第39話 悪役令嬢、舞踏会のドレス合わせで本命感を隠せない
セレスティア・フォン・ローゼンベルクは、鏡の中の自分を見て、少しだけ息を止めた。
美しい、と思う。
他人事のようにそう思ってしまうくらいには、目の前の姿はよく整っていた。
淡い象牙色を基調に、深い紅を細く差した舞踏会用のドレス。
胸元は決して開きすぎず、公爵令嬢としての品位を守ったまま、けれど身体の線はきれいに見える仕立てになっている。腰から裾へ落ちる布は重すぎず軽すぎず、歩けばきっと柔らかく揺れるのだろう。肩や背の装飾も過剰ではなく、むしろ潔いほど洗練されている。
ローゼンベルク家らしい。
そして、今の自分に似合うことも分かる。
分かるのだが。
「……まるで、処刑台へ上がるための正装ですわね」
ぽつりと零した声は、衣装部屋の静けさへ吸い込まれた。
ここは学園祭儀や舞踏会に備えた衣装確認用の一室で、壁の一面が大きな鏡になっている。使用人や衣装係はさきほどまでいたが、最終確認のため、今はほんの短いあいだだけ一人になっていた。
短いあいだだけ。
その時間すら、今のセレスティアには妙に心細い。
舞踏会の場へ立つ。
来賓がいる。
教師がいる。
王子がいる。
リリアーナがいる。
そして当然、あの歪みを押す誰かもいる。
今の自分は、ただドレスを着ているのではない。
また“舞台へ立たされる側”の衣装をまとっている気がしてならなかった。
鏡の中の自分は堂々として見える。
背筋は伸びている。
顎も引けている。
目元も弱ってなどいない。
けれど胸の内側では、嫌な予感がずっと低く脈打っていた。
そのとき、扉の向こうで物音がした。
衣装係が戻ってきたのかと思ったが、違った。
「失礼いたします」
聞き慣れた、静かな声。
九十九院霊真だった。
セレスティアの指先がぴくりと揺れる。
なぜここに。
というより、なぜこのタイミングで。
だが最近の学園では、そういう問い自体がもう少し空しくなりつつあった。イベントめいた偶然が増えすぎている。ここで霊真が来ること自体、もう驚くべきなのか、驚かなくてよいのか分からない。
「……あなた、どうしてここへ」
できるだけ平静を装って問う。
扉のところで一礼した霊真は、少しだけ言いづらそうに答えた。
「舞踏会当日の動線確認の件で、衣装係の方へ伝言を頼まれまして」
「伝言」
「はい。会場側の導線に少し変更が出るそうです」
王子か、学園長か、あるいはミレーユあたりが動いた結果だろう。
それ自体は真面目な用件らしい。
らしいのだが。
セレスティアは今、ドレス姿で鏡の前に立っている。
つまり、だいぶよろしくないタイミングだった。
「そう。でしたら、そこの机へ置いておいてくださる?」
「承知しました」
霊真はいつもどおり何も深読みしていない顔で近づいてくる。
それがありがたい時もあるし、今みたいに困る時もある。
セレスティアは鏡越しに彼の動きを見た。
余計な視線がない。
変に見惚れるでも、慌てるでもなく、ただ用件を果たしに来た人間の歩き方だ。
……少しは動揺なさいな。
そう思ってしまった自分に、セレスティアは内心で頭を抱えた。
「以上です」
と霊真。
「ご苦労さま」
そこで本来なら会話は終わるはずだった。
終わるはずだったのだが、霊真は一歩退いたあと、なぜかその場で少しだけ立ち止まった。
「どうかなさいましたの」
セレスティアが問うと、霊真は鏡越しに彼女を見て、ほんのわずかに目を細めた。
それから、ごく自然に言った。
「とてもお似合いです」
時間が止まった。
「……は?」
自分でも間の抜けた声が出たと思う。
鏡の中のセレスティアは、完璧に整ったドレス姿のまま固まっていた。
そしてその後ろに立つ霊真は、相変わらず驚くほどまっすぐな顔でこちらを見ている。
「お似合いです」
と彼はもう一度言った。
「とても」
打算もない。
持ち上げるための気取った言い回しもない。
ただ本当にそう思ったから、そのまま口にしただけの声だった。
だから余計に、ひどい。
セレスティアは一瞬で頬が熱くなるのを感じた。
「な、何を、そんな……」
「事実かと」
「そ、そういうことを、こんな時にさらりと」
「今、申し上げるのはよろしくありませんでしたでしょうか」
本気で分かっていない顔だ。
分かっていないからこそ、その言葉が余計に真っ直ぐ刺さる。
セレスティアは視線を鏡から逸らした。
目を合わせたらたぶん駄目だと思ったからだ。
「あなたは、こういう時だけ妙にまっすぐですのね」
どうにかそれだけ言うと、霊真は少しだけ首をかしげた。
「事実ですので」
また、それだ。
褒めるための言葉ではなく、本当に“見えた事実”として言う。
だからこちらは、照れる以外の逃げ道がなくなる。
「……本当に、そういうところですわ」
かろうじて絞り出したその一言で、何とか会話を繋ぐ。
霊真はたぶん半分も意味を分かっていないが、それでいい。
いや、よくはないが、今は助かる。
◇
「少し、歩いてみていただけますか」
霊真がそう言ったので、セレスティアは思わず振り返った。
「歩く?」
「裾の長さが気になりまして」
真面目な顔だった。
おそらく本当に、動きに支障がないかを見ようとしているのだろう。
セレスティアは一瞬ためらったが、結局、鏡の前からゆっくりと歩き出した。
ドレスの裾が床を滑る。
重さはあるが、仕立てはいい。
歩きにくくはない。
だが数歩進んだところで、靴先が裾の端へほんの少しだけ引っかかった。
「あ」
体勢が崩れるほどではない。
けれど、ぐらりと揺れる。
次の瞬間には、霊真が一歩で距離を詰めていた。
「失礼します」
そう言って、セレスティアの腕と腰に軽く手を添え、転ばぬよう支える。
近い。
距離が、一気に近くなった。
ドレス越しに支えられているだけなのに、妙に体温を意識してしまう。
鏡の中には、ドレス姿の自分と、そのすぐそばで支える霊真の姿が映っていた。
「だ、大丈夫ですわ」
「はい。ですが、裾はやや長いかもしれません」
そんな真面目なことを言われても困る。
「そこを、今、確認なさいますの」
「必要かと」
必要なのだろう。
必要なのだが、もっとこう、順序というものがあるのではないか。
セレスティアは何とか呼吸を整えようとしたが、まるでうまくいかなかった。
「……もう離していただけます?」
「失礼しました」
霊真はすぐに手を離した。
それがまた、変に名残を残さないので余計に困る。
あと一秒長ければたぶん怒れた。
だが一瞬で、礼儀正しく離れられてしまうと、怒る理由がなくなる。
「やはり、裾は少し上げたほうが安全かもしれません」
と霊真。
「そ、そう」
返事がわずかに上ずる。
セレスティアは鏡を見ないようにした。
今自分がどんな顔をしているか、見たくなかったからだ。
◇
そこへ、絶妙に最悪なタイミングで衣装係の女性が戻ってきた。
「あら、ローゼンベルク様、確認は……」
言いかけて止まる。
視線の先には、
ドレス姿で少し頬を染めているセレスティアと、
その少し近くにいる霊真。
衣装係の目がほんの少しだけ輝いた。
「……失礼いたしました。ご確認中でしたのね」
「違いますわ!」
とセレスティア。
「これは裾の確認です!」
「ええ、そうでしょうとも」
女性は完全に分かったうえで言っている顔だった。
霊真は本当に意味が分かっていないらしく、
「裾がやや長いようです」
と真面目に報告している。
もうやめてほしい。
セレスティアはこめかみのあたりが熱くなるのを感じた。
だが怒鳴ると余計に何かあるように見える。
ここは冷静に、冷静に。
「……その件は、あとで調整しなさい」
「承知いたしました」
衣装係はにこやかだった。
たぶんあとで誰かに話すだろう。
いや、あの顔は確実に話す。
学園内の“ローゼンベルク様ドレス合わせ中に転移者賢者来訪事件”として、どこかでまた妙な解釈をされるに違いない。
◇
衣装係が裾の確認を始めるあいだ、霊真は少し距離を置いて待機していた。
その視線は相変わらず変な色を含まない。
ただ、必要なときだけ見て、必要のない時はじっと見ない。
それがセレスティアにはありがたく、そして少しだけ物足りなくもあった。
何を考えているのかしら、と自分で呆れる。
衣装係が裾を調整しながら話しかけてくる。
「それにしても、本当にお似合いですわ、ローゼンベルク様」
「……ええ」
「先ほどの殿方も、そうおっしゃっていましたし」
セレスティアは一瞬で黙った。
「そういう余計なことを付け足さないでくださる?」
「失礼いたしました」
だが衣装係の声には、まったく反省の色がなかった。
霊真のほうは、まだ話の流れを理解しきれていないようで、少しだけ首をかしげている。
その無自覚さがまた、こちらの心拍を変にする。
「確認が済みましたら、私はこれで」
と彼が言った。
そう言われると、なぜか少しだけ惜しい気がした。
だが止める理由はない。
「……ええ。ご苦労さま」
「はい」
霊真は一礼し、扉へ向かう。
その背中を見送りながら、セレスティアは自分の胸の内が少しずつ言い逃れしにくい形になっていることを感じていた。
もう“確認ですわ”だけでは済まない気がする。
ドレス姿を見られて、真っ直ぐに似合うと言われて、支えられて、それでこんなにも落ち着かないのなら。
それをただの警戒や対抗心で片づけるのは、さすがに無理があった。
◇
霊真が去ったあと、衣装合わせは予定どおり終わった。
使用人が荷をまとめ、衣装係が最後の修正箇所を確認し、部屋の中から人の気配が少しずつ引いていく。
完全に一人になってから、セレスティアは鏡の前へ戻った。
そこにはやはり、美しい公爵令嬢が立っている。
舞踏会へ出ても誰にも引けを取らぬ姿。
処刑台の正装みたいだと思っていたドレス。
なのに今は、その印象に別の色が混ざっていた。
似合う、と言われたからだ。
しかも、あまりにも自然に。
見惚れたとか、華やかだとか、そういう気取った言い回しではなく、ただ“とてもお似合いです”と。
「……あの方、本当に」
セレスティアは小さく額へ手を当てた。
「こんな時に見惚れられてどうしろと言うのです……」
言ってから、自分で止まる。
見惚れられた。
いや、そうとまでは言っていない。
言っていないが、少なくとも自分はそう受け取ってしまった。
頬がまた熱くなる。
「違いますわ……」
誰もいない衣装部屋で、セレスティアは小さく首を振った。
「ただ、率直だっただけです」
そう言い聞かせる。
だが、それで胸のざわつきが収まるわけではない。
むしろ、率直だったからこそ余計に困るのだ。
舞踏会前のドレス合わせ。
その王道ヒロインイベントめいた場面で、
自分は確かに“救いたい相手”として見られた気がした。
それが勘違いであれ何であれ、今のセレスティアには、もう簡単に振り払えない熱だった。




