第31話 悪役令嬢、正ヒロインイベントに妙な対抗心を燃やす
セレスティア・フォン・ローゼンベルクは、その報告を聞いた瞬間、なぜか胸の奥がざわついた。
報告といっても、大げさなものではない。
ただ、放課後の中庭で、何気ない顔をしたリリアーナ・フェアミントが、これまた何気ない顔をした九十九院霊真へ向かって、
「街での聞き込みを手伝ってください」
と頼んだというだけの話である。
調査の一環だ。
庶民側へ流れる噂の経路を追うなら、学園外の雑貨店や行商人へ当たるのは理にかなっている。
しかも、リリアーナがその役目を担っている以上、霊真へ同行を頼むこと自体は不自然ではない。
不自然ではない。
何一つ不自然ではないのだ。
なのに、どうして胸の奥がこんなにも落ち着かないのか。
「……別に」
自室代わりの小部屋で一人、セレスティアは書類を閉じた。
別に何でもない。
調査が進むのはよいことだ。
リリアーナが自分で動くようになったのも、学園の歪みに呑まれきらなくなったという意味では歓迎すべき変化ですらある。
それなのに。
街へ出る。
二人きりで。
学園の外で。
聞き込みという名目で。
そこまで思ったところで、セレスティアは額へ手を当てた。
「馬鹿らしいですわ……」
何を想像しているのだろう。
だが、想像してしまう。
学園の外は、学園の中より距離が近くなりやすい。
人混みで寄ることもあるだろうし、立ち寄る店で並んで歩くこともあるだろう。
もしかしたら、休憩だってするかもしれない。
しかもリリアーナは、本来そういう“庶民的で親しみやすいイベント”がよく似合う。
そういう意味で、街イベントはどう考えても彼女の得意分野だ。
――ずるい。
そこまで考えてから、セレスティアは自分で自分へ驚いた。
何がずるいのか。
自分は何に対してそう思ったのか。
答えを出したくなくて、彼女は机の端を軽く指先で叩いた。
これは嫉妬ではない。
調査の進行確認だ。
そう、進行確認。
最近、これを何度も自分へ言い聞かせている気がする。
その時点でだいぶ怪しいのだが、そこには触れないことにした。
◇
翌日、リリアーナと霊真が実際に街へ出たという事実は、驚くほど早くセレスティアの耳へ届いた。
正確には、耳へ届いてしまった。
昼休み、回廊の向こうで女子生徒たちが、これ見よがしに小声で話していたのだ。
「見た? 昨日、フェアミントさんとレイシンさん」
「街のほうで?」
「うん、並んで歩いてたって」
「やっぱり本来ヒロインイベント強い……」
「でもローゼンベルク様ルートも濃いのよね」
「なにその修羅場」
聞くつもりはなかった。
だが、聞こえてしまったものは仕方がない。
セレスティアは何事もなかったように通り過ぎた。
完璧な姿勢。
冷たい横顔。
いつもの公爵令嬢そのもの。
けれど内心では、だいぶ刺さっていた。
並んで歩いていた。
街のほうで。
やはり。
そうなるに決まっているではないか、とも思う。
リリアーナは親しみやすい。
霊真は相手によって距離を変えるタイプではないが、相手が自然に近づけばそのぶん距離が近くなる。
そして街は、学園よりずっとそういう空気を作りやすい。
理屈で理解してしまうから余計に腹が立つ。
「……確認が必要ですわね」
誰もいないところで、セレスティアはそう呟いた。
確認。
そう、確認だ。
自分が調査協力者として当然するべき確認である。
別に、リリアーナへ対抗したいわけではない。
街へ一緒に出ることの意味を過剰に意識しているわけでもない。
ただ必要だから、進行確認のために、自分も霊真と街へ出る必要があるだけだ。
理屈は完璧だった。
その理屈の苦しさにだけは、気づかないふりをした。
◇
その日の放課後、セレスティアは中庭の一角で霊真を見つけた。
彼は噴水の近くで立ち止まり、何か考え事をしている様子だった。最近の彼は、こうして人の少ない場所で一人になることが増えている。たぶん、情報を整理しているのだろう。
「少し、よろしいかしら」
声をかけると、霊真はすぐに振り向いた。
「はい」
いつもの返事だ。
妙な期待も警戒もなく、ただ呼ばれたから応じるだけ。
セレスティアはその無防備さに少しだけ腹立たしさを覚えつつ、本題へ入る。
「あなた、昨日リリアーナと街へ出たそうですわね」
「はい」
これまた即答だった。
「噂の聞き込みです」
「そう。でしたら」
セレスティアは、できるだけ自然な顔で続けた。
「わたくしとも確認のために街へ出ていただけますわね」
言い切った。
中庭の風が一瞬止まった気がした。
霊真は少しだけ目を瞬いたが、驚きすぎることもなく頷いた。
「承知しました」
あまりにもあっさりしている。
もっと、
「なぜでしょう」
とか、
「何を」
とか、
「必要ですか」
とか、
少しくらい訊いてもよさそうなものなのに。
その反応に、セレスティアは逆に調子を崩される。
「……理由を聞かないのですのね」
「確認が必要とのことでしたので」
「それだけで」
「はい」
また、それだ。
変に勘ぐられないのはありがたい。
ありがたいのだが、少しくらいこちらの内心へ気づかれていないことが、妙に悔しい。
「では、今日の放課後に」
「はい」
話はそれで決まった。
決まってしまったからには、もう後戻りもできない。
◇
街へ出ると、学園外の空気はやはり少し違った。
石造りの学園の整いすぎた景色とは別の、生活の匂いがある。
商店の呼び声、馬車の音、焼き菓子の香り、雑貨屋の店先に並ぶ小物、夕方へ傾く光。
セレスティアは街に不慣れなわけではない。
むしろ貴族として、整った街区や格式ある店にはよく出入りしてきた。
だが今のように、
公爵令嬢としてではなく、ただ一人の少女として、年の近い男と並んで歩く
ことにはまったく慣れていなかった。
最初の数分で、それがよく分かった。
歩幅をどうすればよいか少し迷う。
視線をどこへ置くべきかも分からない。
店先のものに興味を示しすぎるのも幼く見える気がして、けれど興味がないふりをするとそれはそれで不自然な気がする。
霊真のほうは、相変わらず自然体だった。
「こちらで聞き込みをなさるのですか」
「ええ。貴族の噂は、外へ出る時に店の者や出入り業者へ落ちることもありますもの」
説明は本当に必要なことだ。
だからそれを口実にできるのは助かる。
二人はまず、上級貴族子弟が利用することの多い高級文具店へ入った。
そこでセレスティアは、最近学園の生徒たちが何を話題にしていたかをさりげなく探る。
相手は老練な店主で、あからさまに噂話はしない。
だが、
「学園は最近少し騒がしいようで」
とだけ振ると、
「ええ、令嬢方のお話がいろいろと」
と返ってくる。
そこから先は、表情や言葉の濁し方で十分だった。
やはり、自分の評判は意図的に押し出されている。
聞き込みとしては手応えがあった。
だが問題は、それだけではなかった。
◇
二軒目の店を出たところで、通りに小さな菓子屋の屋台が出ていた。
焼き立ての薄い生地に蜜を塗っただけの、素朴な甘い菓子だ。
貴族の茶会に出るような上品なものではない。
だが、香りは妙に魅力的だった。
セレスティアはほんの一瞬だけ視線を止めてしまう。
その一瞬を、霊真は見逃さなかったらしい。
「気になりますか」
「……別に」
「そうでしょうか」
「そうですわ」
だが、そこで目を逸らすには少し遅かった。
屋台の店主も、にこにこしながらこちらを見ている。
「お嬢さん、甘いの好きそうだねえ」
「……」
セレスティアは答えない。
この手のやり取りに慣れていない。
貴族相手の店なら、もっと遠回しに勧めてくるものだ。
「では、二つ」
霊真があっさり注文しようとしたので、セレスティアは反射的に止めた。
「お待ちなさい!」
「はい」
「どうしてあなたが勝手に」
「気になっておられるようでしたので」
「そ、それは」
言い返そうとして、言葉に詰まる。
たしかに少し気になっていた。
だがそれを素直に認めるのは癪だ。
「調査のついでに、少し休憩したほうが効率がよいかと」
と霊真。
その言い方が絶妙に腹立たしい。
理由はもっともだし、善意なのも分かる。
だから拒否しづらい。
「自分の分は自分で払いますわ」
とセレスティアは言った。
「ですが」
「払います」
霊真は少し考え、それから静かに頷いた。
「では、それぞれで」
あまりに素直に引かれると、それはそれで少し調子が狂う。
セレスティアは自分の感情の面倒さに内心でため息をついた。
結局、並んで菓子を受け取る。
一口食べると、思ったより素朴で、思った以上においしかった。
「……悪くありませんわね」
「はい」
霊真はそれ以上何も言わない。
そこを変に褒めたり、可笑しがったりしないからありがたい。
だが、店主のにこにこした顔だけは見なかったことにした。
◇
しばらく歩いていると、広場に近いあたりで小さな騒ぎが起きた。
荷車の車輪が石畳の継ぎ目にはまり、積まれていた木箱が傾いたのだ。通りがかった人々が慌てて避ける。小さな子どもが一人、よろけた拍子に車道側へ出かける。
それを見た瞬間、霊真の体が先に動いた。
「危ない」
短くそう言って、子どもの肩を軽く抱き寄せ、転がりかけた木箱の進路から外す。
同時に荷車の角度を支え、箱が完全に落ちるのを防ぐ。
あっという間だった。
周囲のざわめきが少し遅れて戻る。
「ありがとうございます!」
と荷車の男。
子どもの母親らしき女性も青ざめたまま頭を下げる。
霊真は「お気をつけください」とだけ返した。
そのやり取りを、セレスティアは少し離れた場所から見ていた。
まただ、と思う。
この人は、本当にそういうところが自然すぎる。
目立とうとしているわけでもなく、
善いことをして褒められたいわけでもなく、
ただ危ないと思ったら前へ出る。
王子でもなく、騎士でもなく、英雄然としてもいないのに、
そういう“本来なら誰かの攻略イベントになるような場面”を普通にさらっていく。
しかも助けられた側が子どもだから、ますます好感度が高い。
ずるい。
いや、自分がそう思うのがずるいのかもしれない。
「大丈夫ですか」
霊真が戻ってきてそう訊く。
「わたくしは何も」
「驚いておられたように見えましたので」
やはり見られている。
セレスティアは少しだけ視線を逸らした。
「……あなた、あの娘といる時とわたくしといる時で態度が違いませんこと?」
思わず口をついて出た。
言ってから、かなり変なことを訊いた気がする。
だがもう遅い。
「皆さま、それぞれ違う方ですので」
霊真はきっぱり言った。
「ですので、同じにはならないかと」
それはあまりにも正しい返答だった。
正しい。
正しいのだが、まったく納得しきれない。
「……そう」
セレスティアはそれだけ返した。
違う方だから違う。
そんなことは当たり前だ。
だが自分が聞きたかったのは、そういう意味ではない。
では何なのかと問われると、うまく言えない。
そのもやもやがさらに増す。
◇
その帰り道、二人はまた並んで歩いた。
街の夕暮れは昼より柔らかく、店じまい前の匂いや音が重なる。さきほどの小騒ぎの余韻も少しずつ遠ざかり、石畳を行く人の流れも落ち着いてきた。
セレスティアは、さっきの自分の問いを少し後悔していた。
あまりに幼い。
そして、あまりに嫉妬めいている。
だが霊真のほうは気にしていないらしく、普通に今日の聞き込みの整理を始めていた。
「上級貴族側の噂の押し出し方は、やはり意図的ですね」
「ええ」
「町へ下りる頃には、すでに物語が整っている感じがありました」
「……そうですわね」
「それに、今日の小騒ぎも少し不自然でした」
「荷車のことですの?」
「はい。偶然かもしれませんが、少しだけ出来すぎていた気もします」
セレスティアはその言葉で、また胸の奥がざわついた。
出来すぎ。
それは今日一日の感覚そのものだった。
街へ出る。
甘い菓子を食べる。
小さな騒ぎが起きる。
庇われる。
妙な問いをしてしまう。
それら全部が、まるで誰かに用意された“悪役令嬢個別ルートのイベント”みたいに整っていた。
そして、それを自分が嫌だと思っていないことに、さらに戸惑う。
◇
学園へ戻る直前、夕暮れの石畳の上で、セレスティアはついに一つだけ認めざるを得なくなった。
自分は今、かなりこの男へ振り回されている。
そして、それをただ不快とは思えない。
霊真が門のほうを見て、
「そろそろ戻りましょうか」
と言ったとき、セレスティアは小さく頷いた。
「ええ」
「本日の確認は、十分でしたか」
また確認、である。
セレスティアは少しだけ肩を落とし、それからわずかに笑った。
「……そうですわね。十分すぎるほど」
「それはよかったです」
やはり分かっていない。
だが、その分からなさが今は少しだけありがたい。
もし全部見透かされていたら、自分はここまで平然と立っていられなかっただろう。
学園の門が見えてくる。
その前に、セレスティアは一度だけ言った。
「今日のことは、調査のためですわ」
「はい」
「それ以上でも、それ以下でもありません」
「はい」
その素直な返事に、セレスティアは思わず目を細めた。
「……あなた、本当にそう思っていらっしゃるのね」
「違うのでしょうか」
「……いえ」
今は、違うとは言えない。
言えないからこそ苦しいのだが。
◇
その夜、セレスティアは自室で一人、椅子へ深く座ったまま天井を見上げていた。
机の上には今日の聞き込みのメモがある。
得られた情報は確かだ。
上級貴族グループの動きはやはり不自然で、外へ流れる噂は最初から“整った話”になっている。
調査としては意味があった。
とても意味があった。
だが、それだけではないことも、自分が一番よく分かっている。
街で並んで歩いたこと。
甘い菓子を食べたこと。
小さな騒ぎで庇われたこと。
そして、自分がつい、リリアーナと比べるような問いをしてしまったこと。
全部思い出すだけで、頬が少し熱くなる。
「あれは嫉妬ではありませんわ」
誰もいない部屋へ向かって、また言い聞かせる。
「ただ、調査の進行確認です」
沈黙。
「……ええ。確認です」
もう一度繰り返す。
それでも、自分の胸の奥がまったく納得していないことくらい、セレスティアにも分かっていた。
そしてその認めたくない感情が、以前よりはっきり形を持ち始めていることも。




