第41話 ルシアン、嫉妬も執着も研究材料で押し通そうとして失敗する
ルシアン・エーデル=クロイツは、その日の昼時点で、すでに三回ほど不機嫌になっていた。
一回目は朝。
回廊で、セレスティア・フォン・ローゼンベルクと九十九院霊真が並んで歩いているのを遠目に見たとき。
二回目は昼前。
リリアーナ・フェアミントが、霊真と何やら真面目な顔でノートを広げていたと聞いたとき。
三回目はついさっき。
ミレーユ・セラフィナが礼拝堂から出てきたあと、霊真のほうを見て少しだけ柔らかい顔をしていたと気づいたとき。
我ながらひどい、と思う。
もちろん、ルシアンはその理由を恋愛感情だの嫉妬だのといった非効率な言葉で定義するつもりはなかった。
断じて違う。
これは単純に、調査と解析の情報共有が散らかっているからである。
そう、散らかっているのだ。
「……非効率です」
図書塔の上階、いつもの机に肘をつきながら、ルシアンは小さく呟いた。
広げた紙の上には、舞踏会会場周辺の導線図、感情誘導術式の推定発生箇所、教師・来賓・生徒の立ち位置予想、それからここ数日の各ルート別イベントの――いや、“接触機会の増加傾向”の整理が書き込まれている。
そこへさらに、
リリアーナ経由の聞き込み情報、
セレスティア経由の上級貴族層の空気、
ミレーユ経由の礼拝堂・聖職筋の記録、
アルフレッド経由の教師側の不自然な動き、
ガイゼル経由の実働感覚、
そして霊真本人の直感が、別々のタイミングで流れ込んでくる。
非効率である。
特に問題なのは、霊真がそのどれもを受け止め、しかも相手に合わせて自然に会話してしまうことだった。
何なのだあの男は。
攻略対象でもないのに、どうしてあらゆるルートの中心へ立てるのか。
いや、攻略対象ではないからこそなのか。
そういう思考がぐるぐると回ってしまうあたり、最近の自分はかなりよくない。
ルシアンは額へ手を当てた。
「落ち着いてください」
と自分で自分へ言ってみる。
「これはただの解析上の問題です」
言い聞かせる。
だが、言い聞かせる必要がある時点で、だいぶ怪しい。
◇
その日の夕方、ルシアンはついに霊真を真顔で呼び止めた。
場所は中庭と図書塔をつなぐ細い回廊。
人通りはあるが、少し立ち止まれば会話の輪郭は消せる程度の位置だ。
「レイシンさん」
呼ぶと、霊真はすぐに振り向いた。
「はい」
「少しよろしいですか」
「はい」
相変わらず返答に無駄がない。
しかも断るという選択肢が最初から存在しない顔をしている。
それが今は少しだけ腹立たしかった。
「今後、舞踏会前の重要情報は私に最優先で共有してください」
ルシアンはきっぱり言った。
霊真は、さすがに一拍ほど沈黙した。
「順位づけが必要でしょうか」
「必要です」
即答だった。
周囲を通る生徒が二、三人、何となくこちらを見る。
だがルシアンは気にしなかった。
今はそれどころではない。
「必要です。非常に」
と、さらに重ねる。
「どうしてでしょう」
「どうして、ではありません。私は術式を解析しています。感情誘導の波形、舞台前調整の発生率、会場脈動の予兆、全部です」
「はい」
「そこへ、あなたが別方面から得た重要情報を後出しで持ち込むと、理論整理がずれます」
この説明は完全に筋が通っている。
少なくとも、ルシアンの中ではそうだ。
「たとえば?」
と霊真。
「たとえば昨日です。ミレーユさん経由の礼拝堂側の空気の揺れを、あなたは夜まで共有しなかった」
「はい」
「そのあいだ、私は会場周辺の術式変動だけを見て、礼拝堂側の揺れと連動している可能性を計算へ入れ損ねた」
霊真は少し考えた。
「申し訳ありません」
「謝罪を求めているのではありません」
「そうでしたか」
「そうです。今後、優先共有の順序を明確化したいという話です」
ルシアンはそこで一度言葉を切った。
本音を言えば、
自分以外のところで重要な会話を進められると落ち着かない
が、さすがにそこをそのまま出すわけにはいかない。
だから、あくまで効率。
研究。
術式解析。
その範囲で押し通す。
押し通せる、はずだった。
「では」
と霊真が言う。
「ルシアン殿が一番ということで」
ルシアンの思考が一瞬止まる。
「……はい?」
「最優先ですので」
違う。
いや、違わないのだが、そう言われると非常に困る。
「そういう言い方ではなく」
「言い方」
「情報共有の順序の話です」
「はい」
霊真は本当に分かっているのか、いないのか微妙な顔だった。
そしてその分かっていなさが、ルシアンには妙に心臓へ悪い。
すると、そのタイミングを狙ったかのように、少し離れたところを歩いていた女子生徒二人がひそひそと囁いた。
「見た?」
「今の“最優先”って……」
「クロイツ様、真顔で何言ってるの……」
「研究って言い張るにはだいぶ強火じゃない?」
聞こえている。
非常に遺憾である。
「……だからこの学園は嫌なんです」
とルシアンが低く言う。
「視線が多いからでしょうか」
と霊真。
「それもあります」
それも、である。
そこへ全部は含まれていない。
◇
その夜、二人は再び図書塔で解析をしていた。
舞踏会会場の導線図に、過去の断罪未遂時の感情偏向パターンを重ね、術式の核がどこへ置かれているかを洗い直す。ルシアンは紙へ細かな記号を書き込み、霊真はそれを横から見ながら、時折感じる違和感を率直に言葉にした。
「ここは、少し冷たい感じが強いです」
「はい」
「こちらは、比べる気配」
「ええ」
「この辺りは、“誰が選ばれるか”を見たがるような」
「……その表現、やはり便利ですね」
研究者としては若干複雑だった。
だが便利なものは便利だ。
図書塔の夜は静かだ。
高い窓から差し込む月明かりは淡く、灯りも最低限。人の気配はほとんどなく、紙をめくる音とペン先のかすれだけが小さく響く。
その静けさの中で、ルシアンはだんだんと自分の集中が少しずつ切れていくのを感じていた。
眠い。
正確には、脳の端が鈍り始めている。
ここ数日、解析と確認で睡眠時間が削られていた。
しかも感情誘導術式が“人間関係の濃度”にまで絡んでいる可能性が出てきたせいで、考えることが前より増えている。
これはよくない、と思った瞬間に、ペン先が紙の上で少し滑った。
「……っ」
姿勢がわずかに崩れる。
普段なら持ち直せる程度だ。
だが今夜はほんの少しだけ反応が遅れた。
そして、その遅れの先にいたのが霊真だった。
「大丈夫ですか」
気づけば、肩口へ軽く支えが入っている。
寄りかかりかけた、とルシアンが自覚したのは、そのあとだった。
近い。
近すぎる。
図書塔の灯りは柔らかく、距離感を曖昧にしやすい。
しかも今は、こちらが体勢を崩して、霊真のほうへわずかに重心を預ける形になっていた。
「……問題ありません」
ルシアンは即座に体を戻した。
「そうでしたか」
「ええ」
声が少しだけ固い。
自分でも分かるほどに。
眠気で寄りかかりかけた。
それだけだ。
それだけなのだが、それを一瞬でも意識してしまったことに腹が立つ。
「図書塔の椅子が悪いですね」
とルシアン。
「そうでしょうか」
「そうです」
「……」
「今のは、椅子の角度と疲労の問題です」
誰も責めていないのに、自分で言い訳を始めている。
非常によくない。
霊真は少しだけ首をかしげた。
だが、そこで余計なことを言わないのが彼らしい。
その沈黙がありがたいような、悔しいような。
◇
ルシアンは紙へ向き直った。
どうにか解析へ意識を戻す。
そのためには、今の妙なざわつきを理論へ変えるのが一番だ。
「……分かってきました」
低く呟く。
「何がでしょう」
と霊真。
「この術式の副次特性です」
ルシアンは新しい紙を引き寄せた。
「前にも言いましたが、これは恋愛感情だけを押しているわけではありません。優劣感情、独占欲、選ばれたい気持ち、負けたくない気持ち――そういう“物語に濃度を与える感情”全般を少しずつ増幅している」
「はい」
「問題は、その対象の設定です」
ペン先で、会場中心と主要人物の位置を結ぶ。
「この世界は最近、あなたを中心に主要人物が接触しやすくなっている。つまり、あなたが“選ばれる/選ぶ”の中心へ押されている」
霊真は少し考えた。
「そうでしたか」
「そうです。そして、その結果として周囲の感情も濃くなりやすい」
ルシアンはそこで、ようやく自分の中の違和感へ別の角度から触れた。
「つまり、私が最近感じている非効率さも、単なる情報共有の問題ではなく」
「はい」
「……術式の影響を受けている可能性があります」
言ってしまった。
かなり嫌だった。
自分のざらつきを、外部要因のせいだけにしたいわけではない。だが、ゼロではないのもたぶん事実だ。
「それは」
霊真が静かに言う。
「少し安心してよいことでしょうか」
ルシアンは目を上げた。
「安心?」
「はい。ご自分だけの問題ではない、と分かるのであれば」
その返答は予想外だった。
自分なら、もっと理屈で切る。
影響の有無を定義し、どこまでが術式でどこからが本人の感情かを切り分けようとする。
霊真は違う。
まず“それで少し楽になるかどうか”を考える。
「……あなたは、本当に」
とルシアンが言いかけて止まる。
「何でしょう」
「いえ。腹が立つほど、人に対する見方が違うなと」
そう言うと、霊真は少し困ったように笑った。
笑った、というより、口元がわずかにやわらいだ程度だが、夜の静けさの中ではそれだけで十分に見えた。
「違っておりましたら申し訳ありません」
「違いません」
ルシアンは即答した。
「だから厄介なんです」
◇
その後、解析はようやく核心へ近づいた。
舞踏会会場の導線。
感情偏向の集まり方。
脈動が強まる位置。
人の視線が集中しやすい構造。
それらを重ねていくと、一つの推定が浮かぶ。
「……ここです」
ルシアンが指先で示したのは、壇上近くの位置だった。
「術式核の本体か、少なくとも主軸に近いものが、壇上付近にあります」
霊真が図へ目を落とす。
「討論の中心」
「ええ。皆の視線が自然に集まる位置です。舞踏と討論、両方の空気を押しやすい」
「舞台そのものが罠、ということでしょうか」
「その可能性が高い」
ルシアンは深く息を吐いた。
「感情を煽り、役割を固定し、断罪劇へ流しやすくする核が、壇上近くに置かれている。あまりに趣味が悪い」
「はい」
「そして厄介です」
ルシアンは紙を閉じる。
脳の疲労は重い。
だが今の推定は大きかった。
「明日、皆に共有しましょう」
と霊真。
「はい。今度は私が最優先で」
ルシアンは反射的にそう言いかけて、すぐに眉間を押さえた。
「……また言ってしまいました」
「重要なことかと」
「重要ではありますが、言い方が」
図書塔の静けさの中で、二人の会話だけが小さく響く。
ルシアンは自分の中の感情を、まだ恋とも執着とも呼びたくない。
だから全部、研究効率と情報整理で押し通すつもりだった。
だが、その押し通し方がすでに少し破綻し始めていることも、本人が一番よく分かっていた。
舞踏会は近い。
世界の仕様はますます悪趣味になっている。
そして、攻略対象全員の様子は、確かにおかしくなり始めていた。
自分もその例外ではないのだと認めるのは、ルシアンにとってかなり不本意なことだったが。




