第50話 悪役令嬢は“処刑台の華”ではない――セレスティア、ついに自分の言葉で舞台を奪い返す
会場の空気は、少し前までとは明らかに違っていた。
九十九院霊真は、大広間の中央寄りからそれを静かに感じ取っていた。
先ほどまでこの場を覆っていたのは、誰か一人を悪役へ押し込み、正論と秩序の顔をしたまま気持ちよく断罪劇を進めようとする流れだった。感情誘導術式によって補強されたその空気は、あまりに自然で、あまりに上品で、だからこそ厄介だった。
だが今は違う。
王子アルフレッドが進行を止めた。
ルシアンが術式の存在を暴いた。
リリアーナが噂の構造を崩した。
ミレーユが人心の濁りを言葉にした。
ガイゼルが順番の異常さを土足で踏み荒らした。
そして霊真自身も、“事実という名の脚本”を指摘した。
予定されていた断罪劇は、もう滑らかには流れない。
けれど、それでもまだ足りない、と霊真は思っていた。
なぜなら、この舞台の中心に立たされていたはずの人が、まだ完全には自分の言葉でこの場を取り返していないからだ。
セレスティア・フォン・ローゼンベルク。
彼女はここまで、自分へ向けられた前提の歪みを拒絶し、曖昧な印象と粗雑な手順を切り返してきた。
それだけでも前回とはまるで違う。
だが今夜、本当に舞台を奪い返すためにはもう一歩必要だ。
――この人自身が、自分の言葉で“役”ではなく“自分”を置くこと。
その瞬間を、霊真は待っていた。
いや、待つというより、きっと来るだろうと感じていた。
そして、その予感は正しかった。
◇
バルトランが、柔らかな顔のまま再び口を開こうとしたときだった。
「もう、よろしいかしら」
響いたのは、澄みきった女の声。
セレスティアだった。
大広間の視線が、一斉に彼女へ向く。
前回の断罪未遂の夜と同じようでいて、決定的に違う瞬間だった。
あの夜、彼女は追い詰められる側だった。
今夜の彼女は、自分から場の中央へ意味を取り返しに行く側だ。
淡い象牙色のドレスをまとい、背筋をまっすぐに伸ばし、顎を引く。
その姿は誰が見ても美しい。
だが今の彼女は、ただ美しいだけではない。
恐怖を知りながら立つ者の美しさだ。
「皆さま」
セレスティアは会場全体を見渡した。
「先ほどから、この場では“わたくしが何かをしたのではないか”という前提が、いかにも自然な顔で語られ続けておりますわね」
その一言に、来賓席の一部がわずかに身じろぎした。
不快なのだろう。
だが、不快であることと間違っていることは別だ。
「最初は曖昧な印象で。
次に噂で。
それが崩れたら、今度は“実際に起きた出来事”という言い方で」
赤い瞳が、静かに細まる。
「面白いほど順番が整っておりますこと」
皮肉だった。
だがその皮肉は、以前のような“高慢な悪役令嬢の嫌味”には聞こえない。
今のセレスティアは、舞台の構造そのものへ刃を入れているのだから。
バルトランが、穏やかな表情のまま口を開く。
「ローゼンベルク嬢、誰も君をそのように――」
「いいえ」
セレスティアは遮った。
その遮り方は、感情的ではない。
静かで、だが一切の遠慮がない。
「そういうふうに、ですわ」
それだけで、会場の空気がまたわずかに揺れる。
「今この場で問題なのは、わたくしが高位の令嬢であることでも、華やかな格好をして立っていることでもありません」
とセレスティア。
「問題は、皆さまの中の何人かが、最初から“悪役令嬢が必要だった”ということです」
ざわり、とざわめきが広がった。
必要だった。
その言葉は鋭かった。
なぜなら、それはこの会場の多くの者が薄々楽しみにしていたことを言い当てているからだ。
王子と庶民娘と公爵令嬢。
この並びを見れば、誰もが物語を見たがる。
誰かを選び、誰かを落とし、誰かを悪役にして話を分かりやすくしたがる。
セレスティアは、まさにそこを突いたのだ。
「善良な少女がいて」
彼女は続ける。
「正しい王子がいて、高位の立場にある令嬢がいる。そうすれば、あとはその令嬢へ少し冷たさと嫉妬と傲慢を足してしまえば、物語として非常に都合がよろしいのでしょうね」
リリアーナが一瞬だけ息を止める。
アルフレッドの目が細くなる。
来賓席の何人かは、あからさまに居心地が悪そうな顔をした。
それでいい、と霊真は思った。
居心地の悪さは必要だ。
気持ちよく消費される舞台を壊すには。
◇
「ですが」
セレスティアはゆっくりと言った。
「わたくしは、皆さまのご都合のよい“悪役令嬢”ではありませんわ」
その一言が、大広間の底へ沈んでいく。
「高慢に見えるなら、それは育ちの違いもあるのでしょう。冷たく見えるなら、わたくしが無闇に媚びる気がないからでしょう。ですが、それと“誰かを陥れた”ことは別の話です」
正しい。
あまりに正しい。
そして、正しさだけではなく、そこには強い誇りもあった。
「わたくしは、公爵家の娘です」
とセレスティア。
「だからこそ、誰かを陰で追い詰めるような卑小な真似をする必要などありません」
その言い方には強さがある。
同時に危うさもある。
高位ゆえの言い方だと反発する者もいるだろう。
だが今の会場では、その危うささえ必要だった。
なぜなら、これまでのセレスティアは“悪役令嬢らしい棘”を理由に、すべてをそちらへ吸い込まれてきたからだ。
ならば今夜は、その棘ごと自分の言葉として使えばいい。
「わたくしが誇り高いことと」
セレスティアは赤い視線を真っ直ぐ前へ向ける。
「皆さまが勝手にわたくしを犯人役へ置こうとすることとは、何の関係もありませんわ」
その言葉に、ガイゼルが会場端で小さく笑った。
「いいね」
とぼそり。
ルシアンは測定具から目を離さぬまま、低く言う。
「非常にいい」
ミレーユは静かに息を吐いた。
リリアーナはノートを抱えたまま、まぶしいものを見るみたいな顔をしている。
そしてアルフレッドは、ようやく本当に理解した。
セレスティア・フォン・ローゼンベルクは、もう守られるだけの“断罪寸前の悪役令嬢”ではない。
自分で舞台へ立ち、自分で言葉を選び、自分で役を拒絶する人間になったのだと。
◇
来賓席の貴婦人が、扇の影から口を開いた。
「ですが、ローゼンベルク嬢」
柔らかな声だ。
「そうして強くおっしゃるほど、かえって周囲はあなたへ近寄りづらくなるのではなくて?」
それもまた、いかにも“善意ある苦言”の顔をした言葉だった。
あなたが強すぎるから誤解されるのだ。
あなたが高すぎるから、周囲が怯えるのだ。
だから少しは歩み寄るべきではないか――。
上品な顔で女性へ自己責任を返す、よくあるやり口だった。
だがセレスティアは、そこで微笑んだ。
ひどく綺麗で、ひどく冷たい微笑だった。
「近寄りづらいことと」
彼女は言う。
「近寄りづらいからといって罪をでっちあげられてよいことは、また別の話ではなくて?」
貴婦人の表情が、一瞬だけ止まる。
切れ味が鋭すぎた。
上品に責めるつもりが、論点をそのまま返されてしまったのだ。
「わたくしが愛想よく微笑み、誰にでも親しげであれば、皆さまは満足なさったのかもしれませんわね」
セレスティアは続ける。
「けれど、そうでなかったからといって、“ならば疑われても仕方ない”というのは、さすがに乱暴が過ぎますでしょう」
ざわめきが、また会場を走る。
この会場にいた多くの者は、たぶん一度もそこまで露骨には考えていなかった。
むしろ“何となくそう見えてしまっただけ”だと思っていたはずだ。
だが、セレスティアは今、その“何となく”の残酷さを全部言葉にしている。
それがこの舞台を、決定的に見世物ではなくしていく。
◇
霊真は、その光景を静かに見ていた。
必要なら前へ出るつもりでいた。
今だって、出ろと言われれば出る。
だが今は違う。
この場は、セレスティア自身が立っている。
昨日、温室で彼女は言った。
今度は逃げない。
自分で立つ、と。
その言葉が、今この場で本物になっている。
「……ご立派です」
誰にも聞こえないくらい小さく、霊真は呟いた。
すると、すぐ横にいたミレーユがほんの少しだけ笑う。
「ええ」
と彼女も小さく返した。
「本当に」
その声音には、敬意と安堵が半分ずつ混じっていた。
◇
バルトランは、ここでようやく明確に表情を変えた。
柔らかな学務主任の顔ではない。
もっと冷たく、もっと計算高い顔。
「……なるほど」
と彼は言った。
「ローゼンベルク嬢は、ご自身が非常に理路整然としていらっしゃることをよくご存じのようだ」
それは褒め言葉の形をしていた。
だが実際には違う。
理屈で場を支配し、感情を押し隠し、強く立ちすぎる女。
そういう新しい印象へ置き換えようとしているのだ。
断罪劇がうまくいかないなら、
今度は“冷酷で支配的な令嬢”という別の悪役へずらすつもりかもしれない。
しつこい、と霊真は思った。
だがそのしつこさは、向こうが追い詰められている証でもある。
「理路整然としていることが、何か問題でして?」
セレスティアは即座に返した。
「問題とは申しません。ただ、感情を整えすぎる者は、ともすれば周囲の心の機微を――」
「そのお話は、今必要かしら」
今度はアルフレッドが切った。
王子の声は静かだが、以前とは違い迷いがない。
「われわれは今、“誰か一人へ疑念が不自然に集められていた構造”を確認している」
とアルフレッド。
「そこから、“この令嬢は感情を整えすぎる”という性格論へずらすことに、何の意味がある」
王子が正面からそう言ったことで、会場の流れはまた止まる。
もう、前のようにスムーズには戻れない。
◇
セレスティアはそのとき、自分の中で何かがはっきり切り替わったのを感じた。
怖さはまだある。
来賓の視線も、教師たちの沈黙も、決して心地よくはない。
けれど今は、
“処刑台の華”として立たされているのではない
と、はっきり思えた。
自分は、自分でここへ立っている。
悪役令嬢の役を演じさせられているのではなく、
その役を拒絶する当事者として、舞台を奪い返しに来ている。
それが分かった瞬間、不思議なくらい呼吸が楽になった。
「皆さま」
セレスティアは最後にもう一度、会場全体を見渡した。
「もし本当に、何かを明らかにしたいのでしたら、どうぞ正しい順番でなさいませ」
声音は澄んでいた。
「誰かを先に悪役へ置いてから事実を集めるのではなく、事実を整えたうえで、必要なら問うべきですわ」
彼女は言う。
「少なくともわたくしは、皆さまの楽しみや都合のために“処刑台の華”を演じるつもりはございません」
その一言が、今夜の大広間を決定的に変えた。
ざわめきが起こる。
だがそのざわめきはもう、断罪劇の開始を待つざわめきではない。
ローゼンベルク嬢が悪役令嬢らしく追い詰められるのを見る気持ちよさではなく、
自分たちが今どれほど粗雑な構造へ乗せられていたかに気づき始めた者たちの、居心地の悪いざわめきだ。
それでいい、と霊真は思った。
快適な見世物でなくなった時点で、この舞台はもう半分壊れている。
そして今、セレスティアは自分自身の言葉で、その残り半分へ手をかけたのだった。




