第52話 断罪ルート、完全崩壊――そして攻略対象全員の様子は、もう誰の目にもおかしかった
大広間のざわめきは、もはや最初のそれとは別の生き物になっていた。
九十九院霊真は、会場の中央寄りに立ちながら、その変化を静かに感じ取っていた。
少し前までこの場にあったのは、
誰か一人を悪役へ押し込み、
王子と本来ヒロインと高位令嬢を綺麗な三角へ並べ、
正論の顔をしたまま断罪劇を成立させようとする、
ひどく洗練された悪意だった。
だが今、その流れはほとんど原形を失っている。
王子は進行を止めた。
天才魔術師は舞台装置たる術式を暴いた。
聖女候補は人心の濁りを見抜き、
本来ヒロインは噂の構造を崩し、
悪役令嬢自身が“処刑台の華”であることを拒絶した。
騎士はその都度、雑で率直な楔を打ち込んだ。
そしてついに、教師側の不自然さまで表へ滲み出した。
ここまで来れば、もうこの舞台は“美しく断罪が成立する場”ではない。
少なくとも、そういうふうには見えない。
その変化を、会場の誰もが感じ始めていた。
◇
アルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタインは、一度だけ大きく息を吸った。
ここが締めどころだ、と分かっている。
中途半端に進行を止めただけでは駄目だ。
この場をどう裁くかを、王子として、今ここで言葉にしなければならない。
でなければ、断罪劇は形を変えてまた戻る。
誰かが後日、別の部屋で、別の名目で、結局は同じことをやるだけになる。
それだけは許せなかった。
アルフレッドは、会場全体へ向けてはっきりと声を発した。
「本日の公開討論会について、ここで明確に宣言する」
ざわめきが静まる。
「この場は、もはや特定個人の品位や疑惑を扱うに足る公正さを欠いている」
その一言は重かった。
来賓席の一部が息を呑む。
教師席の空気が一段固まる。
バルトランだけが、穏やかな顔を作り直そうとして、かえって目元を硬くした。
「進行の流れ、
会場の配置、
感情誘導術式の存在、
噂の伝播構造、
そして教師側の不自然な関与の可能性。
これだけの問題が表へ出た以上、今この場で誰か一人へ説明責任を負わせることは、断じて認めない」
王子の声は揺れなかった。
前回の断罪未遂の夜なら、ここまできっぱり言えなかったかもしれない。
王子として正しくありたいという気持ちが、きっと彼を迷わせていたはずだ。
だが今は違う。
用意された空気へ従う王子ではなく、
その空気そのものを裁く王子として、彼はここに立っている。
「よって」
アルフレッドは続けた。
「本件に関する一切の断定、示唆、及び暗黙の糾弾を、私はこの場において無効とする」
無効。
その言葉が、大広間のあちこちで重く響いた。
それはつまり、
今夜この場でセレスティア・フォン・ローゼンベルクを“悪役令嬢として成立させること”は、王子によって明確に否定されたということだ。
断罪ルートは、王の家の名において、ここで一度潰された。
◇
「殿下」
バルトランがようやく声を上げた。
穏やかさを保とうとしているが、もう完全ではない。
「そこまで強く処理されますと、学園全体へ不要な疑念を――」
「疑念が不要かどうかを決めるのは、流れを作った側ではない」
アルフレッドは切った。
柔らかく返す余地を残さない声音だった。
「私は今、疑念を広げたいのではない」
「……」
「疑念を利用して、誰か一人へ意味を背負わせるやり方を止めたいだけだ」
それは、前回の自分へ向けた清算でもあるのだろうと霊真は思った。
あの夜、アルフレッドは止めきれなかった。
だから今夜は、最初から最後まで、自分の言葉で止めると決めていた。
バルトランは沈黙した。
その沈黙には、もはや余裕がない。
否定したい。
だが正面から否定すればするほど、“進行側に問題がある”という印象が強くなる。
そう分かっている者の沈黙だった。
◇
そこでミレーユ・セラフィナが、静かに一歩前へ出た。
「殿下のお言葉は妥当だと、わたくしも思いますわ」
聖女候補の声は柔らかい。
だが、そのやわらかさが今はひどく強い。
「この場にいた多くの方々は、先ほどまで“自然に”誰か一人へ視線を寄せておいででした」
とミレーユ。
「けれど、その“自然”が術式と進行によって補強されていた可能性が高い以上、今必要なのは断定ではなく、沈静と精査でしょう」
沈静と精査。
それは宗教的でありながら、同時に実務的でもある言葉だった。
来賓たちの中には、それでようやく表情を緩める者もいた。
つまり彼らもまた、どこかで今夜の流れの危うさを感じ始めていたのだろう。
だが、誰かが“正しい撤退の言葉”を置いてくれなければ、そこから降りにくかったのだ。
ミレーユは、その降りるための橋をかけている。
聖女候補らしい役割に見える。
だが、その実、彼女はもうただ清らかに見守るだけの聖女候補ではない。
今夜はこの場を壊す共闘の一員として、最も美しい言葉で撤退路を用意している。
◇
リリアーナ・フェアミントもまた、胸の前のノートをぎゅっと抱えたまま口を開いた。
「私も……そのほうがいいと思います」
声は大きくない。
だが、ちゃんと届く。
「だって、今ここで“やっぱり誰かが悪い”って決めるの、変です」
と彼女は続ける。
「順番も、証拠も、噂の流れも、全部ぐちゃぐちゃだったのに、最後だけきれいに誰か一人へ落とすのって……おかしいです」
その言い方は、上品ではないかもしれない。
けれど、本質をよく突いていた。
ぐちゃぐちゃなのだ。
本当は。
噂の出所も、
印象の作られ方も、
教師側の関与も、
会場の術式も。
全部がぐちゃぐちゃに歪んでいるのに、
最後だけ“だからこの令嬢が悪い”と綺麗にまとめようとしていた。
その歪さを、リリアーナは庶民の感覚で正直に言い当てた。
来賓の一人が、小さく息を吐く。
それは呆れではなく、どこか納得に近い吐息だった。
◇
「では、決まりですわね」
最後にそう言ったのは、セレスティアだった。
彼女はまだ壇上近くで立っている。
逃げずに、自分の場所を占めたままで。
「少なくとも今夜、わたくしが皆さまのご都合のよい“悪役令嬢”を務めることはなくなったわけですもの」
赤い瞳が会場を見渡す。
「それだけでも、この会には十分な意味があったのではなくて?」
その一言に、何人かがあからさまに言葉を失った。
痛烈だった。
だが、痛烈だからこそよかった。
今この場には、まだ“もう少しうまくやれたのでは”とか、“少し言い過ぎでは”とか、そういう気分を抱いている者もいるだろう。
セレスティアのその言葉は、そういう曖昧な逃げ道まで含めて切り捨てた。
今夜は断罪劇のための会だった。
少なくともそういう流れへ整えられていた。
そしてそれは失敗した。
その事実を、悪役令嬢役にされるはずだった本人が最も美しく言い切ってしまったのだ。
これ以上の締めはなかった。
◇
ガイゼル・ヴァン・ドレイクは、その流れを見ながら口の端を上げた。
「完全にひっくり返ったな」
ぼそりと言ったその一言に、ルシアンも珍しく素直に頷く。
「ええ。断罪ルートとしては完全崩壊です」
その“断罪ルート”という言い方が、もう隠しもしないあたり、彼もだいぶこの世界の悪趣味さを受け入れたらしい。
いや、受け入れたというより、名前をつけることに躊躇がなくなったのだろう。
「術式核も、先ほどよりかなり弱まっています」
ルシアンは測定具を見ながら言う。
「場の前提が崩れきったのでしょう。今さらもう、この会場を“気持ちよく断罪できる舞台”へ戻すのは無理です」
「そりゃよかった」
とガイゼル。
「非常に」
ルシアンの声は冷たいが、そこには確かな満足もあった。
◇
霊真は静かにそのやり取りを聞いていた。
断罪ルート、完全崩壊。
言葉にすればずいぶん乱暴だ。
だが、たしかに今夜起きたことを言うなら、それが一番近いのかもしれない。
悪役令嬢は悪役にならなかった。
本来ヒロインは庇われるだけで終わらなかった。
王子は正しげな空気へ従わなかった。
聖女候補は清らかな観客でいなかった。
天才魔術師は孤高の研究者で収まらなかった。
騎士は護衛役の枠からはみ出した。
そして自分もまた、ただの異物として舞台の外へ追いやられることなく、中心へ残っていた。
つまり、攻略対象全員の様子は、もう誰の目にもおかしかった。
だがその“おかしさ”は、今や悪い意味ではない。
世界が押しつけていた“らしさ”が壊れた結果、
ようやく皆が自分自身として立ち始めたのだと、霊真は思った。
◇
そこへ、来賓席の一人である老伯爵が、ゆっくりと立ち上がった。
白髪の、落ち着いた男だ。
これまでずっと無言で場を見ていたが、今ようやく口を開く。
「殿下」
「何だ」
とアルフレッド。
「本件については、後日改めて正式な調査の場を設けるのが妥当でしょうな」
その一言に、大広間の空気がまた少しだけ変わる。
今度は、こちらにとって悪い変化ではない。
来賓側が、“今夜ここで誰か一人を断じるのは無理だ”と認めたのだ。
「ええ」
老伯爵は続ける。
「少なくとも今夜の会が、そのための場としては不適切であったことは明らかです」
それは、半ば公的な了承に近かった。
断罪劇の舞台は、今、来賓側からも否定された。
アルフレッドは静かに頷く。
「その意見を受けよう」
と王子は言った。
「本件は王族立会いのもと、学園側の進行と会場設営も含めて改めて精査する」
その宣言により、今夜の勝敗はほぼ決まった。
ローゼンベルク嬢断罪の公開舞台は失敗した。
しかも、ただ失敗しただけではない。
教師側の歪みと、舞台装置たる術式の存在まで疑われる形で崩れたのだ。
黒幕側にとっては最悪の結末だろう。
◇
大広間の緊張が少しずつ解け始めたころ、霊真はふと気づいた。
皆の視線が、今度は別の意味でこちらを見ている。
正確には、“こちら”ではない。
自分を中心として、アルフレッド、セレスティア、リリアーナ、ミレーユ、ルシアン、ガイゼルへ、それぞれ妙に濃い視線が向いているのだ。
断罪劇は壊れた。
だが、そのかわり今度は、
「ではこの面子は一体どういう関係なのか」
という、別方向のおかしな関心が会場に生まれ始めていた。
それを最初に露骨に口へしたのは、若い来賓の令嬢だった。
「……あの転移者の方」
と、小さく。
「誰の立場なのか、最後まで分かりませんでしたわね」
その一言に、近くの若い貴族子弟が妙に真剣な顔で頷く。
「王子殿下とも距離が近い」
「ローゼンベルク嬢とも明らかに信頼がある」
「フェアミント嬢もあの方を見ていましたわ」
「聖女候補まで……」
「クロイツ卿も相当でしたぞ」
「ドレイク卿まで含めると、もはや何の舞台なのだ」
ざわめきの質が、おかしい。
いや、前からおかしかったのだが、
今夜の終盤でそれが一気に表へ出てきた感じだった。
ルシアンが露骨に顔をしかめる。
ガイゼルは「ほら来た」という顔をしている。
ミレーユは上品に微笑みながらも、少しだけ困っている。
リリアーナは耳まで赤くなりかけていた。
セレスティアは、完璧な公爵令嬢の顔を保ったまま、こめかみのあたりだけがわずかに固い。
アルフレッドに至っては、疲れたように目を閉じた。
「……なるほど」
王子は小さく言った。
「タイトルどおりだな」
「タイトル」
と霊真。
「いや、こちらの話だ」
ガイゼルが肩を震わせる。
「攻略対象全員の様子、おかしくなりすぎだろ」
「あなたにだけは言われたくありません」
とルシアン。
「私は理論的です」
「その“理論的”が一番怪しいんだよ」
「何ですと」
そのやりとりすら、周囲には何やら妙に濃い関係性として映ったらしい。
若い令嬢たちの囁きが、さらに変な熱を帯びる。
「何なのあの空気……」
「悪役令嬢断罪劇が壊れたと思ったら、急に全員そちらへ寄ってません?」
「寄ってるというか、前から寄ってたのが見えただけでは」
「転移者賢者、全ルート同時進行型主人公すぎませんこと?」
霊真には半分も意味が分からなかった。
だが、皆の様子が“おかしい”という指摘だけは否定しにくい気がした。
◇
やがて会は、予定とはまったく違う形でお開きになった。
舞踏も最低限。
討論は途中で打ち切り。
来賓たちはそれぞれに思うところを抱えたまま帰っていく。
教師たちの表情は固く、学園側の取り繕いはもう明らかに遅い。
それでも霊真は、今夜の終わりを失敗だとは思わなかった。
むしろ、これ以上ないほど意味のある崩れ方だった。
セレスティアは悪役令嬢役を拒絶した。
リリアーナは守られるだけの本来ヒロインではなくなった。
アルフレッドは王子として空気を裁いた。
ミレーユは祈るだけではなく場を観測し、支えた。
ルシアンは舞台装置そのものを暴いた。
ガイゼルは護衛役のまま雑に全部を壊し続けた。
そして今や、その全員が妙に自分へ寄っているように見えてしまうほど、関係性が濃くなっている。
世界の仕様がそう押したのか。
それとも、彼ら自身がそう選んだのか。
たぶん両方だろう。
だが今は、そのどちらでもよかった。
少なくとも、今夜の断罪ルートは完全に崩壊したのだから。
◇
会場を出る直前、セレスティアが霊真のそばへ来た。
「……今夜は」
と彼女は言いかけて、少しだけ言葉を選ぶ。
「ありがとうございました、とは申しませんわ」
「そうでしたか」
「だって、わたくしも自分で立ちましたもの」
その言い方に、霊真は静かに頷いた。
「はい。ご立派でした」
セレスティアはほんの少しだけ目を細める。
その顔はもう、処刑台の華ではない。
「ですが」
と彼女は続ける。
「それでも、あなたがいてくださって助かりましたわ」
「はい」
「……そこはもう少し何かありませんの?」
「十分ではありませんでしたでしょうか」
「そういうところですわ」
そこへリリアーナが来て、
「私も、今日はちゃんと言えました」
と言い、
ミレーユが
「ええ、とてもよかったですわ」
と柔らかく重ね、
ルシアンが
「ですが次は情報共有の順番をもう少し整理してください」
と真顔で差し込み、
ガイゼルが
「はいはい、おまえはそういうこと言う」
と呆れ、
アルフレッドが最後に
「本当に、君を中心にいると誰も予定どおりに動かんな」
と苦笑した。
その光景を遠くから見ていた女子生徒たちが、またしてもひそひそと囁く。
「ほら、やっぱり」
「断罪ルート壊れたのに、別ルート全部濃くなってません?」
「濃いどころじゃないですわよ、あれ」
「攻略対象全員の様子、完全におかしくなってる……」
それはたぶん、誰の目にもそう見えただろう。
九十九院霊真は、それを聞きながら少しだけ考えた。
世界の仕様に押された部分はあったのかもしれない。
だが今は、皆がそれぞれ自分の足でここに立っている。
ならば、この“おかしさ”もまた、前より少しだけましなのではないか。
そんなことを思いながら、彼は静かに夜の学園を見上げた。




