第55話 学園地下に眠る“選定の魔導機構”――ここ、ただのエロゲ世界ではないのでは?
断罪ルートが崩壊した翌日の放課後、九十九院霊真は学園長室の前でほんの少しだけ立ち止まっていた。
王立エーヴェルシュタイン学園の学園長室は、外から見ればごく普通の重厚な扉を持つ部屋にすぎない。だが、こうして正式に呼ばれて立つと、そこには別種の緊張がある。王子が出入りし、教師たちが頭を下げ、時には王都の役人すら来る場所だ。学園の中枢であり、同時に、この世界の“見えない流れ”のいくつかが集まる場所でもあるのだろう。
「入ってよい」
中から聞こえたオルバス・グランディール学園長の声は、いつもどおり落ち着いていた。
霊真が扉を開けると、すでに何人かが集まっていた。
アルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタイン。
王子としての気配は相変わらず強いが、今は儀礼の場ではなく“内側の話”をする顔をしている。
ルシアン・エーデル=クロイツ。
椅子へ深く座っているくせに、視線だけは部屋の中のすべてを測定しているようだった。
ミレーユ・セラフィナ。
いつものやわらかな微笑を浮かべているが、その下でかなり強く警戒しているのが分かる。
そして霊真が入ったことで、学園長室の空気が一段だけ閉じた。
表向きの相談ではない。
ここから話されるのは、間違いなく秘匿に近い話なのだろう。
「お待たせいたしました」
と霊真が頭を下げる。
「いいや」
とオルバス。
「今ちょうど全員揃ったところだ」
学園長は机の奥に立ったまま、しばらく四人を見渡した。
その沈黙の長さだけで、これから語られることの重さが分かる。
「まず、結論から言おう」
とオルバス。
「昨夜の断罪未遂失敗によって、学園内部の古い機構が刺激された可能性が高い」
ルシアンの目が、ほとんど反射的に鋭くなる。
アルフレッドは表情を動かさない。
ミレーユは胸の前で手を重ね直した。
霊真だけが、まず素直に尋ねた。
「古い機構、でしょうか」
「そうだ」
とオルバス。
「学園の地下に眠っている。公式記録からは半ば消えかけ、知る者もごく一部しかおらん。だが、王立学園が王立学園である以上、最初から“ただの学校”ではなかった」
それは、最近の霊真にとっては妙に納得しやすい言葉でもあった。
この学園は普通ではない。
人の視線が集まりすぎる。
役割が固定されやすい。
悪役令嬢、本来ヒロイン、王子、聖女候補、天才魔術師、騎士。
まるでそういう記号を最初から欲しているみたいに、空気が人物をそこへ押してくる。
それが全部、人間の性質だけで説明できるとは、もう思えなかった。
「昔」
とオルバスは続けた。
「王朝の変わり目に、王族・高位貴族・聖職者の関係を安定させるための魔導機構が作られたらしい」
その瞬間、ルシアンが低く息を呑んだ。
「……まさか」
「君ならそう思うだろうな」
とオルバス。
「そうだ。人の相関そのものへ薄く干渉する類の装置だ」
ミレーユの顔色がわずかに変わる。
「それは……禁忌に近いのではありませんか」
「近い」
とオルバス。
「いや、今の感覚で言えば十分に禁忌だろう。だからこそ記録から消えた。だが消えきらなかった。そして学園の基礎構造の一部として、地下に沈んだまま残った」
アルフレッドがそこで、低く問う。
「目的は何だったのです」
「表向きは“調和”だ」
オルバスは答えた。
「王族候補の婚姻、高位家門の結びつき、聖女候補や王家側近の選定。そうしたものが毎回混乱し、権力争いと感情のもつれで国全体が揺れる。それを防ぐため、最も秩序的な配置へ人間関係を誘導する補助機構が求められた」
補助機構。
言い方は穏やかだ。
だが実際にやっていることは穏やかではない。
霊真は静かに言った。
「人を、役へ押し込めるのでしょうか」
オルバスは彼を見る。
そして、少しだけ苦く笑った。
「簡潔に言えば、その通りだ」
◇
ルシアンが椅子から半ば身を乗り出した。
「詳細な構造記録は?」
「断片しかない」
「魔導言語系統は?」
「古王朝式だろう。現行の宮廷術式より古く、宗教系の記号も混じる」
「稼働条件は?」
「完全には不明だ」
質問が速い。
しかも多い。
オルバスもそれを予想していたのだろう。机の上から薄い封筒を取り出し、ルシアンへ差し出した。
「手元にあるのはこれだけだ」
「少なすぎます」
「残っているだけましだと思え」
ルシアンは封筒を開き、紙束へ視線を走らせた。
その一枚一枚をめくる速度が異常に速い。
たぶん彼の頭の中では、もう文言だけではなく術式構造の仮説まで走り始めている。
「……っ」
そこで、彼が本気で息を止めたのが分かった。
「どうかなさいましたか」
と霊真。
ルシアンは紙から目を上げ、珍しくかなり素直な衝撃を顔に出していた。
「ここに記されている目的語、調和ではありません」
「違うのか」
とアルフレッド。
「調和も含まれてはいますが、中心はむしろ“選定”です」
ルシアンは紙の一行を指で叩いた。
「人を安定させるための装置ではない。“誰を選び、誰を補佐に置き、誰を対置させるか”を整理する装置に近い」
対置。
その言葉に、昨夜の会場の光景がよみがえる。
王子。
本来ヒロイン。
悪役令嬢。
善良な少女。
華やかな高位令嬢。
正しい婚約関係。
対立する二者。
あまりにも“それらしく”並べられすぎていた。
「……本当に、エロゲみたいですわね」
ミレーユがぽつりとこぼした。
誰もすぐには否定しなかった。
この世界の空気が、どうしてここまで露骨に“攻略対象らしさ”や“悪役令嬢らしさ”を求めてくるのか。
その正体が、もしかしたら古代魔導機構にあるのだとしたら。
それはつまり、この世界がただ偶然そう見えていたのではなく、
そう見えるように調整されていた可能性
を意味する。
◇
「待ってください」
アルフレッドが静かに言う。
「では、昨夜の舞踏会で起きたことは、単に断罪未遂が失敗したというだけではなく」
「はい」
とルシアン。
「“選定結果の修正失敗”とでも呼ぶべきものかもしれません」
「修正」
「ええ。おそらく、あの会場と壇上は、選定機構と連動しやすいよう何度も手を加えられていた」
ルシアンの声はどんどん低くなる。
「断罪ルートが成立すれば、王子、本来ヒロイン、悪役令嬢の位置関係が極めて分かりやすく固定されたはずです」
そこへ、霊真が尋ねた。
「固定されると、どうなるのでしょう」
ルシアンは一瞬だけ考え、それから言った。
「人間関係の“主軸”が定まります。誰が選ばれる側か、誰が支援役か、誰が対置役か、誰が落とされる役か。今までは薄い空気の押しだけだったものが、もっと強く、もっと自然に働くようになるかもしれません」
「……嫌ですね」
と霊真。
「ええ」
ルシアンは即答した。
「非常に」
それは全員の気持ちを代弁していた。
◇
ミレーユは静かに息を吐いた。
「わたくし、少しだけ思い当たることがあります」
「何だ」
とオルバス。
「礼拝堂の古い聖遺物です」
と彼女は言う。
「数日前から、あれが妙に揺れるのです。神託というほど明確ではありません。けれど、人と人の結びつきが乱れる時、特に“正しくあるべき役”が崩れる時だけ、少し反応が強くなる」
オルバスの眉が動く。
「学園地下機構と、礼拝堂側の聖具が連動している可能性か」
「おそらく」
ミレーユは頷く。
「本来は、王家・聖職・高位貴族の結びつきを安定させるための“正しい秩序”だったのかもしれません」
「そして今は」
アルフレッドが引き継ぐ。
「“物語として都合のよい配置”へ歪んでいる」
その言い方は、以前の王子ならしなかっただろうと霊真は思う。
だが今の彼は、もう自分が舞台の一部へ押し込められていたことをはっきり理解している。
「では」
と霊真。
「断罪ルートが壊れたことで、その機構はどうなるのでしょう」
しばし沈黙。
答えたのはオルバスだった。
「おそらく“再選定”に入る」
その一言で、部屋の空気が冷えた。
「再選定」
とミレーユが繰り返す。
「そうだ。古い機構は、一度定まらなかった配置をそのまま放置しない。別の形で修正しようとするはずだ」
学園長は四人を見た。
「つまり、これから学園では、より露骨な“役割修正イベント”が起こりうる」
エロゲの共通ルート後半みたいだな、とルシアンが小さく呟いた。
今回は誰も咎めなかった。
たぶん全員、同じようなことを思っていたからだ。
◇
「……まことに迷惑な話です」
とアルフレッド。
「ええ」
ミレーユも同意する。
「神の御業ではなく、人の都合で作られた調和など、信仰の立場から見てもかなり不愉快ですわ」
ルシアンは紙束をめくりながら、淡々と続けた。
「しかもこの機構、かなり悪質です。王子は王子らしく。本来ヒロインは本来ヒロインらしく。悪役令嬢は悪役令嬢らしく。攻略対象は攻略対象らしく――そういう“ラベルの濃さ”に応じて配置を安定させようとしている形跡がある」
「ラベル」
と霊真。
「役割記号と言い換えてもいい」
ルシアンは少し顔をしかめた。
「人間そのものではなく、“その人がどのポジションに見えるか”のほうを優先している」
つまり、セレスティアはセレスティア本人だからではなく、
王子の婚約者であり、高位貴族令嬢であり、対置役として美しい“悪役令嬢”
だから、そこへ押し込められやすいのだ。
リリアーナもまた、
庶民出身で、善良で、庇われやすく、“本来ヒロイン”らしいから
選ばれる側へ置かれやすい。
アルフレッドも、
ミレーユも、
ルシアンも、
ガイゼルも。
皆が、それぞれ“らしさ”に応じて押されている。
「人を役で見るのは、よくありません」
と霊真は静かに言った。
その一言に、部屋の空気が少しだけ落ち着く。
単純だ。
だが、彼が言うと妙に核心へ届く。
オルバスは苦く笑った。
「君は本当に、複雑な話を一番簡単な形へ戻してくるな」
「そうでしょうか」
「そうだ。そして今は、それがありがたい」
◇
しばらくして、オルバスは声を低くした。
「地下を見せよう」
アルフレッドが顔を上げる。
ミレーユも息を呑む。
ルシアンの目は、ほとんど光った。
「正式には立入禁止だ」
と学園長。
「王族であっても、私の許可なしには入れん。教師の多くも存在自体を知らぬ。だが、ここまで来て見せぬわけにはいかない」
「今夜ですか」
とアルフレッド。
「今夜だ」
オルバスは頷いた。
「隠し通路を使う。大人数では行けん。最低限に絞る」
ルシアンがほとんど条件反射で口を開く。
「私も同行します」
「当然だろう」
とオルバス。
「むしろ君が来ねば解析が進まん」
ミレーユも静かに言った。
「礼拝堂側の反応との照合が必要ですわ。わたくしも行きます」
アルフレッドは一拍だけ迷い、それから頷く。
「王家の責任が関わるなら、私も行く」
そこで、霊真は少し考えてから問うた。
「私も、でしょうか」
一瞬、三人が同時に彼を見た。
ルシアンが真顔で言う。
「むしろあなたが中心です」
「中心」
「選定機構が今最も強く反応している対象が、あなたである可能性が高い」
「そうでしたか」
何だか迷惑な話だな、と霊真は思った。
オルバスも頷く。
「君が来たことで、あの機構は大きく狂った。ならば君が見るべきだ」
「承知しました」
と霊真。
その返答に、ミレーユが少しだけ不思議そうに笑う。
「本当に、こういう時だけは迷いませんのね」
「困っているものがあるのであれば」
と霊真。
「見たほうがよろしいかと」
その言い方が、やはり彼らしい。
◇
だが、話はそれで終わらなかった。
隠し通路から入る人数を絞る。
それは当然だ。
だが、ここでオルバスが少しだけ言葉を濁した。
「もう一人、関わるべき者がいるかもしれん」
「誰だ」
とアルフレッド。
学園長は少しだけ目を伏せ、それから言った。
「ローゼンベルク嬢だ」
部屋の空気が変わる。
セレスティア・フォン・ローゼンベルク。
昨夜、断罪ルートを自ら拒絶し、悪役令嬢役を跳ね返した令嬢。
「やはり、そうなりますか」
ミレーユが小さく言う。
「ええ」
とルシアン。
「王子・本来ヒロイン・悪役令嬢の三点で最も強く機構が組まれているなら、彼女を外すのは不自然です」
霊真は静かに頷いた。
たしかにそうだろう。
昨夜の舞踏会でも、機構はセレスティアを最も“美しく断罪される役”へ置こうとしていた。
彼女はその中心だった。
ならば地下の選定機構にも、何らかの形で最も強く関わっている可能性が高い。
アルフレッドは少し考え、それから言った。
「本人の意思を尊重すべきだな」
「もちろんだ」
とオルバス。
「強制はせん。だが、知らせる必要はある」
そこで、なぜかルシアンとミレーユがほぼ同時に霊真を見た。
「……何でしょう」
と霊真。
「あなたが伝えてください」
とミレーユ。
「はい?」
「昨夜の流れと、今朝の学園の空気を見れば、ローゼンベルク様へ最も自然に話を通せるのはあなたでしょう」
「理論的にもそうです」
とルシアン。
「理論」
何の理論だろう。
だが二人とも、かなり本気でそう思っている顔だった。
アルフレッドも半ば苦笑しながら頷く。
「……まあ、私が行くと別の意味が出るからな」
それもそうかもしれない。
王子がローゼンベルク嬢へ極秘地下探索への同行を直接頼めば、また婚約関係だの何だのが余計に絡む。
ミレーユやルシアンも、それぞれ別方向で色がつきすぎるのだろう。
ならば消去法で、霊真になる。
「承知しました」
と霊真。
すると、オルバスが小さく笑った。
「君は本当に、そういうことをさらりと引き受ける」
「必要であれば」
「必要すぎる」
◇
学園長室を出るころには、外はすでに夕方へ傾き始めていた。
廊下の窓から差し込む光が赤みを帯びていて、昼間より学園が少しだけ静かに見える。
だがその静けさの下で、今夜の地下探索が待っているのだと思うと、空気の重さは消えなかった。
ルシアンはすでに紙束へ追加の書き込みを始めている。
ミレーユは礼拝堂側の準備があると言って足早に去った。
アルフレッドも王子としての表向きの処理へ戻らねばならないらしい。
結果、霊真は一人、しばらく回廊へ残った。
地下機構。
選定。
役割固定。
再選定。
世界の正体に近づいている気がする。
だが近づけば近づくほど、そこにあるのが“人を役へ押し込めるための優しさのふりをした暴力”だとはっきりしていく。
「やはり、よくありませんね」
小さく呟いたそのとき。
「何が、よくありませんの?」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、セレスティア・フォン・ローゼンベルクが立っていた。
どうやら、ちょうど今こちらへ向かってきたらしい。
放課後の相談兼確認イベント――などと学園中が勝手に呼びそうな場面そのままだった。
昨日の断罪舞台を壊し、
今朝は妙に柔らかく、
そして学園中から“悪役令嬢ルート本命化”と囁かれている当人。
霊真は一瞬だけ、さきほどの学園長室で決まった話を思い出した。
そうだった。
この人へ、今夜のことを伝えねばならない。
「少し」
と霊真。
「学園のことを考えておりました」
「そう」
セレスティアは一歩近づく。
「でしたら、ちょうどよろしいですわね。こちらも少し、お話がありますの」
タイミングがよすぎて、もはや笑えてくるほどだった。
そしてたぶん、この先はもっと濃くなるのだろうと、霊真は何となく思ったのである。




