第54話 悪役令嬢ルート急浮上につき、本来ヒロイン陣営が妙にざわついております
断罪ルートが崩壊した翌朝、王立エーヴェルシュタイン学園は、昨日までよりさらに妙な熱を帯びていた。
九十九院霊真は、朝の回廊を歩きながら、その空気の変化をかなり率直に感じ取っていた。
昨日までの学園は、悪役令嬢を用意し、本来ヒロインを立て、王子を正しく見せ、攻略対象たちをそれぞれ“それらしい位置”へ押し込めたがる、ひどく作為的な空気に満ちていた。断罪劇という大きな流れがあり、その中で誰がどこへ立たされるかが決められようとしていたのだ。
だが昨夜、その大きな流れは壊れた。
王子は進行を止めた。
天才魔術師は術式を暴いた。
聖女候補は人心の濁りを指摘した。
本来ヒロインは噂の構造を壊した。
悪役令嬢は、自分が悪役令嬢であることそのものを拒絶した。
ならば今朝は、少し落ち着いていてもよさそうなものだった。
ところが、現実は逆だった。
断罪ルートが消えたぶん、今度は個別ルートの濃度だけが妙に浮き上がってきている。
「……急に、個別でございます」
ぽつりと漏らした霊真の独り言に、すぐ横から苦笑混じりの声が返ってきた。
「何がだよ」
ガイゼル・ヴァン・ドレイクだった。
朝だというのに、すでに軽く鍛錬を終えたらしい。式典明けの翌朝でも生活のリズムが崩れないあたり、いかにも彼らしい。
「皆さまの動きです」
と霊真。
「昨日までは大きな流れがありましたが、本日はむしろ、個々の関係だけが前へ出ている気がいたします」
ガイゼルは数秒ほど黙り、それから鼻で笑った。
「そりゃそうだろ」
「そうでしょうか」
「大筋の断罪ショーがぶっ壊れたんだ。そしたら今度は、“じゃあ結局誰と誰がどうなんだ”って話にみんな飛びつくに決まってる」
言い方は雑だが、本質はそこなのだろう。
実際、少し離れた場所にいる女子生徒たちの視線は、もう露骨すぎるほどそうだった。
「見て、またレイシンさん」
「昨日の夜のあとで普通に歩いてるだけなのに、何でこんなに意味ありげに見えるの」
「というか断罪ルート崩壊した結果、ローゼンベルク様ルートだけ一気に本命感増してない?」
「増してる。ていうか、悪役令嬢ルート急浮上どころじゃなくて、もはや一位では?」
「でも本来ヒロイン陣営もまだ全然死んでないのよね」
「王子も聖女候補も魔術師も騎士も、全員変な方向に濃くなってるのが一番怖い」
後半はやはり、霊真には半分も意味が分からない。
だが、“本命感”とか“ルート急浮上”という単語が、今朝の学園全体の熱を妙によく表していることだけは感じ取れた。
悪役令嬢断罪劇は終わった。
なのにその結果として、悪役令嬢ルートだけがやたらと強く見え始めている。
それは確かに、少し不思議なことだった。
◇
不思議なことは、すぐ次にも起きた。
中庭へ面した回廊の角を曲がった瞬間、霊真はちょうど向こうから来るセレスティア・フォン・ローゼンベルクと鉢合わせた。
昨日の舞踏会で、断罪される側ではなく、自分で舞台を奪い返した公爵令嬢。
そして今朝の彼女は、舞踏会のドレス姿ではなく、いつもの学園制服へ戻っている。
だが、戻っているのは服装だけだった。
空気が違う。
以前のセレスティアは、霊真と視線が合うときでさえ、どこか張りつめた“悪役令嬢の鎧”をまとっていた。
今朝の彼女はそれが薄い。
なくなったわけではない。
高位貴族令嬢としての気高さも、言葉の棘も、誇りもそのままある。
だがその下の部分――“役を演じていた緊張”だけが、確かに少し剥がれていた。
「おはようございます」
と霊真。
セレスティアは一瞬だけ足を止め、それからごく自然に頷く。
「……おはようございます」
その返しだけで、すぐ後方の空気が濃くなった。
女子生徒たちの視線が、明らかにこちらへ寄る。
「出た、朝イベント……」
「しかもローゼンベルク様から逃げない」
「いや、昨日のあとの初朝イベントとしては強すぎるでしょ」
「この空気、完全に“断罪失敗した悪役令嬢が正ヒロイン化するやつ”じゃない?」
セレスティアはたぶん、その囁きを聞いている。
だが前のようにいちいち棘を立てなかった。
代わりに、ほんの少しだけ顎を引き、霊真へ向けて言う。
「昨夜は、よくお休みになれまして?」
ごく普通の体調確認だ。
普通なのだが、周囲の受け取り方がまったく普通ではない。
「はい」
と霊真。
「少し考え事はいたしましたが、休めました」
「そう」
セレスティアはそこで、ほんの少しだけ視線を逸らした。
照れているのかどうか、本人でさえたぶん認めたくない程度の揺れだ。
だが見ている者には十分だったらしい。
「今の“そう”、すごくない?」
「何かもう、普通に気にしてる感じが……」
「強い……昨日の舞踏会でメインヒロインとして覚醒した悪役令嬢って感じする……」
やはり意味はよく分からない。
ただ、学園が今朝のこの一言一言へ、必要以上に大きな意味を見出していることだけは分かる。
しかも困ったことに、その見方は完全な誤解とも言い切れなかった。
セレスティア自身が、以前よりずっと自然に霊真へ声をかけているのだから。
◇
「ところで」
とセレスティアは続けた。
「少し、お時間をいただけますかしら」
来た、とガイゼルが横で無言の顔をした。
霊真にも、さすがにこれは少しイベントめいている気がしてきた。
「はい」
と彼は答える。
「昨夜の件で、少しだけ整理したいことがありますの」
セレスティアは言った。
「一人で考えるより、あなたにも聞いていただいたほうがよろしいかと」
それは、非常にもっともな理由だった。
舞踏会の後処理。
ローゼンベルク家や王家との今後。
教師側の不自然な動き。
たしかに相談することは多いだろう。
だが、理屈が通っていることと、イベントっぽさは別問題だった。
「ローゼンベルク様から先にお誘い……」
「強い……」
「しかも“整理したいこと”って名目なのが逆に強い」
「悪役令嬢ルート、ここへ来て一気にメインヒロイン感出してくるの何?」
セレスティアの耳が少し赤くなる。
だが今朝の彼女は、その場から退かない。
「ドレイク様」
と彼女はガイゼルを見る。
「少しだけ、お借りしても?」
「はいはい、どうぞどうぞ」
とガイゼル。
「俺、今そういうこと言われる立場なのちょっと面白いわ」
「後で覚えていらっしゃい」
その言い返しにも、前ほど尖りきった感じがない。
棘はある。
だが棘だけでは終わらない。
昨日の舞踏会で、彼女は“悪役令嬢でなければならない”呪いの一部を壊したのだろう。
その反動として、今朝のセレスティアは前よりずっと自由だった。
◇
二人が向かったのは、中庭脇の静かな回廊だった。
朝の光がやわらかく差し込み、植え込みの緑がまだ少し湿って見える場所。
人目が完全にないわけではない。
けれど、わざわざ覗き込まなければ会話までは拾えない距離。
つまり最近の学園的には、非常に危険な立地だった。
「お話とは、昨夜の件でしょうか」
と霊真。
セレスティアは少し歩いてから立ち止まった。
それから、彼を見て言う。
「お礼ですわ」
「お礼」
「ええ」
その一言に、霊真は少し目を瞬いた。
昨夜の別れ際、彼女はたしかに
「ありがとうございました、とは申しませんわ」
と言っていた。
「必要でしょうか」
と彼が素直に問うと、セレスティアはわずかに眉を寄せる。
「必要ですわ」
声は静かだが、そこには妙な強さがあった。
「わたくし、ああいう場では意地を張ってしまいますもの。ですから今、改めて申し上げます」
朝の空気が、そこで少しだけ止まる。
「ありがとうございました」
とセレスティアは言った。
「あなたがいてくださったから、わたくしは昨夜、最後まで立てましたわ」
真正面からの感謝だった。
舞踏会の熱が去った翌朝。
誰もいないわけではない朝の回廊で。
悪役令嬢だったはずの少女が、自分からお礼を言う。
これはたしかに、学園がざわつくのも無理はなかった。
「いえ」
と霊真。
「ローゼンベルク殿ご自身が立たれたからこそかと」
「そういうところですわ」
セレスティアは少しだけ困ったように言う。
だが、その台詞の響きも、前とは違っていた。
いつもの棘の延長ではない。
半分は照れで、半分はどうしようもない信頼が滲んでいる。
「……それに」
と彼女は続ける。
「昨夜のような場で、あれだけ皆の前へ立ってなお、今朝こうして普通に話せるのは少し不思議ですの」
「不思議でしょうか」
「ええ。前のわたくしなら、きっともっと刺々しくなっていたでしょうから」
それは本当だろう。
以前のセレスティアなら、舞踏会であれほど感情をむき出しにした翌朝、こんなふうに穏やかに声をかけたりはしなかったはずだ。
「ですが今は」
セレスティアは少しだけ笑った。
「少し楽ですの」
「楽」
「ええ。悪役令嬢でいなくてよいと思えますから」
その一言は、霊真の胸の内へ静かに落ちた。
昨日、彼女は自分で役を拒絶した。
今朝のこの軽さは、その代償ではなく報酬なのだろう。
役を脱いだぶんだけ、ようやく一人の少女として呼吸ができるようになった。
「それは、よいことかと」
と霊真。
「とても」
セレスティアは頷いた。
◇
少し離れたところでは、もちろん見ている者たちがいた。
「見た?」
「今の完全に“断罪失敗後の悪役令嬢、本命ルートで朝の感謝イベント回収”では?」
「しかもローゼンベルク様、前より柔らかくなってない?」
「柔らかくなってる。でも高貴さはそのままなのが余計強い」
「これ悪役令嬢要素が消えたんじゃなくて、“悪役令嬢属性を持ったメインヒロイン”に進化してるやつでは……」
分析が細かい。
霊真には理解しきれない。
だが、“進化している”という言葉だけは、何となく実感に近かった。
セレスティアは確かに、以前より強く、そして自由になっている。
◇
「ところで」
と彼女は、少しだけ間を置いてから言った。
「本日の放課後、お時間はありまして?」
さらに来た。
霊真は、今度こそ少しだけ考えた。
昨夜の件で家や婚約や学園側の動きについて整理したいのなら、たしかに放課後の相談は自然だ。
「何かご相談でしょうか」
と彼。
「相談もありますわ」
セレスティアは頷く。
「あと……確認も」
「確認」
「ええ。家からの動きがあるかもしれませんし、昨夜の教師側のこともございますもの。わたくし一人で考えるより、あなたにも聞いていただいたほうが整理しやすいのです」
もっともだ。
非常にもっともだ。
だが、学園の目は完全にそう受け取っていない。
「放課後追加イベント入った……」
「しかも“相談”と“確認”の二段構え」
「強すぎる」
「これ、悪役令嬢ルートが本命化したあとに“ちゃんと中身も深くなる”やつだ……」
セレスティアの頬が、わずかに赤い。
だが彼女は逃げない。
「いかが?」
と少しだけ強気に言う。
ただし、答えを待つ声で。
「承知しました」
と霊真。
その返答を聞いた瞬間、セレスティアの表情がほんの少しだけ柔らかくなった。
それは、本当にごくわずかな変化だった。
だが見ている者には十分すぎたらしい。
「今の顔、見た?」
「見た……」
「終わった、悪役令嬢ルート強すぎる……」
終わってはいないと思う。
と霊真は内心で思ったが、口には出さなかった。
◇
その頃、教室ではリリアーナ・フェアミントが、だいぶ複雑な気持ちでノートを開いていた。
昨夜、自分はちゃんと言えた。
噂の構造も崩した。
もう“守られるだけの本来ヒロイン”ではいないと決めた。
そのこと自体は誇らしい。
けれど今朝の学園の空気は、どう考えてもセレスティア側へ寄っている。
「……何でローゼンベルク様が朝一で先なの……」
小さく呟いてから、自分で慌てて首を振る。
競っているわけではない。
いや、少しは競っているのかもしれない。
でも、それだけではない。
断罪ルートが壊れたぶん、
今度はちゃんと自分の気持ちで立ちたいのだ。
なのに“悪役令嬢ルート本命化”みたいな空気が先に広がると、さすがに落ち着かない。
「……本当に、エロゲみたい」
と呟いたところで、前の席の女子が振り返る。
「分かる」
その子は真顔で言った。
「今の学園、マジでそう」
思わず、リリアーナは少し笑ってしまった。
少なくとも、自分だけが変な世界に取り残されているわけではないらしい。
◇
礼拝堂では、ミレーユ・セラフィナが静かに微笑んでいた。
昨夜、自分はかなりはっきりと気持ちを言ってしまった。
尊敬だけではない。
特別でいてほしい。
それは、ほとんど恋の告白だった。
そのくせ今朝の学園は、露骨にセレスティアルートが強い。
「……強いですわね」
とミレーユは一人で呟く。
けれど、その言葉に含まれる感情は嫉妬だけではない。
少しの困惑。
少しの納得。
そしてたぶん、少しの楽しさすらある。
攻略対象全員の様子が、おかしい。
その“おかしさ”に、自分も含まれている。
ならば、もはや聖女候補らしく涼しい顔だけしてはいられないのかもしれなかった。
◇
一方のルシアンは、朝から非常に不機嫌だった。
理由は本人いわく、
「昨夜の会場脈動の解析が終わっていないのに、もう今朝から新規イベントが複数発生しているから」
らしい。
「非効率です」
と彼は真顔で言う。
「断罪ルート崩壊直後は、もっと情報整理へ集中すべきでしょう」
「おまえ、それ本気で言ってる?」
とガイゼル。
「本気です」
ルシアンは言い切る。
「ローゼンベルク嬢の朝イベント回収、フェアミントさんの巻き返し気配、ミレーユさんの余韻持続、王子殿下の内政整理、全部が同時に走っている。これでどうやって解析に集中しろと」
「全部見えてんじゃねえか」
「観測です」
その“観測”が十分に怪しいのだが、本人だけは気づいていないらしい。
◇
霊真は、そんな学園全体の熱を感じながら、静かに空を見上げた。
断罪ルートは壊れた。
だがその反動のように、個別ルートの濃度が前よりずっと上がっている。
しかも特に、
悪役令嬢要素を抱えたまま悪役でなくなったセレスティア
は、どう考えても前より強い引力を持ち始めていた。
これは世界の仕様の続きなのか。
それとも皆が、自分の役ではなく気持ちを自分で選び始めた結果なのか。
たぶん、両方なのだろう。
そしてどちらにしても、放課後にはまたセレスティアとの“相談兼確認イベント”が待っている。
霊真はそこで、少しだけ本気で思った。
――この世界は、やはり少し、エロゲに似ているのかもしれません。
とはいえ、その先にある
「悪役令嬢ルートが本命ヒロインルートとして急浮上している」
という学園全体の分析までは、まだ彼には分かっていなかった。
だが周囲から見れば、それはもうかなり明白だったのである。




