第45話 断罪劇を始めたい者たちへ、今度はこちらから順番を壊します
討論の第一部が始まってからしばらくのあいだ、会場は表向きには見事なほど穏やかだった。
王立エーヴェルシュタイン学園らしい格式。
来賓たちの洗練された微笑。
教師たちの整った進行。
貴族子弟と奨学生が同じ空間にいることを、まるで理想的な交流の証明であるかのように見せる光景。
だが九十九院霊真には、その穏やかさが薄い膜のようにしか思えなかった。
膜の下では、もう流れが動いている。
視線が少しずつ偏る。
何気ない話題の選ばれ方が妙だ。
来賓の笑い声に混ざる“観察する楽しみ”の気配が、前回よりはっきり分かる。
壇上近く――ルシアンの言う術式核に近いあたりから、会場全体へ薄く広がる押しがあるのだ。
誰かを比べたがる押し。
役割をはっきりさせたがる押し。
そして、最終的に一人を“そういう者”として定めたがる押し。
霊真は、あまり人を役柄で見ない。
だからこそ今、この会場そのものが“役割を見たがっている”のが、ひどく気持ち悪かった。
壇上では、討論の最初の議題が進んでいた。
表向きはごく無難な内容だ。
学園における身分を超えた交流。
互いの立場への理解。
共同学習の意義。
どれも正論で、どれも正しすぎる。
だからこそ危うい。
こういう“正しい言葉”が積み重なるほど、最後に誰か一人だけが“その正しさから外れた者”として見せられた時、会場は一気に納得しやすくなる。
つまり今は、まだ助走なのだ。
◇
アルフレッド・ルミナス・エーヴェルシュタインも、それを感じていた。
王子として壇上の中央寄りに立ちながら、彼は進行役の教師と、来賓席の反応と、生徒たちの空気を同時に見ていた。前回までの自分なら、こんなふうに複数の層を一度に見ようとはしなかったかもしれない。
だが今は違う。
ただ“王子らしく正しくある”だけでは足りない。
舞台のどこで、誰が、どうやって流れを作っているのかを見なければならない。
そして今、アルフレッドは確かに見ていた。
学務主任バルトランの立ち位置。
発言順を自然に調整している教師の癖。
上級貴族子弟の一団が、直接固まらず、けれど互いの反応を拾える距離に散っていること。
来賓席の一角で、ローゼンベルク家と対立のある家の者が妙に機嫌よく座っていること。
全部が、少しずつ出来すぎている。
そこへ、控えめな足取りで近づいてきたのはミレーユだった。
聖女候補らしい柔らかな微笑を浮かべているが、その目は完全に観測者のものだ。
「殿下」
と彼女は、ごく自然な距離で囁いた。
「来賓席の右側三列目、先ほどから感情の揺れが強いですわ」
アルフレッドは表情を変えず、視線だけを動かす。
確かにいた。
先ほどから小さく扇を動かしながら、周囲へ視線を流している年配の貴婦人。
表向きは穏やかだが、見たいものを待つ顔だ。
「ローゼンベルク嬢に視線が寄るたび、周囲の呼吸が少し変わります」
ミレーユは続けた。
「まだ言葉にはなっていませんが、“あの令嬢なら何か起こしそう”という期待が醸されている感じがします」
「期待、か」
「ええ。悪意だけではありません。見たいのです。物語として、分かりやすい衝突を」
その言葉に、アルフレッドは内心で歯噛みした。
やはりそうだ。
会場の一部は、もう“事件が起こる前提”で整っている。
しかもそれを、ただの悪意としてではなく、娯楽に近い好奇心として受け入れている。
人の心は本当に厄介だ。
明確な敵意なら弾きやすい。
だが、“少し面白がっているだけ”の視線は、正義の顔をして潜り込む。
「ありがとうございます」
とアルフレッドは小さく返した。
「引き続き、揺れが強いところを」
「承知しましたわ」
ミレーユはやわらかく一礼し、何食わぬ顔でその場を離れる。
その姿は清らかな聖女候補そのものだ。
だが実際には今、誰より冷静に人心の濁りを見ている。
彼女もまた、もう“ただ見守るだけの役”ではなかった。
◇
一方、会場の端ではリリアーナ・フェアミントが、胸の前で小さくノートを押さえていた。
怖い。
正直に言えば、かなり。
大広間は広すぎるし、視線は多すぎるし、少し前までなら自分はこういう場でただ萎縮するしかなかっただろう。
だが今は、手元に整理した証言がある。
脅迫文の噂がどう作られたか。
誰が最初に完成した形で流したか。
どこが伝聞で、どこが曖昧か。
紙そのものが強さをくれるわけではない。
けれど、ただの“かわいそうな庶民娘”でいなくていいと思えるだけでも、足は少しだけ踏ん張れた。
そこへ、セレスティアが視界の端に入る。
今夜の彼女は、美しかった。
ただ、それだけで終わらない美しさだ。
完璧な公爵令嬢の姿をしているのに、どこか“戦う人”の顔をしている。
以前なら、リリアーナはその姿を見るたび縮こまっていたかもしれない。
怖い、遠い、自分とは違う世界の人だと。
今は違う。
怖くないわけではない。
けれど、それだけではない。
あの人もまた、ここへ立つのが怖いはずだ。
それでも逃げずに立っている。
その事実が、リリアーナの背筋も少しだけ伸ばした。
「……負けません」
誰に向けた言葉なのか、自分でも半分よく分からない。
セレスティアに対してではない。
たぶん、空気に対してだ。
“本来ヒロインならこうであれ”と押しつけてくる、この舞台の都合に対して。
◇
その頃、ルシアン・エーデル=クロイツは、かなりひどい気分で会場の脈動を追っていた。
ひどい気分、というのは二重の意味である。
一つは、術式核が思っていた以上に会場と一体化していたこと。
もう一つは、その上で九十九院霊真が相変わらずいろいろな場所で視線を集めていることだ。
研究者として重要なのは前者だ。
間違いなく。
だが、後者が完全にノイズでないと言い切れない自分にも腹が立つ。
「……面倒です」
小さく呟きながら、ルシアンは袖の内側で測定具を作動させた。
会場の中心から、ゆっくり波が出ている。
壇上付近から発し、来賓席へ、中央の舞踏空間へ、そして王子・セレスティア・リリアーナの立ち位置へ絡みつくように薄く広がっている。
これは前回より洗練されている。
乱暴に感情を煽るのではない。
少しずつ、自然に、“その場にふさわしい気持ち”へ人を寄せる。
たとえば、
正しい王子には厳しい判断を期待し、
善良な少女には同情を集め、
華やかな令嬢には嫉妬と猜疑を向けさせる。
ひどく賢い。
そしてひどく下劣だ。
ルシアンは目を細め、壇上へ近づく動線を頭の中で何度も組み直した。
術式核はたぶん、壇上の装飾や床の紋様そのものへ偽装されている。
ならば討論の流れが一段深まり、視線が固定された瞬間が一番強く脈動するはずだ。
そのタイミングで近づければいい。
だが近づくためには、表の進行が少しでも乱れる必要がある。
つまり、誰かが舞台へ手を入れる必要がある。
王子か。
霊真か。
あるいはローゼンベルク嬢自身か。
そこまで考えたところで、視界の端にガイゼルが入った。
騎士枠らしく、自然に警戒ラインを歩いている。
いかにも“護衛です”と見えすぎず、それでいて一歩踏み込めばすぐ間へ入れる位置。
役割に押し込められているようでいて、その役割の使い方は以前よりずっと自由だ。
やはり皆、変わったのだ。
少なくとも前回の断罪未遂の夜よりは、はるかに。
◇
討論は、最初の数巡こそ穏やかに進んだ。
学園における交流の意義。
身分を越えた学びの価値。
共同規範の必要性。
来賓たちも満足げに頷き、教師たちも正しい進行の顔を崩さない。
だが、霊真には分かった。
流れが、少しずつ狭くなっていく。
最初は広い話をしていたはずなのに、
気づけば“学園内の秩序を乱す行為”や、
“立場にふさわしい振る舞い”という方向へ論点が寄り始めている。
誰かが、少しずつ、そこへ導いている。
しかも導き方が上手い。
最初から露骨ではない。
会場全体が“自然にそういう話になった”と思いやすい角度で削ってくる。
そのとき、進行役の教師が穏やかな声で言った。
「では次に、高位の立場にある生徒の模範と責任について、ご意見を伺いたく」
来た、と思った。
あまりに分かりやすい入口だった。
アルフレッドの目が細くなる。
セレスティアの呼吸が一拍だけ浅くなる。
リリアーナの指先がノートを握り直す。
ルシアンの測定具がごく小さく震えた。
壇上近くの脈動が、強まっている。
「高位の立場にある者ほど、自らを律し、周囲へ誤解を与えぬことが重要でしょうな」
来賓の一人がそう言う。
穏やかな口調。
正論の顔をした一言。
だがその言葉は、会場の空気を一段だけ細くした。
誰へ向かって細くしたのか、皆が薄々分かっているような嫌な感じで。
別の来賓が頷く。
「ええ。特に若い令嬢方などは、華やかさゆえに周囲へ与える影響も大きい」
また一段、寄る。
霊真は胸の奥に冷たいざらつきを感じた。
壇上付近から会場全体へ、“ほら、次はあの令嬢だ”と囁くみたいな流れが走る。
誰もまだ名指しはしていない。
だが、名指しの前段階としては十分すぎる。
そこでアルフレッドが口を開いた。
「高位の者の責任とは、ただ誤解を避けることではなく、誤解によって誰かを断じぬことにもあると私は思う」
会場の空気が、わずかに引っかかった。
その一言は、王子としてあまりに明確な牽制だった。
進行役の教師が一瞬だけ間を置く。
バルトランの視線が、ほんの一拍だけアルフレッドへ向いた。
やはり、効いている。
前回と違うのはここだ。
王子が、最初から舞台の流れへ手を入れている。
だが相手も簡単には引かない。
「もちろん、その通りでございます」
進行役は微笑んだ。
「ただ、誤解を招くような振る舞いがあれば、周囲の不安を軽んじるわけにも参りますまい」
来た。
正論の顔をした、滑らかなすり替え。
誤解を招くような振る舞い。
その言葉を置くだけで、会場の視線が自然と“そういう者がいそうな方向”へ寄る。
セレスティアへ。
まだ誰も名前は出さない。
けれど、視線だけが先に告げていた。
第二の断罪劇は、今まさに始まろうとしている。
◇
その瞬間、ルシアンがごく低い声で言った。
「今です」
霊真がそちらを見る。
「壇上の脈動が一段上がった。核が完全に起動しています」
ルシアンの目は、ほとんど獲物を見つけた猛禽のようだった。
「近づけますか」
と霊真。
「今なら。ただし、表の流れがもう少し乱れれば」
つまり、誰かがこの予定された順番へ楔を打ち込む必要がある。
王子が。
あるいは、セレスティア自身が。
あるいは。
霊真は静かに呼吸を整えた。
今度はこちらから順番を壊す番だ。
そう思ったところで、壇上近くの進行役が、ついにその問いを口にしようとした。
「では、ローゼンベルク嬢にも――」
名指しの寸前。
そこが、おそらく最初の分岐点だった。




