第56話 悪役令嬢と潜入ミッション、距離が近いのは通路が狭いせいですわ
夜の学園は、昼間よりずっと“物語めいて”見える。
九十九院霊真は、旧校舎裏の静かな回廊でそう思っていた。
昼間は人の声や足音で埋まっている石畳も、夜になると妙に広く感じる。灯りは必要最低限しかなく、風が吹くたび木々の影が揺れて、何でもない窓や扉まで秘密を持っているように見えてくる。
そして今夜の霊真は、まさにその“秘密”の中へ入ろうとしていた。
学園地下に眠る選定の魔導機構。
人を役へ押し込み、王子らしさや悪役令嬢らしさや本来ヒロインらしさを補強してきたかもしれない、古い装置。
それを見に行く。
同行者は本来、霊真、アルフレッド、ルシアン、ミレーユ、そして案内役のオルバスのはずだった。
はずだったのだが。
「やはり、わたくしも参りますわ」
そう言って譲らなかった人が一人いた。
セレスティア・フォン・ローゼンベルクである。
学園の女子寮裏にある、今は使われていない回廊の入口で、彼女はいつものように背筋を伸ばして立っていた。夜の装いは学園制服の上へ薄い外套を重ねた程度なのに、妙に目を引く。悪役令嬢めいた華やかさではなく、高位貴族令嬢としての輪郭が夜の闇にきれいに浮いていた。
アルフレッドが苦笑交じりに言う。
「私は止めたのだがな」
「止められてやめるようなら、昨夜の舞踏会でわたくしは立っておりませんわ」
とセレスティア。
その返しに、王子はそれ以上何も言えなかった。
たしかに、その通りだ。
昨夜、セレスティアは自分で立った。
悪役令嬢役を拒み、自分の言葉で舞台を奪い返した。
ならば今夜もまた、“守られるだけではいたくない”と言い出すのは自然なのだろう。
「理由は三つございますわ」
とセレスティア。
「一つ、わたくし自身が昨夜の断罪ルートの中心でしたこと。二つ、ローゼンベルク家と王家の婚約・選定に関わるなら、わたくしを外すほうが不自然であること」
そこまでは、きわめて理性的な説明だった。
問題は三つ目である。
「そして三つ」
セレスティアはほんの少しだけ顎を引いた。
「今度も守られるだけで終わる気はありませんの」
夜の回廊が、一瞬だけ静かになった。
ルシアンは無言で視線を逸らし、ミレーユは小さく微笑み、ガイゼルは“まあそう言うよな”という顔をし、アルフレッドはもう何度目か分からない諦めの息を吐いた。
オルバスだけが、少し考えたあとで頷いた。
「よかろう。だが条件がある」
「何ですの」
「勝手に前へ出るな。何かあれば、レイシン君か私の指示を待て」
「……なぜそこであなたなのです」
セレスティアは一瞬だけ霊真を見る。
「学園長ではなく」
「今さらでしょう」
とルシアンがぼそりと言った。
妙に刺のある言い方だったが、セレスティアは聞かなかったふりをした。
◇
隠し通路の入口は、旧校舎裏の使われなくなった物置の奥にあった。
壁一面に古い棚が並び、埃をかぶった教材箱や壊れた備品が積まれている。そんな場所の一角に、オルバスが古びた石板へ手を当てると、鈍い音とともに壁の一部が内側へずれた。
冷たい空気が、細い隙間からふわりと漏れる。
「ここから先は、古い避難通路と、さらに昔の保守経路が混ざっている」
とオルバス。
「足元が悪い。灯りは最小限にしろ」
通路は驚くほど狭かった。
大人一人がようやく通れる程度の幅しかない。壁は石造りで、ところどころ苔のようなものが薄く張りついている。天井も低く、背の高いガイゼルは少し屈まなければならなかった。
「……これは」
ミレーユが苦笑する。
「たしかに大人数向きではありませんわね」
「だから本当は人数を減らしたかった」
とオルバス。
「だが今さら言っても遅いな」
順番は、オルバス、ルシアン、アルフレッド、ミレーユ、霊真、そして最後尾がセレスティアになった。
なぜそうなったかというと、通路が狭く、途中で枝分かれが多く、はぐれぬよう一定の間隔を詰める必要があったからだ。
そして、しばらく進んだところで最初の問題が起きた。
「ちょっと、お待ちになって」
後ろからセレスティアの声。
霊真が足を止めて振り返ると、彼女は裾ではなく外套の端を石の出っ張りへ引っかけていた。傷むほどではないが、このまま無理に進めば裂けるかもしれない。
「失礼します」
霊真は少し身を返し、暗がりの中で手を伸ばした。
通路が狭い。
とにかく狭い。
そのため、外套の端を外そうとするだけで、自然と距離が近くなる。
壁と壁の間に二人が半ば重なるように立ち、霊真が手を伸ばし、セレスティアが息を止める。
「……近いですわ」
「通路が狭いので」
「分かっていますわ」
返答が少しだけ上ずる。
だが彼女は動かない。
動けば余計に引っかかるからだ。
ほどなくして布は無事に外れた。
霊真が「取れました」と言うと、セレスティアはほんの少しだけ顔を背ける。
「ありがとうございます」
「いえ」
「近かったのは、通路が狭いからですわ」
「はい」
「今の“はい”は何ですの」
「事実かと」
「……そういうところです」
前のほうにいたガイゼルが小さく笑い、ルシアンが露骨に舌打ちしたような音がした。
「何か?」
とセレスティアが前方へ言う。
「別に」
とガイゼル。
「狭い通路って便利だなと思っただけだ」
「後で覚えていらっしゃい」
◇
さらに奥へ進むと、通路は一段きつい下りになった。
足元の石段は古く、ところどころ削れている。手をつけるほどではないが、気を抜けば滑りそうだ。
オルバスが前から注意を飛ばす。
「気をつけろ。ここから先は保守も入っていない」
その言葉どおり、段差の一つでセレスティアの足がわずかに滑った。
「……っ」
大きく崩れたわけではない。
だが通路が狭いせいで、少し体勢を崩しただけで壁へぶつかる危険がある。
霊真は反射的に彼女の腕を支えた。
「大丈夫でしょうか」
「……ええ」
返事はあった。
だが声がやや硬い。
今度は完全に腕へ手がかかっている。
しかも狭い階段の途中だから、離れればまた危ない。
「少し、このまま下ります」
と霊真。
「……ええ」
セレスティアはおとなしく頷いた。
腕を支えられたまま、二人で数段ずつ慎重に下りる。
前から見れば単に安全確保だ。
だが当人たちにとっては、どうにも距離感がまずい。
セレスティアの外套越しに伝わる体温。
息を潜めるたびに近くなる気配。
階段の角度のせいで、どうしても顔の距離まで少し近い。
「……本当に」
セレスティアが小さく言う。
「近いですわね」
「階段が急なので」
「それも分かっていますわ」
分かっているのだ。
分かっているからこそ、余計に言い訳したくなるのだろう。
ようやく平らな場所へ出ると、霊真はすぐ手を離した。
その速さが、逆に少し名残惜しいような、ありがたいような、そんな微妙な空気が生まれる。
セレスティアはそれを誤魔化すように咳払いした。
「……助かりました」
「いえ」
「今のも、通路が狭く、段差が急だったからですわ」
「はい」
「だからその“はい”は何ですの」
霊真は少しだけ考えた。
「二度目でしたので」
「何が」
「同じご説明をいただきました」
「もう黙ってくださる?」
前のほうで、ミレーユが袖口に口元を隠した。
笑っている。
◇
やがて通路はさらに古く、さらに暗くなっていく。
ここから先は避難通路というより、完全に別物だった。壁には古い魔導文字のような刻みが薄く残り、ところどころに埋め込まれた小さな石が、霊真たちの灯りに反応するように微かに青白く揺れる。
「……感じますわ」
ミレーユが立ち止まりかける。
「礼拝堂の聖遺物に似た気配が」
「同感です」
ルシアンもすぐ応じた。
「ただし、もっと無機質だ。信仰や祈りの温度ではなく、制度そのものの温度に近い」
「制度」
とアルフレッド。
「王族、婚約、聖女、貴族家の結びつきを“安定させる”ために作られたなら、当然でしょう」
ルシアンは低く答える。
「つまりこれは、人間関係そのものを王朝システムへ組み込むための装置です」
その言い方に、セレスティアがわずかに顔をしかめた。
婚約。
貴族家。
役割。
それらは全部、彼女にとってあまりに近い言葉だ。
「気分が優れませんか」
と霊真が小さく問う。
セレスティアは一瞬だけ迷ったあと、素直に言った。
「……少しだけ」
「無理はなさらぬほうが」
「でも、引き返しませんわ」
きっぱりしている。
その強さは彼女の美徳だ。
だが今夜の霊真には、それが少し危うくも見えた。
「承知しました」
と彼。
「では、気分が悪くなればすぐおっしゃってください」
「ええ」
セレスティアは頷く。
そしてほんの少し、声を和らげた。
「あなたには申しますわ」
その言い方が、夜の狭い通路では妙に近く感じられる。
後方からまた、ルシアンのいかにも不機嫌そうな沈黙が漂ってきた。
◇
さらに進んだ先で、通路は二股に分かれていた。
片方は完全に崩れかけている。
もう片方は細いが、まだ人が通れる。
オルバスが前の壁へ手を当てると、埋め込まれた古い紋様が微かに光った。
「こちらだ」
と学園長。
その先は、ほとんど“部屋”だった。
地下深くにぽっかりと空いた円形の空間。
天井は高く、中央には巨大な魔導紋が床一面へ刻まれている。幾重にも重なる円環と、王家・聖職・高位貴族の紋章を思わせる記号群。さらにその外周を、細い光の線が脈動しながらめぐっていた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
あまりにも、存在感がある。
それはただ大きいからではない。
何かを“選ぶために作られた”気配そのものが、空間いっぱいに満ちているからだ。
「……これが」
アルフレッドが低く言う。
「学園地下の選定機構の一部だ」
とオルバス。
ルシアンはほとんど夢中で前へ出た。
ミレーユは胸の前で小さく祈りの形をとる。
霊真は中央の紋様を見つめながら、やはり同じことを思った。
人を役へ押し込めるには、あまりに大きすぎる。
そして、あまりに長く使われすぎている。
セレスティアは、その光景を見た瞬間、ほんのわずかに息を止めた。
床の外周に刻まれた紋様の一つが、ローゼンベルク家の魔導紋に酷似していたからだ。
「……ありますわ」
彼女が呟く。
「うちの紋に近いものが」
アルフレッドもすぐ気づいたらしい。
王家側の紋もある。
聖職系の記号も。
つまりこの装置は本当に、王族・高位貴族・聖職者を結ぶために作られているのだ。
「やはり」
ルシアンが低く言う。
「これはただの感情誘導装置ではありません。もっと根本だ」
彼は床の紋様に沿って歩き、指先で古い文字をなぞった。
「選定。
対置。
調和。
継承。
適合。
……ひどい」
「何がでしょう」
と霊真。
ルシアンは振り向かずに答えた。
「人間を人物として見るための装置ではなく、“役割配置”として処理するための装置です」
その言葉に、セレスティアの睫毛がわずかに震える。
彼女はもう、少し前からその意味を肌で知っていたのだろう。
王子の婚約者。
高位貴族令嬢。
悪役令嬢にされやすい位置。
そういう役の上に、自分が置かれ続けていたことを。
◇
「ここ、ただのエロゲ世界ではないのでは?」
ミレーユがぽつりと言った。
冗談めいた言い回しだ。
だが、誰も笑わなかった。
たしかに、ただ“そういう雰囲気の世界”だったのではないのだ。
世界の下に、もっと古く、もっと制度的な魔導装置があり、
それが人の関係を“そういうふう”へ整えていたのだとしたら。
それは、雰囲気ではなく構造である。
エロゲ的な配置。
悪役令嬢的な対立。
攻略対象的な役割。
その全部が、実際にはファンタジー世界の古代魔導機構によって補強されていたかもしれない。
「迷惑ですわね」
セレスティアが小さく言う。
「本当に」
だが、その声には単なる苛立ちだけではなく、
ここへ来たからこそようやく見えたものへの苦さもあった。
自分がなぜあれほど“悪役令嬢らしい位置”へ押し込められてきたのか。
それが本人の性格や運だけではなかったのだとしたら。
怒りより先に、まず空しさが来るのかもしれない。
◇
そのときだった。
床の光が、ほんのわずかに強く脈打った。
全員が息を止める。
ルシアンがすぐに測定具を構え、オルバスが前へ出る。
ミレーユは反射的に祈りの言葉を口の中で紡ぎ、アルフレッドはセレスティアを庇うように一歩動こうとする。
だが、最もはっきり反応したのは、霊真とセレスティアだった。
霊真には、遠くから“こちらを見ている”ような感覚がした。
視線ではない。
もっと古く、もっと無機質な、“選ぶための仕組み”がこちらを認識した感じだ。
セレスティアは一歩だけふらついた。
「ローゼンベルク殿」
霊真がすぐ支える。
今度は通路の狭さのせいではない。
純粋に、彼女の気配が揺れたのだ。
「……だいじょうぶ、ですわ」
と言う声は少し硬い。
「何が起きている」
アルフレッドが低く問う。
ルシアンは測定具を見つめたまま、ほとんど吐き出すように言った。
「再選定シークエンスです」
空気が凍る。
「昨夜の断罪失敗に反応している」
とルシアンは続ける。
「配置が崩れたと判断したのでしょう。機構が、自動的に新しい役割配置を試み始めています」
つまり。
断罪ルートが壊れたことで、終わったのではない。
むしろここから、もっと露骨な“ルート修正”が始まるのだ。
霊真は支えたままのセレスティアを見た。
彼女もそれを理解したらしい。
赤い瞳に、今度ははっきりした緊張が宿る。
「……面倒ですわね」
と彼女は言う。
「ええ」
ルシアンが即答する。
「非常に」
地下の巨大魔導紋は、静かに、だが確かに再び光り始めていた。




