第51話 黒幕は舞台袖で嗤っていられない――ついに“教師側の歪み”が表へ滲み出す
大広間の空気は、もう最初のそれとはまるで別物になっていた。
九十九院霊真は、その変化を肌でよく感じていた。
少し前までこの場を満たしていたのは、誰か一人を“悪役令嬢”へ押し込み、正論の顔をしたまま断罪劇を美しく成立させようとする、ぬるくて冷たい流れだった。見世物として快適な空気。誰が主役で、誰が悪役で、誰が選ばれる側かを、客席の全員がうっすら共有しているような気配。
だが今は違う。
王子が止めた。
術式が暴かれた。
噂の構造が掘り返された。
そしてセレスティア・フォン・ローゼンベルクが、自分の言葉でその舞台そのものを拒絶した。
予定された“気持ちよい断罪劇”は、もう戻らない。
その代わりに会場を満たしているのは、戸惑いと、緊張と、それから一部の者たちの焦りだ。
焦っている者がいる。
その気配が、今は以前よりずっと分かりやすかった。
舞台装置が機能不全を起こし、
断罪の順番が壊れ、
王子までもが流れの停止を宣言した。
ここまで来てなお裏に引っ込んでいられるのは、よほど肝が据わっているか、あるいはもう隠しきれなくなっているかのどちらかだ。
霊真は、自然な動きの中で教師席のほうへ視線を向けた。
バルトラン学務主任。
穏やかな顔をしていたその男の表情には、今やほんのわずかだが、隠しきれない硬さがある。
怒りとまではいかない。
だが、計算がずれたときの冷たい苛立ちが、目元に滲み始めていた。
「……やはり、あの方でございますか」
小さく呟いた声に、すぐ隣のルシアンが反応する。
「ええ」
銀の瞳は細いままだ。
「少なくとも、“知らない側”の顔ではなくなりました」
ルシアンの測定具は、会場の壇上近くから残る術式の歪みだけでなく、人の動揺にも薄く反応しているらしい。
彼は低く続けた。
「核を乱されたあと、最も早く魔力の揺れが変わったのが教師席の一角です。壇上と来賓席を除けば、あそこが一番濃い」
「教師席」
「ええ。つまり舞台袖です」
その言い方に、霊真は少しだけ息を吐いた。
舞台袖。
たしかに、今夜の大広間は舞台じみている。
誰が中央へ立ち、誰が見守り、誰が流れを支えるかまで、あまりにも整いすぎていた。
ならば黒幕がいるのは、華やかな中央ではなく、進行を作る側――舞台袖のほうなのだろう。
◇
「殿下」
ミレーユ・セラフィナが、静かにアルフレッドへ近づいた。
聖女候補の声はやわらかい。
だが今夜の彼女は、そのやわらかさの奥へ、観測者としての鋭さを隠している。
「教師席の右寄り、三段目。学務主任バルトランの近くにいる方々だけ、感情の揺れ方が違いますわ」
アルフレッドはわずかに視線を動かした。
王子として露骨な挙動はできない。
だが、それでも見るべき点は見逃さない。
たしかに、そこだけ緊張の質が違う。
来賓席の戸惑いは、“思っていた見世物と違う”ことへの戸惑いだ。
生徒たちのざわめきは、“今何が起きているのか”という混乱に近い。
だが教師席の一部には、もっと具体的な焦りがある。
進行が崩れたことへの焦り。
予定がずれたことへの焦り。
つまり、“関係者の焦り”だ。
「ありがとうございます」
アルフレッドは低く返した。
「やはり、教師側から切るべきか」
ミレーユは小さく頷く。
「ええ。今の会場で最も“この流れを戻したい”と強く願っているのは、あちらですわ」
それは重要な指摘だった。
断罪劇を期待していた来賓はいた。
面白がっていた上級貴族子弟もいる。
だが、実際に舞台を整えていたのは教師側――あるいは、少なくとも教師側へ深く手を伸ばせる者だ。
ならば今、ここで狙うべきはそちらになる。
◇
その頃、バルトランは胸の内で舌打ちしていた。
もちろん表には出さない。
学務主任としての穏やかな顔は崩さない。
だが内側では、明らかに計算が狂っていた。
ここまで来るはずではなかった。
ローゼンベルク嬢へ視線を寄せ、
王子へ“正しい判断”を迫り、
庶民娘を比較対象として置き、
あとは公開討論という名の正論で包めばよかったのだ。
多少の反発はあるにせよ、空気が勝つ。
今回もそうなるはずだった。
それがどうだ。
王子は最初から止めに来る。
ローゼンベルクは逃げず、自分の言葉で役を拒絶する。
フェアミントは庇われ役から外れる。
聖女候補は人心の濁りを見抜く。
騎士は雑な言葉で舞台を崩す。
天才魔術師は術式を暴く。
そして転移者は、その全部の間を妙に正しい顔で繋いでいく。
最悪だった。
特に、九十九院霊真が悪い。
あの男は、この世界の“物語の流れ”を理解していないくせに、最も都合の悪いところで順番を壊す。
王子が王子らしく振る舞う前に前へ出る。
悪役令嬢を悪役令嬢として見ない。
本来ヒロインを本来ヒロインの席へ置きっぱなしにしない。
攻略対象たちの“らしさ”まで狂わせる。
まるで、舞台そのものを信用していない観客が、その場へ上がり込んで脚本を破り始めたみたいだった。
それは、あまりにも不快だ。
「……厄介な異物ですな」
誰にも聞こえないほど小さく、バルトランは呟いた。
だがその呟きは、ほんの少しだけ遅かった。
「異物、ですの?」
柔らかいが、逃がさない声だった。
振り返ると、そこにはミレーユがいた。
いつのまに近づいたのか。
聖女候補らしい穏やかな微笑を浮かべたまま、だが目だけは笑っていない。
「何か?」
とバルトランは自然に返す。
「いえ」
ミレーユはやわらかく首を傾げる。
「ただ、今たしかに“異物”とおっしゃった気がしましたので」
しまった、とバルトランは一瞬だけ思った。
だが、顔には出さない。
「聞き違いでは」
「そうかもしれませんわね」
そう言いながらも、ミレーユは一歩も退かない。
その距離感が、逆に不気味だった。
「けれど」
と彼女は続ける。
「もし今夜、この会場で“異物”と呼ばれるものがあるとしたら、それは用意された流れへ従わぬ人のことではなく、流れそのものへ手を加えた何かのほうだと思いますわ」
上品な言い回し。
だが、内容はかなり鋭い。
バルトランのこめかみのあたりが、わずかに冷える。
この聖女候補もまた、以前よりずっと厄介になっていた。
◇
一方で、霊真は静かに前へ出ていた。
大きく目立たぬように。
だが必要な距離だけは詰めるように。
今夜の彼の役目は、誰か一人を助けることだけではない。
舞台の構造が崩れた今、次に来る揺り戻しを読むことだ。
黒幕側は、ここまで崩された以上、綺麗な進行だけでは押し切れない。
ならば次は、もっと直接的に、もっと明確な“犯人役”を立てる材料を出してくる可能性が高い。
つまり、
「教師側が何か知っている」
だけでは足りない。
それを会場で言葉にできる形へ引きずり出す必要がある。
そこへ、ガイゼルが寄ってきた。
「どう見る」
と低く問う。
「教師側です」
と霊真。
「だよな」
ガイゼルは視線だけで教師席の一角を示す。
「さっきからあの辺、“ローゼンベルク断罪ルートが止まって気に食わねえ”顔が混じってる」
雑な言い方だが、要点は合っている。
そしてそういう“顔”を見るのは、たぶん彼のほうが得意だ。
「殿下が切るべきでしょうか」
と霊真。
「いや」
ガイゼルは少し考えてから首を振った。
「ここで殿下が正面から教師を切ると、“王子が感情で学園を乱した”って逆手に取られかねねえ」
それもそうだ。
王子には王子の立場がある。
強い。
だが、強いからこそ正面から振り下ろす刃には制約もある。
「なら」
とガイゼル。
「別口から揺さぶる方がいい」
霊真は、すぐに一人の顔を思い浮かべた。
ルシアンだ。
理屈で切る。
証拠を拾う。
そして相手へ“知られている”と分からせる。
あの役は、今夜この場では彼が最も向いている。
◇
ルシアン・エーデル=クロイツは、その視線だけでだいたい察したらしい。
「私ですか」
と彼は言った。
「はい」
と霊真。
「でしょうね」
外套の内側へ測定具を戻しながら、ルシアンは小さく息を吐いた。
不本意そうではある。
だが、断る顔ではない。
「教師側の魔力反応、壇上核への連動、進行停止後の焦り――全部重ねれば、かなり黒に近い」
とルシアン。
「問題は、どう表へ滲ませるかです」
その言い方がまさに彼らしい。
“暴く”ではなく、“滲ませる”。
今の大広間で必要なのは、黒幕をその場で劇的に摘発することではない。
そうではなく、
「教師側にも不自然な関与がある」
と会場全体へ理解させることだ。
理解されれば、舞台はもう“学園の正しい断罪劇”として成立しない。
「できますか」
と霊真。
「当然です」
ルシアンの声は冷たかった。
そしてその冷たさの中に、ここ数日積み重なっていた苛立ちが少しだけ混じる。
「舞台装置を作った側が、舞台袖で嗤っていられると思うなよ、という話です」
かなり怒っていた。
だが、その怒りは今はありがたい。
◇
やがてルシアンは、あくまで会場の整序を確認するふりで教師席近くへ進んだ。
歩き方は自然だ。
いかにも“天才魔術師が何か気づいて見に来た”くらいの不愛想さでちょうどいい。
バルトランの近くまで来たところで、彼はふと足を止めた。
「……興味深いですね」
その一言に、バルトランが視線を向ける。
「何が、かな」
穏やかな声。
だがもう、前の余裕は薄い。
ルシアンは教師席脇の装飾柱へ、ほんの少しだけ触れた。
測定具は使わない。
使わずとも、先ほど核へ干渉したあとなら、この辺りに残る連動痕は拾える。
「壇上核と、こちらの補助線がまだ繋がっている」
と彼は言った。
「なるほど、会場全体へ薄く流すだけでなく、進行側の位置にも調整を残していたわけですか」
教師席の一角が、ぴくりと揺れた。
来た、と霊真は思う。
その一言は、バルトラン個人を名指ししていない。
だが、
「進行側の誰かが術式と連動している」
という理解を会場へ一気に投げ込むには十分だ。
「クロイツ君」
バルトランが少しだけ声を低くする。
「憶測は慎みたまえ」
「憶測ではありません」
とルシアン。
「魔力の線がまだ残っています。壇上核を乱した直後、最も強く揺れたのがこの周辺だったことも含めて」
その言葉に、会場のざわめきがまた変質した。
今度はもう、“ローゼンベルク嬢が怪しいかもしれない”ではない。
“教師側が関わっているのではないか”というざわめきだ。
それは、この舞台にとって致命的だった。
教師は進行と秩序の側でなければならない。
その教師側へ不自然さが向いた瞬間、誰か一人を正しく断じる物語は一気に腐る。
◇
アルフレッドは、そのざわめきを聞きながら静かに息を吐いた。
ここだ、と分かる。
今なら切れる。
「バルトラン主任」
王子の声が大広間へ落ちる。
今度こそ、会場の視線は完全に教師側へ集まった。
「この場の進行と、会場設営の一部について、私は後ほど正式に確認を取る」
アルフレッドは言った。
「それまでは、この会を“特定個人の品位や疑惑を問う場”として扱うことを認めない」
強い。
しかも、理屈が通っている。
ローゼンベルク嬢が怪しいかどうか、ではない。
その前に、舞台そのものの公正さが崩れている。
ならば、誰か一人へ説明責任を負わせる流れなど成立しない。
王子は、もう迷わずそこを切った。
バルトランは黙っている。
表情だけは穏やかだ。
だが、その沈黙がもう答えのようでもあった。
◇
霊真は、そこでようやく少しだけ呼吸を整えた。
まだ終わってはいない。
黒幕の全貌も出ていない。
断罪劇そのものを完全に無力化したとも言えない。
だが今、確かに一つの転換が起きた。
悪役令嬢断罪の舞台として始まったはずのこの夜は、
いつのまにか
「学園の進行そのものが歪められていたのではないか」
を暴く夜へ変わり始めている。
舞台袖にいた者が、
もう舞台袖でだけ嗤ってはいられない。
それは大きな一歩だった。
霊真がそう思ったところで、リリアーナが小さく息をついたのが聞こえた。
振り向くと、彼女はまだ緊張している。
だが、目だけはしっかり前を見ていた。
セレスティアもまた、胸を張ったまま立っている。
怖さは消えていないはずだ。
それでも、もう“処刑台の華”ではない。
皆が少しずつ、自分の役を壊してここへ立っている。
そのことが、今の霊真には何より心強かった。
そしてこの瞬間、
大広間のざわめきは、もう完全に予定された断罪劇のものではなくなっていた。




