第30話 本来ヒロイン、好感度イベントの主導権を取り戻したい
リリアーナ・フェアミントは、その朝、自分でもよく分からない焦りを抱えていた。
理由は説明しにくい。
誰かに何かをはっきり奪われたわけではない。
セレスティア・フォン・ローゼンベルクに意地悪を言われたわけでもないし、ミレーユに遠回しな牽制を受けたわけでもない。ルシアンはいつもどおり研究のことしか考えていない顔だったし、ガイゼルはガイゼルで霊真に対して妙に兄貴分ぶっているだけだ。
なのに、胸の奥が落ち着かない。
「……何なんだろう、これ」
寮の部屋で制服の襟を整えながら、リリアーナは小さく呟いた。
鏡の向こうの自分はいつもどおりだ。
庶民出身の奨学生らしい、少し地味で、でも清潔に整えた姿。学園に来た当初はそのことを少し気にしていたが、今はもうそれなりに自分らしいと思える。
けれど、最近の自分は“自分らしい”だけでは少し足りない気がしていた。
思い返せば、このところの大きな出来事は妙にセレスティア側へ寄っている。
断罪未遂の中心にいたのはセレスティアだ。
霊真が本気で最初に救ったのもセレスティアだ。
夜の相談も、看病イベントの濃さも、どこかあの令嬢のほうへ流れていく。
もちろん、セレスティアが大変な立場にいることは分かっている。
だからそれ自体へ文句を言うつもりはない。
でも。
――何で私より、セレスティア様のほうが大事な場面を持っていくの……?
その考えが浮かんだ瞬間、リリアーナは自分で顔を覆いたくなった。
大事な場面って何。
場面って。
何をそんなふうに思っているのだろう。
まるで自分が、誰かと誰かの関係を物語みたいに見ているみたいではないか。
けれど、ここ最近の学園では本当にそういう空気が濃いのだ。
誰がどこで誰と話したとか、誰が誰を助けたとか、そういうことが妙に“意味ありげな出来事”へ育ってしまう。
そしてその“意味ありげな出来事”の主導権を、自分は少しずつ失っているような気がしていた。
「……主導権って何よ」
もう一度呟く。
だが、その言葉が一番しっくりくるのも事実だった。
リリアーナは善人だ。
少なくとも、自分がそうありたいとは思っている。
だからこそセレスティアの苦しさも今は見えるし、彼女ばかりを責める空気がよくないことも分かっている。
それでも、自分だって本来ヒロインっぽい位置にいるのではないか、と、どこかで思ってしまっている自分もいる。
そのことを、まだ誰にも言えない。
◇
その日の昼休み、リリアーナはようやく覚悟を決めた。
中庭の端、いつもなら少し人目を避けられる回廊の近くで、霊真を見つける。彼は相変わらず静かな顔で立っていて、花壇のほうを見ていた。
声をかける直前、リリアーナは一度だけ深呼吸した。
「レイシンさん」
霊真が振り向く。
「こんにちは、リリアーナ殿」
「こんにちは。あの……少しお願いがあるんですけど」
「はい」
この人はいつも、こういうとき反応がまっすぐだ。
嫌そうでもなく、構えすぎるでもなく、ただ“話を聞きます”という顔をする。
その顔に励まされるように、リリアーナは言った。
「今度、街で聞き込みを手伝ってください」
言ってしまった。
霊真は少しだけ目を瞬いた。
だがすぐに頷く。
「調査のために、でしょうか」
「はい。庶民側の噂の流れって、学園の外の行商さんとか雑貨店とかにも、少しだけ漏れることがあるんです。特に学園と出入りのあるお店なら」
「なるほど」
「それで、その……一人より二人のほうが自然に聞けるかなって」
これは本当に、ちゃんとした調査理由でもある。
言い訳ではない。
だがその一方で、リリアーナ自身が
「学園の外で二人きりになりたい」
と思っていないと言えば嘘になる。
そこまで認める勇気はまだないが。
「承知しました」
と霊真はあっさり答えた。
「よかった……!」
思っていた以上に、ほっとした声が出た。
リリアーナは慌てて咳払いを一つしてごまかす。
「で、では、明日の放課後で大丈夫ですか?」
「はい」
その返事に妙な駆け引きがないせいで、かえってこちらばかり意識してしまう。
ちょうどそこへ、通りすがりの女子生徒二人が視線を向けてきた。
「見て」
「リリアーナさん、先に動いた……?」
「街イベント?」
「本来ヒロイン、巻き返しに来た感じある」
小声なのだろうが、霊真にはともかくリリアーナには普通に聞こえた。
顔が熱くなる。
「ち、違いますから!」
思わずそちらへ言い返してしまい、女子生徒たちは「ごめんなさい!」という顔で去っていった。
だが絶対に誤解の種は持っていった。
霊真は少しだけ首をかしげる。
「今のは何だったのでしょう」
「き、気にしなくていいです!」
「そうですか」
やはり意味が分かっていない顔だった。
それが少し悔しくて、でもどこか安心もする。
◇
翌日の放課後、学園の正門前で落ち合ったとき、リリアーナは少しだけ緊張していた。
街へ出るだけだ。
調査だ。
聞き込みだ。
そう自分へ言い聞かせてきたのに、いざこうして霊真が待っている姿を見ると、どうにも落ち着かない。
霊真は制服の上へ簡素な外套を羽織っていた。
別に着飾っているわけではない。むしろ地味なくらいだ。
なのに、学園の外へ一緒に出るとなると、なぜか普段より少しだけ特別に見えてしまう。
「お待たせしました」
「いいえ。今来たところです」
その返答も、定型句のようでいて本気らしい。
門を出て、石畳の道を並んで歩く。
学園から下った先にある城下町は、夕方へ向かう活気に満ちていた。焼きたてのパンの匂い、青果店の呼び声、荷馬車の軋む音、子どもたちの走る声。学園の中の整いすぎた空気とは違い、こちらは少し雑で、少し温かい。
「やっぱり、町は落ち着きます」
とリリアーナ。
「そうでしょうか」
「ええ。学園の中って、きれいなんですけど、ちょっとだけ息が詰まる時があるから」
霊真はその言葉に静かに頷いた。
「分かる気がします」
その返しが妙にうれしい。
まずは学園御用達の雑貨店へ向かう。
ここは貴族科の生徒も庶民側の奨学生もよく使う店で、噂が混ざりやすい。
店主の女性はリリアーナを見るとやわらかく笑った。
「いらっしゃい、フェアミントさん。今日はお連れさん付きなのね」
「え、ええ。ちょっと調べたいことがあって……」
霊真が軽く一礼すると、店主の目が少しだけ面白そうになる。
だがそこはさすが大人で、すぐに空気を戻した。
「噂のことかい?」
「……やっぱり外まで」
「学園の子たちは、思ったより町に話を落としていくからねえ」
そこでリリアーナは、脅迫文や禁制品の件がどう広まっているかをそれとなく聞いた。
店主の答えははっきりしていた。
「町まで来る頃には、話が妙に完成してるんだよ。最初の最初はたぶん学園の上の方の子たちさ。貴族の坊ちゃん嬢ちゃんの口から、もっともらしい形で降りてくる」
やはり、上級貴族子弟のグループが起点だ。
さらにパン屋でも、文具店でも、似たような傾向が見えた。
話は外へ漏れている。
だが、ただ漏れるのではなく、ある程度“筋書きの整った噂”として流れてきている。
調査としては十分に意味がある。
意味があるのだが、調査の合間に挟まる何気ない時間が、妙に心を落ち着かなくさせた。
◇
「少し休まれますか」
霊真がそう言ったのは、二軒目の聞き込みを終えたあとだった。
ちょうど広場の一角に、小さな屋台が並んでいる。
焼き菓子、果実水、揚げたての軽食――放課後の若者が寄り道するにはちょうどいい場所だ。
「えっ、あ……でも」
「歩き続けると疲れるかと」
完全に気遣いだった。
だが、その気遣いがまた“街イベント”感を強めている。
リリアーナは少し迷ったあと、素直に頷いた。
「じゃあ、少しだけ」
屋台の前で立ち止まる。
並んでいる焼き菓子は、庶民的だが香ばしくておいしそうだった。
「どちらになさいますか」
と霊真。
「え、えっと……」
こういうとき、リリアーナは少しだけ迷う。
遠慮が先に立つのだ。
「この、小さいほうで」
「では、私は同じものを」
霊真は自然に代金を払おうとした。
その動きがあまりに自然で、リリアーナは慌てる。
「だ、大丈夫です! 自分の分は出します!」
「ですが」
「だめです!」
声が少し大きくなり、屋台の店主がにこにこし始めた。
「仲がいいねえ」
と言われて、リリアーナは一瞬で赤くなる。
「ち、違います、調査です!」
「そうかいそうかい」
店主は完全に分かっていて言っている顔だった。
霊真は素直に引き下がった。
「では、それぞれで」
「はい……」
結局、並んで焼き菓子を食べる。
甘い。
少し香辛料が効いていて、外側はさくっとしていた。
「おいしいですね」
と霊真。
「はい……」
返事をしながら、リリアーナは自分の胸がやけに落ち着かないことを自覚していた。
こういう何でもない時間が、なぜか嬉しい。
調査だけれど。
調査のはずなのだけれど。
◇
広場を抜けた先で、少し人通りが多くなった。
夕方が近づき、買い物帰りの人々や学園帰りの生徒たちが混ざり始めている。
リリアーナは人混みの中で、少しだけ歩きづらさを感じた。
そのとき、後ろから荷を抱えた男が慌てて通り抜けようとしてきた。
「失礼!」
声がした瞬間、リリアーナは反射的に身をすくめた。
ぶつかる、と思った次の瞬間、袖を軽く引かれる。
霊真だった。
「こちらへ」
人波の外へ自然に引き寄せられる。
強引ではない。
だが確実に守る動きだ。
リリアーナは一歩よろめき、それから霊真のすぐ近くで立ち止まることになった。
「大丈夫ですか」
「は、はい……」
袖をつかまれたわけではなく、袖をつかんだわけでもない。
けれどその距離は近かった。
人混みを避けるためとはいえ、かなり近い。
リリアーナの心臓がまた変な動きをする。
「人が多いですね」
「そ、そうですね……」
霊真はただの事実として言っている。
だがリリアーナのほうは、もはや人の多さどころではない。
この人と学園の外で並んで歩くと、普段よりずっと距離感が近く感じる。
それが良いことなのか悪いことなのか、まだうまく言葉にできない。
ただ、少し離れたくないと思ってしまう自分がいる。
◇
その後、聞き込みはさらに二軒ほど続いた。
成果はあった。
やはり学園外へ漏れる噂の最初期段階には、特定の上級貴族子弟たちの名がちらつく。直接の黒幕ではないにせよ、拡散装置として使われているのはほぼ確実だ。
十分だ。
今日はちゃんと役に立っている。
そう分かるのに、リリアーナの心は妙にふわふわしていた。
帰り道、夕暮れの石畳を歩きながら、彼女は自分でも少し驚くくらい素直に言ってしまった。
「……私、今日すごく楽しかったです」
言った瞬間、しまったと思う。
楽しかった、はだいぶ調査らしくない。
だが霊真は穏やかに答えた。
「それはよかったです」
「調査なのに、こんなこと言ったら変ですよね」
「よいのではないでしょうか」
「え?」
「必要なことをしつつ、楽しいなら、そのほうが」
それもまた、あまりに真っ直ぐな返答だった。
リリアーナは少しだけ笑って、でもすぐに視線を落とす。
この人といると落ち着く。
それはもう、認めざるを得なかった。
けれど、そのことをセレスティアに見透かされるのも、ミレーユに気づかれるのも、何だか少し嫌だと思ってしまう。
その感情が、自分でもまだうまく扱えない。
「……変ですね」
とリリアーナ。
「何がでしょう」
「いえ、何でもないです」
学園の門が見えてくる。
もうじきこの時間も終わるのだと思うと、ほんの少し惜しい気がした。
◇
別れ際、リリアーナは妙な焦りに押されるように言った。
「私、ちゃんとヒロインみたいに頑張りたい……じゃなくて、ちゃんと役に立ちたいんです」
沈黙。
言い間違えた。
完全に言い間違えた。
リリアーナは一瞬で耳まで赤くなった。
「ち、違うんです今のは! ひ、ヒロインっていうのは、その、変な意味じゃなくて、えっと、物語の中心みたいに、ちゃんと自分の足で立ちたいって意味で……!」
説明すればするほど苦しい。
自分でも何を言っているのかよく分からなくなる。
霊真は少しだけ目を瞬いたあと、静かに言った。
「はい」
「はい、って……」
「そうなれると思います」
あまりにも自然に、そう返された。
「あなたは、もう十分ご自分の足で立っておられますので」
リリアーナはその言葉に、一瞬だけ息を止めた。
胸の奥がじんと熱くなる。
まただ。
この人は、こういうときに平然と、欲しかった言葉をまっすぐ置いていく。
「……ずるいです」
と小さく呟く。
「何がでしょう」
「そこです」
リリアーナは笑ってごまかした。
ごまかしたが、たぶん今の顔はかなり赤かったと思う。
そしてその様子を、学園門の近くで偶然見かけた女子生徒二人が、当然のようにざわつきながら見送っていた。
「今の聞いた?」
「“ヒロインみたいに頑張りたい”って……」
「本来ヒロイン、ついに自覚ルート入った?」
「でもレイシンさん、全然分かってない顔だった」
「そこが一番ひどい」
違う意味でまた噂になりそうだな、とリリアーナは思った。
けれど今は、それでもいい気がした。
今日、自分はちゃんと一歩進めた。
調査でも。
気持ちの上でも。
そして何より、少しだけ“本来ヒロイン”らしい主導権を取り戻せた気がしたのだった。




