第43話 舞踏会前夜、悪役令嬢は逃げずに立つと決める
夜の温室は、いつも少しだけ現実から浮いている。
セレスティア・フォン・ローゼンベルクは、薄い月明かりに照らされたガラスの天井を見上げながら、静かに息を吐いた。外の空気は冷えているはずなのに、この場所だけは土と葉と花の匂いが残り、わずかな湿り気が夜を柔らかくしている。昼間なら色鮮やかに見える花々も、今は輪郭だけが浮いていた。
静かだった。
だからこそ、心の中のざわめきだけがやけにはっきり聞こえる。
明日は舞踏会。
正確には、公開討論会を兼ねた模擬舞踏会。
名前だけ見れば華やかで、格式高く、いかにも王立学園らしい催しだ。だが今のセレスティアにとって、それは美しい箱に入った断頭台に等しかった。
あの場には、王子がいる。
リリアーナがいる。
来賓がいる。
教師たちがいる。
そして何より、誰かを“そういう役”へ押し込めようとする、この学園の歪みがある。
視線が集まり、
空気が流れを作り、
誰かの一言が、
まるで初めから決まっていた筋書きみたいに意味を持つ。
前回の懇親会は、まだ“偶然そうなった”と言い張れた。
今回は違う。
誰が見ても、舞台が整えられすぎている。
「……本当に、下品ですこと」
呟きは、夜の温室へ溶けて消えた。
何が下品なのか。
もちろん全部だ。
人の感情を押し、
立場を見世物にし、
悪役令嬢、本来ヒロイン、正しい王子――そういう安い記号へ押し込めることそのものが。
セレスティアは、細い鉄のテーブルへそっと手を置いた。
冷たかった。
その冷たさが、少しだけ頭を冴えさせる。
怖い、と認めるのは悔しい。
だが、もう自分に嘘をつけるほど子どもでもなかった。
怖い。
またあの中心へ立たされることが。
また何を言っても“悪役令嬢の言い訳”として処理されることが。
また、自分が知らぬ間に用意された筋書きの上で、最後には断じられる役を押しつけられることが。
怖い。
けれど今夜のセレスティアは、それだけではなかった。
以前なら、この恐怖を怒りへ変えただろう。
あるいは、もっと高慢に、もっと冷たく、誰にも弱みを見せぬまま飲み込んだはずだ。
だが、今は違う。
怖いと分かっている。
その上で、逃げてはいけないとも分かっている。
それはたぶん、少しだけ強くなったということなのだろう。
「……来てくださるかしら」
短い伝言は、少し前に出してある。
夜の温室で、少しだけ話がしたい。
それだけ。
用件は曖昧だった。
だが、それでもあの人なら来ると思った。
理由を深読みするより先に、“必要なら行く”という顔で現れるだろうと、妙な確信があった。
それが自分でも少し腹立たしい。
やがて、温室の扉が静かに開いた。
「失礼いたします」
聞き慣れた声。
九十九院霊真。
夜の光の中でも、彼は相変わらず余計な色をまとっていない。華やかではない。けれど、不思議なくらい存在がぶれない。こちらが張りつめているほど、その静けさがよく見える。
「こんばんは、ローゼンベルク殿」
「こんばんは」
少しだけ声が硬くなる。
それをごまかすように、セレスティアは背筋を伸ばした。
「お呼び立てしてしまって、失礼しましたわ」
「いいえ」
霊真は静かに首を振る。
「何かございましたか」
その問いへ、セレスティアは一瞬だけ笑いたくなった。
何か、は山ほどある。
だが全部を順番に並べても、自分の気持ちはたぶんきれいには説明できない。
「明日のことですわ」
「はい」
短く、真面目な返答。
だから、こちらも逃げずに言える。
「また、わたくしが悪役にされるかもしれませんわ」
はっきり言った。
言葉にしてしまうと、妙に現実味が増す。
けれどもう、その可能性から目を逸らすつもりもなかった。
霊真は少しも動揺せず、ただ頷いた。
「はい」
慰めではない。
軽い否定でもない。
その可能性があると、ちゃんと共有する“はい”だった。
その返答に、セレスティアは胸の奥で少しだけ力が抜けるのを感じた。
「前よりずっと露骨ですものね」
と彼女は続ける。
「会場の配置も、視線の流れも、来賓の座り方も。まるで“ここで断罪をおやりなさい”と書いてあるようなものですわ」
「私も、そのように感じております」
「でしょうね」
ガラス越しの月を見る。
少し滲んで見えたのは、たぶん気のせいではない。
「正直に申し上げれば」
セレスティアはゆっくり言った。
「逃げたい気持ちもありますわ」
その言葉は、思っていたより小さく出た。
「全部放り出して、ドレスも何もかも脱いで、どこかへ消えてしまえたらどれだけ楽かと思いますもの」
それはずっと飲み込んでいた本音だ。
公爵令嬢らしからぬ弱音。
悪役令嬢に見られる者が絶対に口にしてはならない、脆い本音。
霊真は、それを否定しなかった。
「はい」
とだけ言う。
その“はい”は、
逃げたいと思うことを恥だとしない“はい”だった。
セレスティアは目を閉じる。
そのたった一文字が、ひどくありがたかった。
「でも」
と、彼女は続けた。
「今度は逃げません」
その言葉を口にした瞬間、自分の中の何かがはっきり定まった気がした。
怖い。
それでも立つ。
その二つを一緒に抱えていられる。
今の自分は、前より少しだけそういう人間になれている。
霊真は、ほんの少しだけ目を細めた。
「ご立派です」
また、それだ。
飾りもなく、
お世辞もなく、
ただ見たままを言う。
だから余計に、逃げ道がない。
「……本当に、そういうところですわ」
セレスティアは小さく息を吐く。
「こういう時に、妙にまっすぐなのですもの」
「事実ですので」
「分かっていますわ」
分かっているから困るのだ。
温室の中へ静かな沈黙が落ちる。
植物の葉がかすかに触れ合う音だけがする。
セレスティアは鉄のテーブルから手を離し、代わりに自分の両手を軽く握った。
「以前のわたくしなら、たぶん違いましたわ」
「違う、とは」
「怒って終わっていたと思いますの」
霊真は黙って聞く。
「理不尽だ、馬鹿げている、なぜわたくしばかりが、そういうことばかり考えていたでしょうね」
それは今だって本音だ。
理不尽だし、馬鹿げている。
この学園の歪みは、どうしようもなく悪趣味だ。
「けれど今は、それだけでは足りないと分かりますわ」
前より見えるのだ。
リリアーナも、アルフレッドも、ミレーユも、ルシアンも、ガイゼルも。
皆どこかで“らしさ”を押しつけられていることが。
自分だけが被害者ではない。
それでも、自分が断罪ルートの中心に置かれていることは確かだ。
「だから、立ちます」
とセレスティアは言った。
「今度は逃げません。逃げてしまえば、結局“悪役令嬢らしく追い詰められて去る役”まで演じることになりますもの」
それだけは、どうしても嫌だった。
黙って悪役にされるのも嫌だが、
悪役らしく退場させられるのはもっと嫌だ。
ならば立つしかない。
自分の足で。
自分の言葉で。
セレスティアは、真っ直ぐ霊真を見た。
「……あなたが、いてくださるのでしょう?」
思っていたより、ずっと小さな声になった。
もっと強く確認するつもりだった。
もっと公爵令嬢らしく、命令に近い形を取るつもりだった。
けれど結局、出てきたのはほとんど願いのような問いだった。
霊真は、一瞬も迷わなかった。
「はい」
たった一言。
それだけで、胸の内側の張りつめていた糸が少しだけ緩むのが分かった。
いてくださる。
その約束が、どれほど大きいか。
セレスティアはわずかに視線を落とした。
「……ずるい方ですわ」
「何がでしょう」
「そうやって、一番ほしい時に、一番簡単な言葉だけで足りてしまうところです」
霊真は少し困ったような顔をした。
だが意味までは分かっていないらしい。
そこまで含めて、彼なのだろう。
「ですが」
と霊真が続けた。
「今回は、ローゼンベルク殿お一人で立つのではありません」
「ええ」
「アルフレッド殿下も、リリアーナ殿も、皆さまそれぞれに準備を進めておられます」
「分かっていますわ」
そのことが、今回は以前と決定的に違う。
前は自分一人が舞台の中央へ放り出された。
今度は違う。
皆がそれぞれの場所で、この舞台を壊す準備をしている。
「だからこそ」
セレスティアは言った。
「今度は、わたくしも自分で立たなければと思うのです」
誰かに救われるだけでは終わりたくない。
それはリリアーナだけでなく、セレスティアも同じだった。
「わたくし、ずっと“悪役令嬢として見られること”へ反発するばかりでした」
と彼女は続ける。
「でも今は、違いますわね」
「どう違うのでしょう」
「その役を拒絶すると、決めたのです」
きっぱりと言う。
「高慢で、冷たくて、嫉妬深くて、庶民娘を虐げる女。そういう役に押し込めたいなら、好きにすればいいですわ。けれど、わたくし自身がそれを受け入れるつもりはありません」
夜の温室で、その言葉はひどく真っ直ぐ響いた。
「わたくしは、わたくしですもの」
単純なことだ。
だがこの学園の歪みは、その単純さを奪ってきた。
だからこそ、今こうして自分の口で言えることが何より大きい。
霊真は静かに頷いた。
「はい」
「ですから」
セレスティアは深く息を吸う。
「明日、また何か言われても、わたくしは逃げません。言い返すべきことは言いますし、黙って悪役の席に座ってなど差し上げませんわ」
その声には、いつもの気高さが戻っていた。
だが前よりも少し、空回りしていない。
「……では、わたくしも立ちますわ」
その一言で、ようやく全部が繋がった気がした。
怖い。
逃げたい。
それでも、立つ。
それが今夜、セレスティアの中で覚悟になったのだ。
霊真は、深く一礼した。
「承知しました」
「承知、なのですわね」
「はい。明日、必要な時は前へ出ます」
「ええ」
「ですが、まずはローゼンベルク殿ご自身のお言葉を大事になさるのがよいかと」
その言葉に、セレスティアは少しだけ目を見開いた。
ああ、この人は最後までそこなのだ。
ただ守るだけではない。
ただ救うだけでもない。
相手が自分で立つ余地を、きちんと残す。
それが、どうしようもなく惹かれるところだった。
「……ありがとうございます」
珍しく素直にそう言うと、霊真はただ静かに頷いた。
しばらくして、二人は温室を出た。
回廊の窓の外には、学園の夜景が薄く見える。
明日になれば、この静けさはきっと一度壊れる。
舞踏会。
公開討論会。
第二の断罪舞台。
世界の仕様じみたものが、また彼女を悪役へ押し込めようとするだろう。
黒幕も、そのための準備を終えているはずだ。
だが前回とは違う。
セレスティアはもう、自分が舞台の中央へ置かれることを知っている。
知った上で、逃げずに立つと決めた。
別れ際、彼女は一度だけ立ち止まり、振り返った。
「レイシン様」
自然に、そう呼んでいた。
霊真が少しだけ目を瞬く。
「はい」
セレスティアはほんの少しだけ迷ってから、静かに言った。
「明日……よろしくお願いいたしますわ」
「はい」
やはり短い。
だが、それで十分だと思えた。
彼はたぶん、約束した以上のことを背負ってしまう。
だから本当は、あまり頼りすぎたくない。
けれど今夜だけは、この言葉を口にしてよかったと思った。
霊真の背が回廊の向こうへ消えたあと、セレスティアは一人、小さく息を吐いた。
怖さは、まだ消えていない。
けれど、もう前のように飲み込まれてはいない。
「……逃げませんわよ」
誰へ言うでもなく、夜の学園へ向かってそう呟く。
舞踏会前夜。
悪役令嬢は、初めて自分の足でその舞台へ立つ覚悟を固めた。




