第34話 聖女候補、攻略対象ではなく“救済対象”に惹かれ始める
ミレーユ・セラフィナは、その日ずっと胸の奥が落ち着かなかった。
それは最近では珍しいことではない。
むしろ、ここしばらくの自分は前よりずっと落ち着いていない時間が増えている。
礼拝堂へ行けば、祈りの最中にふと別の横顔を思い出す。
学園の回廊を歩けば、誰が誰と話しているかより先に、九十九院霊真が今どこで何をしているのかを考えてしまう。
皆と一緒に調査の話をしていても、つい彼の声がしたほうへ意識が寄る。
これはたぶん、少し前までの“尊敬”だけでは説明がつかない。
つかないのだが、だからといって、すぐに別の名前をつけるのはまだ早い気がしていた。
「……いけませんわね」
放課後、礼拝堂の長椅子へ腰を下ろしながら、ミレーユは小さく呟いた。
高い窓から差し込む夕方の光が、石床へ細長く落ちている。
誰もいない礼拝堂は静かで、息を吸うだけで少し心が整うような気がする場所だった。
だから本来なら、ここへ来れば落ち着くはずなのだ。
けれど最近は、礼拝堂でさえ逆に思い出してしまう。
霊真の祈りを。
あの、“誰かに認められるためではなく、自分を整えるための祈り”を。
そして、人を救おうとしているくせに、“救ってやる”という顔を少しもしない在り方を。
普通の攻略対象たちが持つ華やかさとは違う。
王子のようなまぶしさでもない。
騎士のような頼もしさでもない。
天才魔術師のような鋭さでもない。
もっと静かで、
もっと地味で、
それなのに、ひどく目を離しづらい。
ミレーユは自分の指先を見つめた。
最近、学園の中でよく聞く“ルート”だの“イベント”だのという言葉が、どうにも現実味を帯び始めている。もしこの世界が本当に誰かを“そういう役”へ押し込みやすいのだとしたら、自分は本来どういう立ち位置にいるのだろう。
聖女候補。
攻略対象側に寄りそう清らかな存在。
あるいは、主人公へ導きや救いを与える支援枠。
たぶん、そういうものとして配置されていてもおかしくない。
けれど今、自分が惹かれているのは、そういう攻略対象的な輝きではない。
むしろ逆だ。
霊真はどちらかといえば、“人を救う側”でありながら、本人はまるでそれを自覚していない。
英雄や攻略対象というより、“救済そのものへ向かって歩いている人”に見える。
それが、ミレーユにはたまらなく不思議で、そして目を逸らしがたかった。
「……お呼びしてしまいましょうか」
言ってから、自分で少し笑ってしまう。
理由ならある。
調査だ。
礼拝堂と学園の歪みの関係を、もう一度落ち着いて話したい。
術式の影響で“役割”が押されやすくなっているなら、祈りの場がどうそれに対抗できるか、確認したいこともある。
全部、本当だ。
全部、口実でもある。
少し迷った末、ミレーユは短い伝言を出した。
――今夜、礼拝堂で少しお話しできますか。
それだけの文面だった。
◇
夜の礼拝堂は、昼より静かだ。
灯りは最低限で、天井は暗く、高窓からはわずかに月の色が落ちてくる。昼間の礼拝堂が“整える場所”なら、夜の礼拝堂は“奥へ沈む場所”に近い。
霊真が来たのは、約束した時間ぴったりだった。
「こんばんは、ミレーユ殿」
「こんばんは、レイシン様」
その返礼だけでも、妙に胸が落ち着かない。
ここまで来ると、自分でもかなり末期なのではと思う。
だが表情には出さない。
少なくとも、出しすぎないようにする。
「お呼び立てしてしまってすみません」
「いいえ。礼拝堂でしたら、私も落ち着きますので」
その何気ない言葉に、ミレーユはほんの少しだけ救われる。
自分だけが特別に呼びつけたわけではなく、彼にとってもこの場は自然な場所なのだ。
二人は前方から少し離れた長椅子へ腰を下ろした。
間には一人ぶん弱の距離。
近すぎず、けれど遠くもない。
こういう微妙な距離の取り方が、この人は相変わらず自然だ。
「今日は、少し整理したくて」
とミレーユが切り出す。
「何を、でしょう」
「わたくしたちが今、何に巻き込まれているのかを」
霊真は静かに頷いた。
「はい」
「学園の歪み、感情を押す術式、役割の固定……そこまでは見えてきました。ですが、最近はそれ以上に、“世界のほうがこちらへ物語を押しつけている”ような感覚も強くなってきていますわ」
霊真はその言葉を否定しなかった。
否定しないということは、同じ違和感を持っているのだろう。
「たとえば」
とミレーユ。
「誰かと誰かが妙に都合よく出会うこと。感情の動きが少しだけ濃くなりすぎること。誰が“そういう役”かを、周囲まで自然に受け入れてしまうこと」
「はい」
「もしこれが本当に、この世界の仕様に近いのだとしたら……」
そこまで言って、ミレーユは少しだけ息を整えた。
「あなたは、どうしてそれに呑まれないのですか」
それは、前からずっと気になっていたことだった。
王子も、
悪役令嬢も、
本来ヒロインも、
天才魔術師も、
騎士も、
聖女候補たる自分も。
皆どこかで押されている。
役割や感情や空気に。
なのに霊真だけが、押されそうでいて、いつのまにか違う場所へ立っている。
霊真は少し考えた。
「呑まれていない、のでしょうか」
「少なくとも、皆さまよりは」
「……分かりません」
彼は正直にそう言った。
「ただ、苦しそうな方がおられたら、そちらを見てしまうだけかと」
ミレーユは目を伏せた。
そういうところだ。
この人のずるいところは。
大げさな決意や、力強い誓いではない。
ただ当たり前みたいに、
“苦しそうな人がいればそちらを見る”
と言ってしまえること。
「あなたは、人に好かれようとしていないのに、人の心へ入ってしまうのですね」
ぽつりと、そう漏れた。
霊真が少しだけ首をかしげる。
「そうでしょうか」
「ええ」
ミレーユは静かに続けた。
「王子のように、立場で人を引っ張るわけではない。ルシアンさんのように、理屈で相手を圧倒するわけでもない。ガイゼルさんのように、体を張って守る強さが前に出るわけでもない」
そこで一度言葉を切る。
「それでもあなたは、気づいたら人の心の近くにいる」
礼拝堂の灯りが揺れる。
静けさが深くなる。
霊真は、少しだけ困ったような顔をした。
「そのようなつもりはありません」
「分かっています」
ミレーユは小さく笑った。
「だから余計に、ですわ」
狙っていない。
奪うつもりもない。
好かれたいわけでもない。
なのに、気づくと人の心の中心近くへ来ている。
それがこの人のいちばん厄介で、いちばん惹かれるところだと、ミレーユは最近ようやく理解し始めていた。
◇
話しているうちに、気づけば礼拝堂の空気はだいぶ柔らかくなっていた。
ミレーユは自分でも驚くくらい、霊真の前では素直な言葉が出る。
聖女候補として整えた“見せる祈り”ではなく、もっと静かな本音に近いものが。
「わたくし、最近少し怖いのです」
ミレーユがそう言うと、霊真は視線だけで続きを待った。
「聖女候補でいることは、わたくしにとってずっと当然でした。正しく祈ること、人を導くこと、穢れぬ在り方を保つこと。それが自分の道だと思っていました」
「はい」
「でも、あなたと話していると、ときどきその“当然”の形がほどけるのです」
それは責める言葉ではない。
むしろ逆で、少しだけ安堵を含んだ本音だった。
「あなたといると、自分が聖女候補であることを忘れそうになります」
以前にも似たことを言った。
そのとき霊真は、
「忘れてはいけないのでは」
と返した。
今回も同じかもしれない、と思いながら少し待つ。
だが今夜の霊真は、少し違う反応を返した。
「それは、よくないことでしょうか」
ミレーユが目を瞬く。
「……え?」
「聖女候補であることが苦しいなら、少し忘れられる時間があってもよいのではないかと」
その答えに、ミレーユはしばらく言葉を失った。
こんな返しをされると思っていなかった。
否定されるか、正されるか、あるいは困られるか。
そのどれかだと思っていたのに。
苦しいなら、忘れられる時間があってもいい。
そんなことを、こんなに静かに言われると、泣きたくなるではないか。
「……ずるいですわ」
ミレーユは小さく笑おうとした。
だが、うまくいかなかった。
目の奥が熱い。
胸のあたりがじんわりと苦しい。
自分はたぶん、張っていたのだ。
聖女候補として、清らかで、正しくて、揺らがぬ者であろうと。
けれど今、この人の前では、それを少しだけ下ろしてもよいのかもしれないと思ってしまった。
その瞬間、目尻が滲んだ。
ミレーユは慌てて顔を伏せる。
「……申し訳ありません」
「いいえ」
霊真は落ち着いた声で答えた。
それから少しして、懐から小さな布を取り出し、そっと差し出す。
「よろしければ」
ハンカチだった。
白く、飾りのない、ごく普通のもの。
けれど今のミレーユには、なぜかすごく優しく見えた。
「ありがとうございます……」
受け取り、目元へ軽く当てる。
礼拝堂の静かな夜に、布越しの涙の気配だけが少しだけ響く。
霊真は何も言わない。
慰めの言葉を過剰に重ねたりしない。
ただそこにいて、急かさず、見すぎず、離れすぎずにいる。
それがどれほどありがたいか、今のミレーユにはよく分かった。
◇
しばらくして呼吸が整うと、ミレーユは少し恥ずかしくなった。
「……お見苦しいところを」
「そのようには思いません」
また即答だった。
ミレーユはハンカチを握ったまま、少しだけ笑う。
「本当に、そういうところですわね」
「はい?」
「いえ、気にしないでくださいまし」
どうせ本人は分からないのだろう。
この人がどうしてこんなに自然に、人の心へ入ってきてしまうのかなんて。
その無自覚さに、少しだけ困り、少しだけ救われ、そしてかなり惹かれている自分がいる。
「レイシン様」
「はい」
「わたくし、たぶんもう……」
尊敬だけでは片づけられない。
そう言いかけて、ミレーユは少しだけ言葉を止めた。
まだそこまでを今夜ここで全部言ってしまうのは、違う気がした。
自分の感情に、もう少しだけ形がほしい。
「……あなたのことを、普通には見られませんわね」
代わりにそう言う。
それでも十分に重い言葉だったはずだ。
霊真は少し考えてから、静かに答えた。
「それは、よい意味であればよいのですが」
やはり、そう返す。
ミレーユは今度こそ、ちゃんと笑えた。
「ええ。たぶん、とても」
◇
礼拝堂を出る頃には、夜はだいぶ深くなっていた。
回廊には人影が少なく、窓から見える中庭も暗い。
並んで歩く時間は短かったが、それでも今夜はいつもより距離が近く感じる。
「今日は、ありがとうございました」
ミレーユがそう言うと、霊真は軽く頭を下げた。
「こちらこそ」
「ハンカチ、お返ししますわ」
「どうぞ、お持ちください」
「……そういうところです」
また同じ言葉が出る。
けれどそれは、もう半分以上好意の告白みたいなものだった。
別れ際、ミレーユは小さく深呼吸した。
尊敬だけではない。
たぶん、もうそれははっきりしている。
聖女候補として攻略対象へ惹かれるのではない。
むしろ、自分とは別の形で人を救おうとするこの人だからこそ、惹かれている。
それは、少し苦しくて、少し嬉しい感情だった。
霊真の姿が回廊の向こうへ消えていったあと、ミレーユは静かな礼拝堂の扉へ一度だけ触れた。
「……これはもう尊敬だけでは片づけられませんわね」
誰もいない夜に向かって、ようやくそう口にする。
声にしてしまうと、不思議と少しだけ楽になった。
だが同時に、これから先は前よりもっと落ち着かなくなるのだろうという予感も、はっきりあった。




