第42話 聖女候補、舞踏会の前に祈るのは神ではなく一人の少年の無事
舞踏会前夜の礼拝堂は、いつもより静かだった。
正確に言えば、静かすぎた。
王立エーヴェルシュタイン学園の礼拝堂は、夜になればもともと人が少なくなる。だが今夜の静けさは、ただ人がいないというだけではない。明日を前に、皆が息を潜めているような、嵐の前に空気がわずかに重くなるような、そんな沈んだ静けさだった。
ミレーユ・セラフィナは、その礼拝堂の最前列から少し離れた長椅子に一人で座り、胸の前で手を組んでいた。
蝋燭の火が小さく揺れる。
石床はひんやりとしていて、夜の冷気が高い天井のほうへゆっくり沈んでいく。
窓の外では、中庭の木々が風に揺れている気配だけが微かにあった。
祈りの場としては、申し分ない。
本来なら、ここに座れば心は整う。
余計な感情は静まり、願いは澄み、何をどこへ向けて祈るべきかも自然に分かる。
――本来なら。
「……いけませんわね」
ミレーユは小さく呟いた。
自分の祈りが、今夜は少しも整っていないことに、本人が一番よく気づいていたからだ。
学園の平穏を。
明日の舞踏会が大きな騒ぎなく終わることを。
歪んだ空気が暴れず、誰も傷つかぬことを。
それらを祈るべきなのは分かっている。
分かっているのに、いざ目を閉じてみると、心が向かう先は妙に一つへ寄ってしまう。
九十九院霊真。
あの、異世界から来た阿闍梨。
人を助けることに何の躊躇もなく、
自分の役目を誇示もしなければ、
誰かへ選ばれたいとも見えず、
それなのに気づけば皆の中心に立ってしまう、不思議な人。
ミレーユはゆっくり息を吐いた。
自分は最近、この人の無事ばかり祈っている。
明日の舞台で、セレスティアがまた悪役へ押し込められそうになれば、きっと霊真は前へ出る。
アルフレッドも変わった。
リリアーナも変わった。
ガイゼルもルシアンも、もう以前のままではない。
皆がそれぞれに立つつもりでいる。
けれど、それでも、あの人は前へ出る。
誰かが苦しそうなら。
そこに理不尽があるなら。
必要だと思えば、たぶんためらわない。
だから怖い。
明日の舞踏会で、結局いちばん危うい場所へ足を踏み入れるのは、きっとあの人だ。
「……これは、よくありませんわ」
祈りの形として、ではない。
感情の向きとして、だ。
世界の平穏より先に、学園の安寧より先に、一人の少年の無事を願ってしまう。
聖女候補としては、少し偏りすぎている気がした。
だが、今さらそれを否定する気にもなれなかった。
むしろ、ここまで来ると認めたほうが楽だとすら思う。
自分はもう、霊真をただの協力者とも、ただの尊敬の対象とも見ていない。
そこまで考えたところで、ミレーユは目を開けた。
そして、決意する。
「……お呼びしてしまいましょう」
短い逡巡のあと、彼女はそっと立ち上がった。
舞踏会前夜。
このまま一人で祈っているより、話したい。
顔を見て、自分の口で確かめたい。
あの人が明日どうするつもりなのか。
そして、自分がどれほどそれを心配しているのかを。
◇
霊真が礼拝堂へ来たのは、それからあまり経たないうちだった。
扉が静かに開き、夜の回廊の気配とともに、黒髪の青年が中へ入ってくる。
足音は静かで、礼拝堂の空気を乱さない。
それだけでも、この人はやはりこういう場所が似合うのだとミレーユは思った。
「こんばんは、ミレーユ殿」
「こんばんは、レイシン様」
呼びかける声が、少しだけやわらかくなってしまう。
それを隠そうとしても、最近はあまりうまくいかない。
「お呼び立てして申し訳ありません」
「いいえ」
霊真は、いつもどおりだった。
変に構えない。
けれど軽くもない。
「礼拝堂でしたら、私も落ち着きますので」
その一言に、ミレーユは小さく笑った。
自分だけがこの場へ意味を見すぎているわけではないと感じられる、その言い方が少しありがたい。
二人は前方から少し離れた長椅子へ腰を下ろした。
距離は近すぎず、しかし離れすぎもしない。
互いの声が自然に届く、ちょうどよい間合い。
しばらくは、どちらもすぐには話し出さなかった。
沈黙が気まずくないのは、たぶんこの人の美点の一つだ。
埋めるためだけの言葉を挟まない。
だが、こちらが口を開きやすいように待つ沈黙でもある。
ミレーユは一度深呼吸した。
「明日のことが、気になって仕方ないのです」
「はい」
それだけで続きを促される。
急かされない。
だから、自分の言葉で話せる。
「舞踏会そのものもそうですし、会場の空気もそうですし……たぶん、また何かが起こりますわ」
「はい」
「皆も分かっていらっしゃる。アルフレッド殿下も、セレスティア様も、リリアーナさんも、ルシアンさんも、ガイゼルさんも。前よりずっと、分かったうえで立とうとしています」
「そうですね」
「でも」
そこで、ミレーユは少しだけ視線を落とした。
「あなたが前へ出る気がしてなりませんの」
ようやく本音が口をつく。
礼拝堂の静けさが、その言葉を受け止めた。
霊真はしばらく黙っていた。
だが、その沈黙は否定やためらいの沈黙ではない。
正直に考えている時のものだと、もうミレーユには分かる。
「必要なら、そうなるかと」
やがて返ってきた答えは、やはり彼らしかった。
変に勇ましくもなく、
自分を犠牲にすると気負っているわけでもなく、
ただ、必要ならそうする、という静かな返答。
それが逆に、いちばん危うい。
「だから心配なのです」
ミレーユは今度は、はっきりとそう言った。
その瞬間、霊真がわずかに目を瞬いた。
たぶん、ここまで直接的に言われるとは思っていなかったのだろう。
「ご心配をおかけしておりますか」
「ええ」
ミレーユは迷わず頷いた。
「かなり」
言い切ってしまうと、不思議と少し楽になる。
「あなたは、必要だと思ったら迷わず前へ出てしまうでしょう?」
「……はい」
「そこがあなたの良いところだとも思っています。けれど、良いところだからこそ怖いのです」
ミレーユはゆっくりと続けた。
「この学園の歪みは、人を役へ押し込め、舞台へ立たせ、物語の都合で動かそうとしてきます。あなたはそれに従わない方です。でも、従わないからこそ、その中心へ立ってしまう」
霊真は黙って聞いている。
「わたくし、明日あなたがまた、いちばん危ないところへ行く気がしてならないのです」
その言葉は、祈りとほとんど同じだった。
相手を縛るためではない。
ただ、そうなってほしくないと願っている。
「……申し訳ありません」
と霊真。
「謝ってほしいわけではありませんの」
ミレーユは少しだけ苦笑した。
この人は、こういうとき本当に真面目すぎる。
「ただ、分かっていてほしいだけです。あなたが前へ出る時、それを心配している人がいるということを」
「はい」
その返事はいつもどおり静かだったが、先ほどより少しだけ重かった。
きちんと受け取ろうとしている返事だ。
◇
しばらくして、ミレーユはぽつりと呟くように言った。
「わたくし、さきほど一人で祈っていたのです」
「はい」
「本当なら、学園の平穏とか、明日が無事に終わることとか、そういうことを祈るべきなのでしょう」
霊真は答えない。
ただ聞いている。
「でも実際には、あなたの無事ばかり願ってしまって」
そこまで言って、ミレーユは自分で少し笑った。
照れ隠しのような、諦めのような笑いだ。
「聖女候補としては、少々偏りすぎですわね」
霊真は少し考えてから、静かに言った。
「それは、いけないことでしょうか」
ミレーユは顔を上げた。
「……え?」
「大事だと思う方の無事を願うことは、自然なことかと」
また、そういうことを言う。
自分の中で、これが“特別な祈り”であることを認めかけたところへ、あまりにも真っ直ぐにそれを肯定されると、胸が苦しくなる。
「あなたは……」
ミレーユは言葉を失いかける。
「本当に、人の防御を外すのが上手ですわね」
「防御」
「ええ。心の、です」
霊真は少し困った顔をした。
それでも否定はしない。
そこがまた、ずるい。
「わたくし、もう認めますわ」
ミレーユは小さく息を吐く。
礼拝堂の静かな空気の中では、誤魔化しの言葉はかえって浮いてしまう。
ならば素直に言ったほうがよい。
「わたくし、あなたに特別でいてほしいのですね」
ついに口にしてしまった。
その瞬間、礼拝堂の時間がほんの少しだけ止まった気がした。
蝋燭の火が揺れ、遠くで風が窓を鳴らす。
霊真はしばらく動かなかった。
おそらく、意味を慎重に受け取ろうとしている。
「……そうでしたか」
と、やがて静かに言う。
返答としてはあまりに霊真らしい。
劇的でもなく、
慌てもせず、
ただ、その言葉の重さをそのまま受け止めようとする返し。
ミレーユは少しだけ笑ってしまった。
「もっと困ってくださってもよろしいのですけれど」
「かなり困っております」
「そうは見えませんわ」
そのやりとりで、少しだけ緊張がやわらぐ。
だが、ここまで言ってしまったからには、もう自分の中で逃げ道はほとんどない。
「尊敬だけではありませんの」
ミレーユは続けた。
「もちろん、敬意もあります。あなたの祈り方も、人の見方も、わたくしにはとても大事に見えます。でも、それだけではもう片づきません」
霊真は、ただ静かに聞いていた。
「明日、あなたが無事でいてほしいと、わたくしはかなり本気で思っています」
「はい」
「それは、たぶん……聖女候補としての祈りだけではありません」
そこまで言って、ミレーユは少しだけ目を伏せた。
「恋、なのでしょうね」
ようやく、その言葉に届く。
誰もいない礼拝堂。
舞踏会前夜。
静かな灯りの中で、自分の気持ちへ名前をつける。
思ったより怖くなかった。
むしろ、少しだけ楽になった。
霊真は、長い沈黙のあとで言った。
「ありがとうございます」
その返答に、ミレーユは一瞬きょとんとした。
「……お礼ですの?」
「大事に思っていただけるのは、ありがたいことかと」
やはりこの人は、この人だ。
普通ならもっと動揺するか、気の利いたことを言うか、あるいは逃げるかするのではないか。
なのにこの人は、本当に感謝を返してくる。
「本当に、そういうところですわ……」
ミレーユは半ば笑いながら言った。
「だから余計に、好きになってしまうのです」
ここまで来ると、もうかなり言っている。
けれど、不思議と後悔はなかった。
◇
少しの沈黙のあと、霊真はぽつりと言った。
「私も、明日は気をつけます」
ミレーユが顔を上げる。
「無茶をしないとは、お約束できません」
「そうでしょうね」
そこはすぐに納得できる。
たぶんこの人は、必要だと思ったら前へ出る。
それを完全に止めることはできない。
「ですが、皆さまにご心配をおかけしすぎぬようには努めます」
それは彼なりの、かなり精一杯の譲歩なのだろう。
ミレーユにはそう分かった。
「はい」
と、彼女は頷いた。
「それで十分ですわ」
本当は十分ではないのかもしれない。
もっと無事を約束してほしいし、危ないことは全部避けてほしい。
けれど、それを言ったところで、この人が違う形へ歪むのも嫌だった。
だから今は、この言葉で十分だった。
「わたくしも、明日はわたくしにできることをします」
とミレーユ。
「ただ祈るだけでは終わりません」
「はい」
「人の心の揺れを見て、必要ならその場で言葉を挟みます。礼拝堂側から拾える空気も、できるだけ早く共有します」
「助かります」
そのやりとりは、恋の告白のあとにしてはひどく実務的だった。
だが、それが彼ららしいのかもしれない。
気持ちは確かにそこにある。
けれど、今はまだそれだけで世界が動く状況ではない。
まずは明日の舞台を生き延びねばならない。
◇
礼拝堂を出るころには、夜はだいぶ更けていた。
回廊に並んで立ったところで、ミレーユは最後にもう一度だけ言った。
「レイシン様」
「はい」
「明日は、無事でいてくださいまし」
霊真は静かに頷く。
「努めます」
その答えは、たぶん彼なりの最大限だ。
ミレーユは小さく笑った。
「それでは、聖女候補としては不合格かもしれませんが」
「はい」
「今夜のわたくしの祈りは、かなりあなたへ偏っています」
「……ありがとうございます」
と、やはり霊真は言う。
その返しに、ミレーユは肩を震わせた。
もう笑うしかない。
「ええ。どういたしまして」
そうして別れたあと、彼の背が回廊の向こうへ消えるまで見送る。
胸の中はまだ落ち着かない。
けれど、もう誤魔化す必要はなかった。
尊敬だけではない。
特別でいてほしい。
無事でいてほしい。
それは、もう十分に恋だった。
舞踏会前夜の祈りは、神へ向けたものでもあり、一人の少年の無事へ向けたものでもあった。
そしてその二つを、今のミレーユはもう切り離せないでいた。




