第49話 その“事実”は誰の手を通ってここへ来たのですか――本来ヒロイン、噂の構造を暴きます
バルトランの言葉が落ちた瞬間、大広間の空気はもう一度だけ、嫌な方向へ整いかけた。
禁制品。
脅迫文。
舞踏会前に広がった不穏な動き。
たしかに、それらは“何となく怪しい印象”だけでは済まない語の並びだ。来賓や教師たちにとっても、今しがたルシアンが暴いた感情誘導術式の話とは別に、
「では、実際に起きた出来事はどうなのか」
と気持ちが寄るのは自然だった。
自然だ。
そして、その自然さこそが危うい。
九十九院霊真は、壇上近くから広がる術式の残滓が、完全には消えていないことを感じていた。さきほどルシアンが乱したことで、会場全体を一つの流れへ押し込む力はだいぶ弱まった。だが、弱まっただけで、消えたわけではない。
だから今も、少しずつ押してくる。
印象で断じるのは危ない。
ならば“事実”を並べましょう。
その言い方はもっともだ。
もっともだからこそ、人はそこへ戻りやすい。
だが霊真には分かる。
今この場で“事実”と呼ばれようとしているものの多くは、まだ順番が歪んでいる。
誰が最初に見たのか。
誰が確かめたのか。
どの段階で、誰の手を通って“事実らしいもの”になったのか。
そこが曖昧なままなのだ。
そして、その曖昧さを最もよく知っている者が一人いた。
霊真は視線をわずかに動かす。
リリアーナ・フェアミントが、胸の前で小さなノートを押さえたまま立っていた。
怖いはずだ。
会場の視線はまだ多い。
王子も、悪役令嬢も、来賓も、教師も、全部いる。
ほんの少し前までの彼女なら、この場で声を上げること自体が難しかったかもしれない。
だが今のリリアーナは、前とは違う顔をしていた。
怯えている。
けれど、逃げる顔ではない。
◇
「それなら、その“事実”がどうやってここへ来たのかを確かめるべきです」
響いた声は、思っていたよりはっきりしていた。
リリアーナだ。
大広間の視線が一斉に彼女へ向く。
庶民出身の奨学生。
善良で、優しくて、守られる側に置かれやすい少女。
そう見ていた者にとって、その一歩はきっと予想外だっただろう。
リリアーナ自身もそれを感じているはずだった。
だが、彼女はノートを抱えたまま、下がらない。
「フェアミント嬢」
バルトランが柔らかな声で呼ぶ。
「君にも意見が?」
「あります」
リリアーナはきっぱり言った。
「禁制品の件も、脅迫文の件も、私は少し調べました」
来賓席の一角がざわつく。
“少し調べた”。その控えめな言い方に反して、彼女の声には意外なほど芯があった。
「調べた、とは?」
進行役の教師が問う。
「誰が最初に見たことになっているのか。誰から誰へ話が渡ったのか。どこで“らしい”が“そうだった”に変わったのか、です」
そこでリリアーナはノートを開いた。
紙の端には、何度も見返した跡がある。
迷いながら書き直し、順番を整理し、たぶん何度も自分の頭の中でも繰り返したのだろう。
それを見た霊真は、胸の奥で静かに息を吐いた。
彼女はもう、“かわいそうな側”でいるつもりがない。
自分で立つと決めた者の顔をしている。
「脅迫文の件ですけど」
リリアーナは言葉を整えながら続ける。
「最初に“見た”って言われていた子は、実際には見てませんでした。“見た子から聞いた”だけだったんです」
来賓席の何人かが眉を動かす。
「その次の子も同じです。“見たらしい”を聞いて、“そうだったみたい”って言っただけでした」
リリアーナの声は少しだけ震えた。
だが、その震えはもう言葉を止めない。
「つまり、最初の方からずっと、伝聞が重なってただけなんです」
「しかし」
バルトランが穏やかに言う。
「伝聞があったとしても、最終的に文そのものは存在していたのでしょう?」
うまい切り返しだ。
“伝聞の構造”を問題にされても、
「でも脅迫文はあったのだろう」
と返せば、会場の意識をまた“それならやはり何かあったのでは”へ戻せる。
だがリリアーナは、そこでひるまなかった。
「はい。文そのものがあったことは否定しません」
と彼女。
「でも、だからって“誰が書いたか”がいきなり決まるわけじゃないです」
その一言が、ひどくまっすぐだった。
正しい。
だからこそ、会場は簡単に無視できない。
「なのに、途中から“セレスティア様の筆跡に似てるらしい”とか、“高位の人しかできない意地悪だ”とか、変な説明がどんどん足されていったんです」
そこでリリアーナは一枚、別の紙を取り出した。
「これ、私が聞いた順番を書いたものです。最初はただ“脅迫みたいな文があった”だけなんです。でも三人目か四人目くらいでもう、“ローゼンベルク様がやったんじゃないか”って形になってる」
会場のざわめきの質が、また少し変わった。
先ほどまでは“本当に何かあったのでは”というざわめきだった。
今はそこへ、“その話はどう作られたのか”という戸惑いが混ざり始めている。
それが大きい。
◇
セレスティア・フォン・ローゼンベルクは、リリアーナの横顔を見ながら、自分でも不思議なくらい静かだった。
以前なら、こんな場で“自分のために”庶民娘が前へ出ることなど、どこか屈辱に近く感じたかもしれない。
あるいは、余計なことをと苛立ったかもしれない。
だが今は違う。
リリアーナは“自分のためだけ”に言っているのではない。
自分が本来ヒロインとして庇われる側へ戻されるのを拒み、
自分の見たものと調べたものを、自分の言葉で出している。
それが分かるからこそ、セレスティアはただ静かにその言葉を受け取っていた。
そして、ほんの少しだけ思う。
強くなりましたわね、と。
◇
「禁制品の件も、似ています」
リリアーナは続けた。
「“セレスティア様の持ち物から見つかった”っていう話が広まってましたけど、それも最初に見つけた人、確認した人、報告した人の順番が曖昧なんです」
「曖昧、とは」
今度は来賓席の別の男が問うた。
いかにも理性的な、しかしやや高圧的な声。
リリアーナはノートの別ページをめくる。
「最初の発見者って言われてる人は、“開いた時にはもう周りに人が集まっていた”って言ってました」
「……」
「つまり、その人が“最初に見つけた”わけじゃないんです」
会場がまた揺れる。
「それに」
リリアーナは少しだけ息を吸った。
「“ローゼンベルク様の私物”って最初に言い出した人も、ちゃんと確認したわけじゃなかったんです。たまたま近くに置いてあったから、とか、使用人が持ってたのを見たことがあるから、とか、そのくらいの理由で」
それは、かなり重要な話だった。
禁制品が存在したかどうかと、
それが本当にセレスティアの私物だったかどうかは、
本来別々に確かめられるべきことだ。
なのにこの学園の流れは、いつもそこを一緒くたにしてきた。
見つかった。
だからあの令嬢のものだろう。
だから怪しい。
あまりに乱暴だ。
そして、その乱暴さこそが“断罪しやすい空気”に利用されていた。
◇
バルトランは、ここで初めて少しだけ厳しい顔をした。
「フェアミント嬢」
と彼は言う。
「君の丁寧な調査は評価しよう。だが、細かな伝聞のずれを取り上げて、本質を見失うのは危険ではないかな」
その言い方に、霊真の胸の奥で嫌なものが動いた。
来た。
今度は、
“細部にこだわりすぎるな。本質を見ろ”
という形で押し返してくるつもりだ。
だが、その“本質”とやらが誰にとって都合がよいかは、もう明らかだった。
リリアーナがわずかに言葉へ詰まる。
そこはやはり、相手の方が年長で、場慣れしている。
その一瞬の間へ、アルフレッドが入った。
「細部ではない」
王子の声は、静かで、強い。
「その伝聞の順番こそが本質だ」
バルトランが視線を向ける。
アルフレッドは一歩も引かない。
「誰が最初に見たのか。
誰が誰へ伝えたのか。
どの段階で“らしい”が“そうだ”に変わったのか。
それは、誰か一人を疑ううえで最も重要な部分だ」
正論だった。
しかもそれは、王子という立場からの正論だ。
ただの感情論ではない。
「もしそこが曖昧なままなら」
アルフレッドは続ける。
「今ここで“実際に不自然な出来事があった”とまとめること自体が、順序を誤っている」
その言葉で、会場の空気はさらに一段、予定から外れた。
前回までの王子なら、
秩序のために穏当な判断を優先したかもしれない。
だが今夜の彼は違う。
その場を裁くのは、用意された空気ではなく自分だと決めた王子の顔をしている。
◇
「ええ、まったくその通りですわ」
今度はセレスティアが続いた。
彼女は、前よりずっと落ち着いた声で言った。
「わたくしに疑いを向けることそのものが不快なのはもちろんですけれど、それ以前に、手順が粗雑すぎますのよ」
その言い方には、いつもの棘がある。
だがその棘は、今や単なる高慢さには見えなかった。
「“不穏な噂があった”
“禁制品が見つかった”
“脅迫文があった”
結構ですわ。でしたらその一つ一つについて、
誰が、
いつ、
どこで、
何を見て、
どう確認したのかを出すべきでしょう」
赤い瞳が会場を見渡す。
「それをせずに、“結果としてわたくしが疑われているのだから説明しなさい”では、議論ではなく見世物ですもの」
来賓席の一部が、さすがに居心地悪そうに視線を逸らした。
見世物。
その言葉は、この会場のいやらしさをひどく正確に言い当てていたからだ。
◇
ルシアンは、会場の空気がまた少し変わるのを測定具越しに感じ取っていた。
壇上近くの術式核はまだ生きている。
だが先ほどまでのように、
“誰か一人へ自然に意味を背負わせる”
方向へ流れを固定しきれていない。
王子が止め、
本来ヒロインが構造を暴き、
悪役令嬢が前提と手順の粗雑さを突き、
そのたびに会場の人間が少しずつ“自分は今、何に乗せられていたのか”を考え始めているからだ。
これは大きい。
人は、自分が物語を消費していると気づいた瞬間、少しだけ残酷さをやめる。
もちろん全員ではない。
だが、それだけでも十分に舞台の快適さは損なわれる。
「いいですね」
ルシアンが小さく呟く。
「何がだ」
と近くにいたガイゼル。
「舞台装置の効きが悪くなっている」
「へえ」
「このまま続けば、術式は“断罪にふさわしい空気”を保てません」
ガイゼルは口の端を少し上げた。
「そりゃ結構」
彼にとって魔術理論は得意分野ではない。
だが、“嫌な空気がうまく機能していない”ということだけは肌で分かるらしい。
◇
しかし、黒幕側もまだ諦めていない。
進行役の教師が、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「では殿下、そして皆さま。逆に申せば、もしその順番や確認を整えれば、学園内の不穏な出来事そのものは調査に値するとお考えなのですね」
霊真は、その言い方にほんの少しだけ冷たいものを覚えた。
今度は、
“手続きに問題があっただけで、本件そのものは成立するのでは”
という方向へ寄せようとしている。
しつこい。
だが、それだけ向こうも追い詰められているのだろう。
アルフレッドが答えようとした、その前に。
「もちろんです」
と霊真が静かに言った。
会場の視線が、今度は彼へ集まる。
異世界から来た阿闍梨。
攻略対象でもなく、学園の正式な力学にも属さぬ異物。
それでも最近、なぜか中心へ立ってしまう男。
霊真は、その視線を気にする様子もなく続けた。
「実際に何かが起きたのであれば、調べるべきかと」
正しい。
あまりにも正しい。
「ですが」
霊真は少しだけ間を置いた。
「その“調べる”は、最初から一人を悪者だと決めて始めるものではないはずです」
その一言は、大広間の底へ静かに沈んだ。
誰かを調べる。
事実を確かめる。
それ自体は悪くない。
だが最初から“犯人役”を決め、その役に合わせて事実を集めるのなら、それは調査ではなく脚本だ。
その違いを、霊真はひどく平坦な声で言い切った。
「……脚本」
とミレーユが小さく呟く。
セレスティアの赤い瞳がわずかに揺れる。
アルフレッドはその言葉を静かに受け止めた。
リリアーナはノートを握る手へ、もう一度力を込める。
今ここで霊真が言ったのは、たぶん今夜の舞台の核心そのものだった。
◇
会場のざわめきは、もう先ほどまでとはまったく別物になっていた。
断罪劇を期待するざわめきではない。
誰が悪役で誰が主役かを気持ちよく整理するざわめきでもない。
今は、
「この場は最初から誰かを犯人役へ置こうとしていたのではないか」
という、嫌な理解が少しずつ広がり始めている。
それは、この舞台にとってかなり致命的だ。
快適に消費できない物語は、もはや見世物として成立しにくい。
バルトランはそれを理解したのだろう。
柔らかな顔のまま、初めてほんのわずかに声の温度を失った。
「……興味深いご意見ですな」
それだけ言う。
だが、その一言の奥にあるものを、もうこちらは見逃さない。
怒り。
焦り。
そして、予定された順番が壊れ続けていることへの苛立ち。
霊真は静かに呼吸を整えた。
第二の断罪劇は、まだ終わっていない。
だが、少なくとも今、こちらは“事実”という名の脚本まで壊し始めている。
それは大きかった。
リリアーナが、自分のノートをそっと閉じる。
彼女の顔は少し青い。
それでも、目だけは前を向いている。
もう守られるだけの役ではない。
そのことが、今の彼女を支えていた。
そして霊真は思う。
次に来るのは、たぶんもっと直接的な揺り戻しだ。
向こうはこれ以上、綺麗な手順だけでは押してこないかもしれない。
ならばこちらも、もう少しだけ奥へ踏み込む必要がある。
そんな予感が、会場の冷えた空気の中で、はっきり形を取り始めていた。




