ」
その表現に、ルシアンの目が鋭くなる。
「やはり」
彼は低く言った。
「対象認識が入っている」
「対象認識」
とオルバス。
「ええ」
ルシアンは測定具から顔を上げ、床の紋様を指した。
「この装置は、単に人の感情を煽るだけではない。もっと根本的に、人物同士の相関を役割として整理しようとしている」
役割。
その言葉が、この地下空間にはあまりにもよく似合ってしまうのが嫌だった。
◇
ルシアンは外套の内側から、先ほどオルバスから渡された古い記録の断片を取り出した。
地下の青白い光に照らされて、羊皮紙の古い文字が薄く浮かぶ。
「先ほど学園長から共有された文言を、こちらの魔導紋と照合していました」
とルシアン。
「やはり中心語は“選定”です」
「選定……」
ミレーユが小さく繰り返す。
聖職者に近い立場の彼女にとって、その語はただの術式用語以上の重みを持つのだろう。
「調和、継承、婚約、適合」
とルシアンは続けた。
「一見すると、王家と高位家門、聖職筋を安定的に結びつけるための補助機構に見えます。ですが、よく読むと違う」
「違うのか」
とアルフレッド。
「ええ。目的は安定ではない。少なくとも今この装置がやっていることは、“物語として分かりやすい役の選別”に近い」
その言い方に、オルバスが小さく眉を寄せた。
「物語、か」
「はい」
ルシアンは容赦なく頷く。
「王子は王子らしく。婚約者は婚約者らしく。庶民出身の少女は庶民出身の少女らしく。高位令嬢は高位令嬢らしく。聖女候補は聖女候補らしく」
そして一拍置いて、さらに冷たく言った。
「つまり、“選ばれる役”と“対置される役”を作りたがる装置です」
対置される役。
それは遠回しに言っているようでいて、実際にはかなり直接的だった。
本来ヒロイン。
悪役令嬢。
選ばれる側。
落とされる側。
それら全部を、この装置は“分かりやすい相関”として好んでいるのではないか。
「ひどいですわね」
とミレーユが言う。
「人を、人としてではなく配置として見ているのでしょう?」
「その通りです」
ルシアン。
「極めて制度的で、極めて下品です」
そこまで言ってから、彼はもう一度測定具へ視線を落とす。
「そして、昨夜の失敗で、それが今さらに露骨になろうとしている」
◇
「……少し、分かる気がしますわ」
そう呟いたのはセレスティアだった。
皆の視線が彼女へ向く。
彼女は少しだけ視線を落とし、それでも逃げずに続けた。
「幼い頃から、何度も言われてきましたもの。“あなたは王子殿下の婚約者にふさわしく育ちなさい”と」
地下の冷たい空気の中で、その言葉はひどく重く響いた。
「立ち方も、笑い方も、言葉の選び方も。すべて“そうあるべき形”がありましたわ」
セレスティアは静かに言う。
「わたくし自身がどうありたいかよりも、“どう見えるべきか”のほうが先に来るのです」
アルフレッドが、わずかに眉を寄せた。
王子として、たぶん思い当たるところがあるのだろう。
「つまり」
と霊真が言う。
「ローゼンベルク殿は、最初から役を与えられていたのでしょうか」
セレスティアは少しだけ苦く笑った。
「ええ。たぶん、そういうことでしょうね」
と彼女。
「学園で急に悪役令嬢にされたのではなく、もっと前から“王子の婚約者であり、対置されうる高位令嬢”として育てられてきた。だから、この機構にとっても都合がよかったのかもしれませんわ」
その言葉に、ミレーユが痛ましそうに目を伏せる。
アルフレッドもまた、王族としての責任を感じているのか、何も言わなかった。
霊真だけは、少し考えてから率直に言った。
「やはり、よくありません」
その一言に、セレスティアは一瞬だけ目を見開く。
「……そうでしょうね」
と、少しして彼女は答えた。
「ええ。本当によくありませんわ」
だがその返事には、どこか救われるような響きもあった。
難しい理屈ではなく、ただまっすぐに“よくない”と言ってもらえることが、今は必要だったのかもしれない。
◇
ルシアンは、中央の魔導紋の外周を慎重に歩きながら、さらに解析を進めていた。
「この辺りです」
と彼は床の一角を指す。
「王家側の紋と、高位貴族側の紋、それから聖職系の記号が三点で結ばれている」
ミレーユが近づき、慎重に覗き込む。
「礼拝堂の古い聖具にも似た記号がありますわ」
「ええ。完全一致ではありませんが、系統は近い」
「ということは」
アルフレッドが言う。
「王家、貴族、聖職、その三者を一つの舞台へ収めるための装置だったのか」
「おそらく」
とルシアン。
「しかもそれを、“自然な相関”として見せるための補助装置です。婚約も、選定も、後継も、本来は生きた人間の関係で決まるべきものなのに、それを制度へ戻したがる」
制度へ戻す。
それはたしかに、この地下機構の冷たさをよく表していた。
「人の心は、そんなに整いませんわ」
ミレーユが静かに言う。
「祈りも、好意も、嫉妬も、もっと揺れるものですもの」
「だから歪んだのでしょう」
とルシアン。
「揺れるものを無理に整えようとした結果、“分かりやすい役割の物語”へ落ちた」
つまり、この装置は最初からエロゲ的だったのではない。
もっと政治的で、もっと王朝的で、もっと制度的だった。
それが長い年月の中で劣化し、
簡略化され、
最終的に、
“誰が主役で、誰が悪役で、誰が選ばれるか”
だけを強く押す装置になってしまったのだ。
「すごく嫌ですわね」
とセレスティアが言った。
「ええ」
ルシアンも同意した。
「非常に」
◇
そのとき、床の紋様が再び強く脈打った。
先ほどよりもはっきりと。
青白い光が外周を走り、王家側の紋、高位貴族側の紋、そして聖職系の記号へ順に反応が伝わる。
「っ……!」
最も強く揺れたのは、やはりセレスティアだった。
今度は明らかにふらつく。
霊真がすぐ支えた。
腕だけでは足りず、片手が彼女の背へ回る。
通路が狭いからではない。
純粋に、支えなければ危なかったのだ。
「ローゼンベルク殿」
「だ、だいじょうぶ……ですわ」
だが声は明らかに硬い。
「何を見ていますか」
と霊真。
セレスティアは息を整えようとしながら、目を閉じる。
「……見える、というほどでは」
「感じることでも」
とミレーユが優しく促す。
少しの沈黙のあと、セレスティアはゆっくり言った。
「“こちらへ戻りなさい”と言われている感じですわ」
地下空間の温度が、一段下がった気がした。
「戻る?」
アルフレッドが低く問う。
「ええ」
セレスティアは霊真に支えられたまま、苦々しく答えた。
「婚約者役へ。高位令嬢役へ。悪役令嬢役へ。……そういう“分かりやすい場所”へ、戻れと言われているような感じですの」
ルシアンの目が鋭くなる。
「対象認識だけではない」
彼はほとんど吐き捨てるように言った。
「再配置の圧そのものだ」
「再配置」
と霊真。
「ええ」
ルシアンは測定具を握り直す。
「昨夜の断罪失敗で、ローゼンベルク嬢が“悪役令嬢として適切な位置へ収まらなかった”。だから装置が再配置を始めている」
言葉にしてしまうと、あまりにも露骨だった。
世界の仕様。
悪役令嬢要素。
エロゲ的な役割固定。
それらが全部、幻想ではなく、今この地下で実際に動いている魔導装置によるものかもしれないのだ。
◇
「そんなもの」
アルフレッドが低く言う。
「受け入れる必要はない」
王子の声は、前よりずっと強かった。
役へ押し込められるのは、セレスティアだけではないと、彼自身ももう理解しているからだろう。
「本来であれば」
とアルフレッド。
「婚約も、王家の選定も、人の意志と責任の上にあるべきものだ。装置に“最適化”されるためのものではない」
「その通りですわ」
セレスティアはまだ少し苦しげだが、それでも頷く。
「まったく、ありがた迷惑ですこと」
その言い方に、ほんのわずかだけ以前の気高さが戻る。
だが今は、それが空元気ではなく、抵抗の意志として機能していた。
ミレーユはそっと言った。
「偽りの役を退けよ、という啓示に近いですわね」
「聖遺物の」
「ええ。数日前から、礼拝堂では同じ方向を示していましたの」
つまり地下機構だけではない。
聖具や王家側の結界など、この世界のもっと広い範囲が“役割の歪み”に反応し始めているのかもしれない。
◇
「学園長」
ルシアンが顔を上げた。
「この装置は本当に学園だけのものですか」
オルバスは少しだけ沈黙した。
「……断言はできん」
「つまり?」
とアルフレッド。
「王立学園がただの学校でない以上、ここは“支流”の一つかもしれない」
オルバスは低く言う。
「王都中枢に、さらに大きな本機構がある可能性はある」
その言葉に、全員が黙った。
学園地下だけでこれほどなのだ。
もし王都の中枢に、もっと大きな“選定機構”があるとしたら。
王族の婚約も、
高位家門の結びつきも、
聖職者の選定も、
その全部が、もっと大きな“役割の物語”として整えられているかもしれない。
「……面倒ですわね」
セレスティアが、かなり本気で言った。
「ええ」
今度はミレーユも即答した。
「とても」
霊真は、支えたままの姿勢で小さく息を吐いた。
ここまで見えたものは大きい。
だが同時に、問題は学園の中だけで終わらないと分かってしまった。
それでも。
「まずは」
と霊真は静かに言う。
「戻らぬようにするしかないかと」
セレスティアが彼を見る。
「戻らぬように」
「はい」
霊真は頷く。
「ローゼンベルク殿が、役へ押し戻されぬよう」
その言葉に、セレスティアはほんの少しだけ目を細めた。
「……ええ」
彼女は小さく答える。
「そうですわね」
地下機構は、まだ脈打っている。
再選定は始まったばかりだ。
けれど少なくとも、今ここにいる者たちはもう、
自分たちが何へ押し込められようとしているかを知っている。
それは大きな違いだった。




