第33話 ルシアン、解析しながら嫉妬まで理論化し始める
ルシアン・エーデル=クロイツは、自分が非常に非効率な状態へ入りつつあることを、認めたくないが認めざるを得なかった。
原因は明白である。
九十九院霊真だ。
あの転移者は、観察対象として極めて優秀だった。
異世界由来らしき魔力構造の異質さ。
既存理論へ収まらない浄化と結界。
感情誘導術式に対する直感的な感受性。
しかも、本人が理論へ執着していないため、むしろ変に歪めず自然な反応を返してくる。
これだけでも研究者としては十分すぎるほど面白い。
問題は、そこへ最近、“私情”としか言いようのないものが混ざり始めている点だった。
もちろん、ルシアン本人はそれをそう呼ばない。
呼ばないし、呼びたくもない。
彼の中で現在採用されている仮説は、もっと理性的で、もっと効率的で、もっと学術的な形をしている。
すなわち――
「観察対象が自分以外のところで重要情報を取ってくるのが非効率」
である。
「……非効率です」
誰もいない図書塔の一角で、ルシアンは小さくそう呟いた。
紙束を前にして、ペン先で机を軽く叩く。
目の前にはここ数日の調査メモが広がっていた。
ミレーユと礼拝堂ルートで得た古記録の情報。
リリアーナとの街聞き込みで拾った庶民側の噂の流れ。
セレスティアとの街イベントで明らかになった上級貴族層の押し出し方。
アルフレッドが王子権限側から掴んだ教師陣の不自然な動き。
ガイゼルが肌感覚で拾った、実働側の圧。
全部、重要だ。
重要だからこそ腹が立つ。
なぜその情報が、自分との解析時間の外で次々と増えていくのか。
なぜあの男は、こっちが夜を削って術式を解析しているあいだに、平然と別ルートの重要フラグを回収してくるのか。
理不尽である。
もちろん霊真が悪いわけではない。
悪いわけではないのだが、だからこそ余計に困る。
彼は無自覚に全部を持っていく。
「……やはり非効率ですね」
もう一度言ってみたが、言い換えても胸の奥の妙なざらつきは消えなかった。
そのざらつきの名前を、ルシアンはまだつけたくなかった。
◇
その夜、霊真はルシアンに呼び出されていた。
場所は図書塔裏手の石段前。
夜の測定に出る前の待ち合わせである。
旧校舎付近の残滓を追う。
それが今夜の目的だった。
霊真が約束の時間に現れると、ルシアンはすでにいた。
外套を羽織り、片手に例の測定具、もう片方に数枚の紙束を抱えている。顔色は相変わらず夜向きではないが、目だけは冴えていた。
「来ましたか」
「はい」
「遅れていませんね」
「時間どおりかと」
「ええ、そうです」
そこで会話が一拍止まる。
霊真は少し首をかしげた。
ルシアンの様子が、いつもよりほんの少しだけ刺々しい気がしたからだ。
「何かございましたか」
「あります」
即答だった。
「あなたは、もっと私を優先して情報共有すべきです」
霊真は数秒、沈黙した。
「……はい?」
率直な困惑が口をつく。
ルシアンは真顔だった。
「研究効率の問題です」
「研究効率」
「ええ。あなたは最近、礼拝堂側の記録も、街側の聞き込みも、王子殿下の内部情報も、私を経由せず持ってくるでしょう」
「はい」
「はい、ではありません。解析順序が乱れます」
どうやらかなり本気らしい。
霊真は少し考えてから答えた。
「ですが、皆さまそれぞれ別の役割を」
「分かっています」
「はい」
「分かっていますが、それでもです」
ルシアンは眉間を押さえた。
「あなたがどこかで重要情報を拾ってきて、あとから“こういうことがありました”と持ち込むたびに、こちらの理論整理が追いつかなくなる」
「申し訳ありません」
「謝らないでください。謝られると私が理不尽みたいでしょう」
理不尽なのでは、と霊真は少し思ったが口にはしなかった。
「では、先に共有すればよろしいでしょうか」
「ええ。できれば」
ルシアンはそこで少しだけ視線を逸らした。
耳のあたりが、ほんの少しだけ赤い気がしたが、夜の灯りのせいかもしれない。
「……少なくとも、私には早めに」
最後の言い方が少しだけ小さかった。
霊真は頷く。
「承知しました」
「その返事は本当に分かっている時のものですか」
「たぶん」
「たぶんで返さないでください」
いつものやりとりだ。
だが、今夜のルシアンはその“いつも”に少しだけ何かを混ぜているように見えた。
◇
旧校舎は、学園本館から少し離れた位置にある。
現在は倉庫や予備教室としてしか使われておらず、夜になるとほとんど人の気配がない。石壁は本館より古く、窓枠も少しだけ歪み、階段の角は使い込まれて丸くなっている。
「ここは、昔の学園の気配が残りやすいんです」
とルシアンが言った。
「昔の」
「ええ。改装の少ない場所ほど、術式の癖や感情の残りが沈殿しやすい」
彼は測定具を持ち上げ、旧校舎の壁沿いにゆっくり歩く。
霊真も少し後ろからついていった。
夜の旧校舎は、いかにも何か出そうな雰囲気をしている。
幽霊という意味ではない。
もっと、過去の感情が滞っていそうな気配だ。
実際、霊真はここへ来た瞬間から、胸の奥に軽いざらつきを感じていた。
「やはり、あります」
ルシアンが低く言う。
「どのような」
「前と同じ系統です。ただ、ここはもっと古い層に近い」
石壁の継ぎ目、階段の手すり、使われていない掲示板の前。
いくつかの地点で測定具の光が微かに震える。
ルシアンはその反応を見ながら、紙へ細かく記していった。
「このあたりは、感情を押す術式の残りが複層になっています」
「複層」
「ええ。新しいものだけではない。もっと前の、別の時期のものが重なっている」
それは、オルバスの見せた古い肖像画の話とも繋がる。
学園の歪みは、やはり一代限りではないのだ。
旧校舎の裏手へ回り、少し崩れた石段のそばで、ルシアンがまた立ち止まった。
「ここです」
声が、少しだけ弾んでいた。
「かなり濃い」
霊真もその場所へ近づく。
すると、ぞわりとした嫌な感覚があった。
「……嫌な感じがします」
「どういう」
「比べる感じがします」
ルシアンが目を見開く。
「比べる?」
「はい。誰が上か、誰が下か。誰が選ばれる側で、誰が落とされる側か。そういう、狭くて冷たい感じです」
自分でも説明が曖昧だと思う。
だがルシアンは、今度もそれをあっさり受け入れた。
「……やはり」
彼はしゃがみ込み、石段の縁へ測定具を近づけた。
「それです。恋愛感情だけではない。優劣感情と独占欲が混ざっている」
「独占欲」
「ええ。誰かを“自分の側へ置いておきたい”とか、“他の誰かに渡したくない”とか、そういう方向です」
その言葉に、霊真は少しだけここ数日の出来事を思い返した。
誰が誰と話していた。
誰が誰と出かけた。
それを知って少し空気が変わる。
誰かの顔が曇る。
誰かの声が少し尖る。
たしかに、思い当たることはある。
「この術式、厄介ですね」
「非常に」
ルシアンは低く答える。
「元からある感情を、少しだけ濃くするだけ。だから本人は自分の本音だと思いやすい。けれど少し押されるだけで、人間関係は驚くほど変わる」
それは、学園で今起きていることそのものだった。
王子は王子らしく。
悪役令嬢は悪役令嬢らしく。
本来ヒロインは本来ヒロインらしく。
攻略対象たちは攻略対象らしく。
その配置の中で、好意も敵意も、優越も独占も、少しずつ押されている。
そして霊真だけが、その押しを受けきらず、別の動きをしている。
「……なるほど」
と霊真。
「何がです」
「皆さまの様子がおかしくなりやすい理由が、少し分かった気がします」
「ええ。私もです」
ルシアンは測定具を握り直した。
その指先には、研究者の興奮と、それとは別の熱が少し混ざり始めている。
◇
旧校舎の裏手から戻ろうとしたときだった。
足場の悪い石段で、霊真の足元が少し滑った。
「お気をつけて」
とルシアンが言うのと、二人が同時に腕を伸ばしたのはほぼ同時だった。
結果として、今度はルシアンのほうが体勢を崩した。
「……っ」
手にしていた測定具を落とさぬよう庇ったせいで、踏み直しが遅れたのだろう。
霊真は反射的にその腕を掴み、肩を支える。
近い。
夜の石壁に囲まれた狭い通路で、距離が一気に縮まる。
ルシアンの銀髪が灯りに淡く浮き、呼吸の気配まで近い。
「大丈夫ですか」
霊真が問う。
「……大丈夫です」
ルシアンの返事が、ほんの少しだけ遅れた。
それから、自分のほうが一瞬意識してしまったことに気づいたらしく、急に不機嫌そうな顔になる。
「旧校舎は嫌いです」
「そうでしたか」
「足場が悪い」
「たしかに」
「それだけではありません」
「はい?」
「……いえ」
言いかけてやめる。
耳の先だけが少し赤い。
ルシアンは自分へ腹を立てているようだった。
近距離になったこと自体へではなく、それを一瞬でも意識してしまった自分へ。
霊真はそこまで細かくは分からない。
ただ、この天才魔術師が珍しく調子を崩していることだけは見て取れた。
そしてその様子を、またしても遠くの女子寮側の窓から誰かが見ていた。
「あれ、またクロイツ様と……」
「夜の旧校舎で近っ……」
「何なのこのルート、密度高くない?」
「研究って言い張るには距離が」
小声は届かない。
だが、誤解はまた着々と積み上がる。
◇
帰り道、ルシアンはだいぶ静かだった。
普段の彼なら、測定結果をその場で理論化しながら歩くのに、今日は少し口数が少ない。
たぶん、今夜見えたものが多すぎたのだろう。
旧校舎を抜け、図書塔脇の回廊まで戻ったところで、ようやく彼が口を開いた。
「レイシンさん」
「はい」
「今夜の件で、一つはっきりしました」
その声音は、もういつもの研究者の冷静さへ戻りつつある。
だが完全には戻っていない。
「この感情誘導術式、恋愛感情だけを押しているわけではありません」
「はい」
「優劣感情、独占欲、選ばれたい気持ち、負けたくない気持ち……そういう、人間関係を“物語的な対立”へ寄せやすい感情ごと増幅している」
「物語的な対立」
「ええ。誰が主役で、誰が脇役で、誰が悪役で、誰が選ばれるか。そういう枠組みそのものです」
ルシアンは少しだけ息を吐く。
「つまり、学園で最近起きている“イベントの濃さ”にも、かなりの確率でこの術式が関わっている」
その言葉で、霊真の中でもいくつかの出来事が線になった。
順番に主要人物と会う不自然さ。
少しのきっかけで感情が大きく揺れること。
周囲の人間までそれを“意味のある場面”として受け取る空気。
全部が無関係ではないのだろう。
「……厄介ですね」
「非常に」
ルシアンは即答した。
それから、少しだけ視線を逸らし、ぼそりと付け足す。
「私まで非効率になりますし」
「やはりそこなのですね」
「そこ“も”です」
今度は“も”がついた。
霊真は少しだけ考え、それから静かに言った。
「では、今後は早めに情報共有いたします」
ルシアンが一瞬、目を見開く。
「……はい。それがよろしいです」
「承知しました」
「本当に?」
「努力します」
「その返事は信用できませんが、前よりはましです」
それでも、少しだけ機嫌が戻ったらしい。
声の固さがわずかに薄れる。
ルシアンは最後に測定具を外套の内側へしまいながら、低く言った。
「この世界、思っていたよりずっと意地が悪いですね」
「そうでしょうか」
「ええ。人の心を最も揺れやすい形へ押してくる」
その言葉は、たぶん理論だけでなく、少し自分自身にも向けられていた。
霊真はそれにすぐには答えなかった。
ただ、今夜の旧校舎で感じた“比べるような嫌な気配”を思い出す。
選ばれる側。
落とされる側。
主役。
悪役。
誰かを特別にしたくなる気持ち。
誰かを渡したくない気持ち。
それら全部が押されているのだとしたら、この先もっとややこしいことになるのは間違いなかった。
そして、そのややこしさの中心へ、彼らはもう足を踏み入れてしまっているのだった。




