第35話 悪役令嬢断罪ルート、強制再起動の気配
それは、空気の色で分かった。
九十九院霊真は朝の回廊を歩きながら、何度目かになる嫌な既視感を覚えていた。人の数はいつもと変わらない。制服姿の生徒たちが行き交い、窓の外では中庭の噴水が朝の光を受けてきらめいている。教師たちの足取りも、侍従めいた使用人たちの動きも、一見すれば何ひとつ普段と変わらない。
なのに、何かが違う。
視線の流れ。
声を潜めるタイミング。
誰かの名前を出さずに、その誰かを共有している感じ。
そして何より、
「これから舞台が整う」
とでも言いたげな、妙な待機感。
「……また、似ています」
小さくそう呟くと、ちょうど横から来たガイゼルが眉をひそめた。
「何がだ」
「懇親会の前に近い気がします」
ガイゼルの顔つきがすぐ変わる。
「最悪だな」
「はい」
あの夜も、空気は先に出来上がっていた。
誰もが何かを待ち、
誰もが“起きるべき場面”を無意識に知っているようで、
そのうえで一人の令嬢が悪役へ押し込められようとしていた。
今の学園には、それとよく似た匂いがある。
「まだ何か起きたわけじゃねえんだろ」
とガイゼル。
「はい。ですが、起きる前に似ております」
「おまえのそういう勘、最近あんま外れねえから嫌なんだよな」
言いながら、ガイゼルは周囲を見回した。
回廊の向こうでは女子生徒たちが数人、こちらを見てはひそひそと話し合っている。いつものことだ。だが今日は、その視線がただの興味ではなく、
「次はどっちが舞台へ立たされるのか」
を測るような気配を帯びていた。
「レイシンさん!」
リリアーナが少し小走りにやってくる。
顔色があまりよくない。
「どうかしましたか」
と霊真。
「学園祭の実行委員会から、来月の公開行事の正式通知が出ました」
「公開行事」
ガイゼルが嫌そうに顔をしかめる。
「学園祭じゃないのか?」
「学園祭もありますけど、その前段みたいな……模擬舞踏会と公開討論会を兼ねた交流行事です。高位貴族の来賓も入るみたいで」
その説明を聞いただけで、霊真の胸の奥がざわつく。
大勢が見守る場。
貴族も教師も外部の目も集まる。
立場が可視化され、
人間関係が舞台めいて整えられやすい場。
嫌な条件が、きれいに揃いすぎていた。
「それは……」
とリリアーナが少し声を落とす。
「また、危ない気がしませんか」
「します」
と霊真。
「だよな」
とガイゼル。
三人がそこで立ち止まっていると、背後から落ち着いた声がした。
「やはり、皆さま同じことを感じていらしたのですね」
ミレーユだった。
礼拝堂帰りらしく、手には薄い冊子を抱えている。いつもより表情が固い。
彼女もまた、空気の揺れを感じているのだろう。
「礼拝堂でも、今朝から妙ですわ」
とミレーユ。
「祈りの場なのに、皆どこか落ち着かない。誰かを思いやる祈りではなく、“自分の立場が揺らぎませんように”という方向へ心が寄っている感じが強いのです」
「それも前と似ております」
と霊真。
「ええ。ですから急ぎ、皆さまと共有すべきだと思って」
そこまで言ったところで、回廊の反対側からセレスティアが姿を見せた。
ちょうど良すぎるタイミングだった。
白銀に近い髪。
整いすぎた制服姿。
いつもどおりの冷たい美貌。
けれど霊真には分かる。
彼女は今、かなり呼吸が浅い。
「……皆さま、ずいぶんわかりやすく集まっていらっしゃいますのね」
とセレスティア。
「偶然ですわ」
とミレーユがやわらかく返す。
だが、その偶然がいかにも“イベント発生”めいているから困る。
リリアーナが少し緊張し、
ガイゼルは露骨に「また濃い面子が揃ったな」という顔をし、
霊真だけが普通に頭を下げた。
「おはようございます」
セレスティアは小さく頷いたあと、霊真のほうを見た。
「あなたも、感じていますのね」
「はい。前と似た気配が」
その返答に、セレスティアの睫毛がわずかに揺れた。
「……わたくしもですわ」
声は小さい。
だがそれは、はっきりした本音だった。
セレスティアにはもう、舞台へ立たされる前の空気が分かる。
誰かが何かを言い出す前から、自分へ向かう視線の質が変わる。
善意の顔をした距離。
興味の顔をした観察。
哀れみと期待が混じった、あの耐えがたい空気。
彼女は、それがまた近づいていると感じていた。
◇
昼休み、図書塔奥の閲覧準備室には、再びいつもの面々が集まっていた。
アルフレッドは今日も少し疲れた顔をしているが、以前のような迷い方ではない。
今は明確に“警戒している顔”だった。
ルシアンは早くから部屋へ入り、机の上へいくつもの測定結果と人の動線図を並べている。
ガイゼルは最初から不機嫌そうで、椅子へ腰を下ろすなり「嫌な予感しかしねえ」と言った。
リリアーナはノートを抱え、ミレーユはいつもどおり場を整える位置へいる。
セレスティアは姿勢こそ完璧だが、今日はいっそう固い。
「正式通知は確認した」
とアルフレッドが口火を切った。
「公開討論会と模擬舞踏会を兼ねる。来賓あり。貴族子弟と奨学生の交流を謳っているが、実際には見世物に近い」
「ええ」
とセレスティア。
「悪趣味なほど、条件が揃っていますわ」
「条件?」
とリリアーナ。
セレスティアは一瞬だけ言葉を選んでから答えた。
「大勢の前で立場が可視化されることです。婚約者、庶民出身の奨学生、上級貴族の取り巻き、教師陣、来賓……全部が一つの場へ集められれば、“誰がどういう役か”を見せつけるにはちょうどよろしいでしょう」
その説明は冷静で、そして痛々しいほど的確だった。
ルシアンがそこで紙を一枚差し出す。
「昨夜から今朝にかけて、会場予定地周辺の測定をしました」
「また一人でやったのか」
とガイゼル。
「測定ですので」
「そういうとこだぞ」
いつもの小競り合いを挟みつつ、ルシアンは真顔へ戻った。
「術式の脈動が強まっています」
「脈動」
とミレーユ。
「ええ。前回の懇親会の前に近い。ただし、今回はもっと露骨です。感情を押す流れが、会場準備と一緒に形を取り始めている」
霊真は小さく息を吐いた。
「やはり」
「はい」
ルシアンは頷く。
「“また同じことを起こす”つもりで動いていると見ていいでしょう」
部屋の空気が重くなる。
また同じこと。
それはつまり、セレスティアを再び“悪役令嬢断罪ルート”へ戻そうとしているということだ。
「……今度こそ、という感じですわね」
セレスティアが低く言った。
その声に棘はない。
代わりに、疲れきった諦めに近いものが少し混じっていた。
「今度は、もっと外の目もありますもの。ここでわたくしを舞台の中央へ立たせて、二度目の断罪を完成させる気なのでしょう」
「そんなの、させません」
とリリアーナがすぐに言う。
その声の強さに、自分でも少し驚いたようだったが、引っ込めなかった。
「前みたいに、空気で押し切られるのは嫌です」
セレスティアがその横顔を一瞬だけ見た。
何も言わなかったが、前より明らかに“ただの善良な庶民娘”として見ていない目だった。
「私も同意見ですわ」
とミレーユ。
「もう、ただ見守るだけではいられません」
「当然だろ」
とガイゼル。
「次やるなら、今度はこっちも最初から潰す」
アルフレッドはそこで深く頷いた。
「私も、前回のようにはしない。今度こそ即断は避ける。必要なら、会そのものの進行へ王族権限から介入する」
それはかなり大きな言葉だった。
以前のアルフレッドなら、そこまで明確に“舞台を壊す側”へ回る宣言はしなかったかもしれない。
ルシアンがさらに紙を差し出す。
「加えて、来賓名簿の一部に不自然な繋がりがあります」
「誰ですの」
とセレスティア。
「上級貴族グループの親族に近い人物が数名。外からの視線が“そういう結論”へ傾きやすい配置です」
「徹底してますわね……」
リリアーナが青ざめる。
「ええ。だからこそ、これはもうただの嫌がらせではありません」
ルシアンの声音は冷えていた。
「断罪ルートの強制再起動です」
その言い方は、最近この場にいる皆には妙にしっくりきてしまう。
世界の側が一度失敗した筋書きを、別の舞台で再実行しようとしている。
そう考えると、今起きていることの露骨さがむしろ自然ですらある。
◇
会議のあと、霊真は一人で少しだけ会場予定地の前を歩いた。
大広間へ続く長い回廊。
まだ装飾は始まったばかりだが、すでに人の流れが変わっている。花の配置、椅子の間隔、舞踏用に開けられる中央、討論のために視線が集まりやすい位置。
整っている。
整いすぎている。
その整い方が、あまりに“誰かを中央へ立たせるため”で、胸が少し冷えた。
「やはり、おられましたのね」
振り返ると、セレスティアだった。
彼女は人のいない時間を見計らって来たのだろう。
この広い回廊に、今は二人しかいない。
「はい」
「何か分かりましたの」
霊真はすぐには答えなかった。
代わりに会場へ向き直り、しばらくしてから言う。
「また、あの時と似た空気です」
セレスティアはゆっくりと目を閉じた。
「……ええ」
彼女にも分かっているのだ。
この会場へ立ったとき、自分がどの位置に置かれるのか。
誰がどんな顔で自分を見るのか。
どんな言葉が投げられ、どんな空気が“正しさ”の顔をして迫ってくるのか。
「息が詰まりますわね」
とセレスティアは小さく言った。
「まだ始まってもいないのに」
「はい」
「皆、わたくしを見ているわけではない。見ているのは“悪役令嬢”ですもの」
その言葉に、霊真は少しだけ胸が痛んだ。
セレスティアは今や、その構造を理解している。
だからこそ前よりつらいのかもしれない。
ただ理不尽に嫌われているだけなら、怒れば済む。
だが“役割として消費されている”のだと知ってしまうと、人は怒りだけでは立っていられない。
「ローゼンベルク殿」
「何ですの」
「今回は、お一人ではありません」
その一言に、セレスティアの視線がわずかに揺れる。
「……そういう言葉を、さらりとおっしゃるのは反則ですわ」
「反則でしょうか」
「ええ。かなり」
けれど、その声は前より柔らかかった。
少なくとも、完全に沈みきる前に少しだけ呼吸を戻せる程度には。
◇
夜更け、学園の別の場所では、別の会話があった。
人気のない小部屋。
灯りは絞られ、机の上には会場図と招待客の名簿が広がっている。
「準備は整いつつあります」
「失敗は許されん」
低い声がそう返す。
「前回は転移者が割って入った。今回は、その余地ごと潰せ」
「ローゼンベルク嬢の立ち位置は中央へ固定できます」
「王子は」
「前より慎重です。ですが、慎重であるほど周囲の圧で動きが鈍る可能性があります」
「庶民娘は」
「情に流れやすい」
「聖女候補と魔術師は」
「対策を講じます」
短い沈黙。
「断罪ルートを戻す」
冷たい声が言う。
「今度こそ、ローゼンベルクを“そうあるべき位置”へ押し込めろ」
「転移者は」
「必要なら舞台から外せ」
その一言には、ためらいがなかった。
「世界が整えた筋書きに、異物が多すぎる」
そうして、見えないところで“第二の舞台”は着々と組み上がっていく。
◇
翌朝、招待状が配られた。
厚みのある紙。
金の縁取り。
流麗な文字。
いかにも華やかで、いかにも格式高い。
けれど霊真には、それがまるで再び舞台の幕が上がる合図にしか見えなかった。
大勢が見守る場。
立場が露わになる場。
好意も敵意も、役割として固定されやすい場。
そしてそこには、
セレスティア再断罪イベントの開始条件が揃った
としか思えない配置が、あまりにも露骨に並んでいた。
悪役令嬢断罪ルートは、まだ終わっていない。
むしろ今、強制再起動しようとしているのだ。
そのことだけが、誰の目にもはっきりし始めていた。




