09-1 長谷川という男
授業が終わり光莉は教室棟の玄関口にでる。
朝から太陽が見えない日だった。日中も本曇りしていて気温が低い。煙雨で蒸れた夕風が肌を濡らす。空を眺めるとまだ止みそうにない。
昨日までは快晴で、もう梅雨明けだと思っていた。全くそんなことはなかったらしい。
梅雨明けのニュースに気を抜いていたのか、帰りのHR中に、才琉から『傘持ってる?』とメッセージが届いた。無視をするわけにもいかず『折りたたみなら』と返した。玄関口で待ち合わせをしている。雨の日の玄関はとにかく待ち人が多い。
光莉は人通りの邪魔にならないよう軒下の隅によって息を吸う。
(ああ、どうして。流れに任せて、あんなこと言ったんだろう)
才琉に対して告白未遂をしてからというもの、顔を合わせるたび気が重かった。
そういった雰囲気に慣れているのか才琉は普通だが、光莉の心は持たなかったようで、才琉の顔を見ると無意識に一歩後ずさったり、相変わらずの砂糖の声に肩が跳ねるくらい大げさに反応をしたり、その他にも大小さまざまな失態を犯している。
デートの話はあの日から進んでいない。ギクシャクする光莉の反応を間近で見て才琉も考えあぐねているようだった。
湿度が爆発している。光莉の肩にかかったモカ色の横髪が、外に内にと自由に暴れていた。目に止まった房に枝毛がはえているのを見つけ憂鬱になる。
ふと、入口のほうで空気の流れが変わった気配がした。目をやる。忙しそうに左右を見回す才琉と目があった。
「光莉、待たせてごめんね」
「うっ」
屈託なく笑うのに甘ったるい。最近ますます華美な顔に耐性がなくなっている気がする。
「う? 何、嬉しいなーってコト? オレもだよ」
「……からかってますよね?」
「いーや?」
「まあいいです。はい、これ」
リュックの中から質素な群青色の折りたたみ傘を出す。どんな年齢になっても使えるようにと母が選んでくれたものだった。折りたたみの傘だから一人用でうんと狭い。二人はいるには窮屈どころか密着する距離でもはみでるだろう。
光莉は才琉の手にそのまま傘を押しこんだ。その流れで別れの挨拶を言う。
「え、待って、待って。光莉は?」
「私はバイトがあるのでお貸しします。次に会ったときに返してください」
「いや、嘘でしょ。そういうわけにはいかない」
「大丈夫ですよ、私のバイト先すぐそこなので。東坂コンビニの向かいです」
「だったら光莉が使って。持ち主が濡れるのはオカシイ」
「ほとんど降ってないから平気ですよ?」
「平気じゃない。光莉と相合傘したいなって思ったから言ったの。これじゃ意味ないじゃん。――そんなにオレと話すのヤ?」
いつも通り自分の持っている武器の使い方がうまい。今の才琉はアンニュイな表情も蜂蜜の声も光莉の画角に完璧に写っている。
「それは、ちがいますけど……」
「なら決まり。悲しくなるから今みたいな逃げかたしないで」
才琉の手にかかると、ころっと望みの展開に持ちこまれる。まるで手品のようだ。
そのまま話をきいていると、才琉はうっかりしたわけではなく、登校時には傘を差していたという。昼の終わりに本を借りた。最後の授業が終わってまだ雨が降っているのを見て、本を濡らさないよう注意しようと考えた。ふと胸騒ぎを覚えてHR前に玄関口に行く。そこに自分の傘はなく既に盗まれた後だとわかった。下校前に盗まれるのは運がない。そんな内容だ。
だからHRの最中にメッセージが届いたのかと合点がいく。
「よくあるビニール傘だから仕方ないけどさ。相合傘イベがないと、やってらんないよね」
また礼節を欠いていると思ったが、才琉が朗らかに笑うから何も言えなくなってしまった。
「もしかして、君は才琉の彼女?」
後ろから男に声をかけられ、声のする方へ振りかえる。すこしガタイのいい男が一人居る。目を煌めかせた顔に覚えはない。才琉の知り合いだろうか。隣の表情を見た。複雑な顔をした才琉が長いため息をついていた。
「……んー、長谷川さんには紹介したくない」
「おい! 友達なのにひどいだろ! 紹介しろよー」
「いや、だって。長谷川さんて、その手の信用ないし」
「いいから。カッコつけんなって。俺たちの仲だろう。遠慮するな」
遠慮しているわけじゃない、と軽い口調の応酬が続いている。どうやら知り合いのようだ。長谷川と呼ばれる男が大きな声を出すたび、じとりと才琉の目が細くなる。
光莉は「誰?」と小声で才琉に尋ねた。小声を聞き取った才琉は困り眉で微笑をたたえた。目は笑っていない。表情から「触れないで欲しかった」と心の内奥が聞こえた気がした。
「はあー。このすんごく図々《ずうずう》しい人は、将来ゴシップ系の記者になりたい、長谷川さんだよ。悪い人じゃないケド、いい人でもない。だから、ゼッタイ仲良くしないでね」
「なんつー紹介だよ。あ、長谷川誠一郎です。よろしく」
長谷川は光莉に握手を求めた。光莉は反射で手を伸ばす。と、同時に才琉に手を取られた。
「けちけち! けちんぼ! 握手くらいで嫉妬して!」
「うるさい。そっちこそ記者になりたいのに語彙なさすぎ。受験生らしく勉強に帰ったら」
悪口を言う長谷川を才琉が往なす。
光莉は才琉が止めた理由は嫉妬じゃないと思った。だが、黙った。才琉が年相応に言い合いして白熱した様子が珍しくて、まだ見ていたいと思ったからだ。
「あ、写真の腕はピカイチかも。翠巒の写真とか、雪景とか。心が洗われる透明感のある綺麗な写真を撮るのに、ゴシップ気質で全部マイナスなのが長谷川さんだよ」
まともな紹介もできないのかよと口喧嘩が再開する。その様子が友達同士で戯れている関係性にみえた。打ち解けあった仲のようで、光莉は少しだけ性差特有の疎外感を感じる。
「まったく。才琉がうるさいから、まだ貴方の名前を伺っていなかった」
言い合いしていた長谷川がまっすぐ光莉のほうを向く。
光莉が自己紹介しようと声を出すと「本当に答えなくていいから」と才琉に強く遮られた。
冗談の延長かと思ったが、才琉の目には警戒の色が滲んでいる。
「だって、長谷川さんは前科あるし。ヤだよ。悪気とかはないんだろうけど」
(――前科?)
いつになく刺々《とげとげ》しく才琉が言った。長谷川は思い当たる記憶があるようで、さきほどの様子とは打って変わって、バツの悪い顔をした。
「アレは――俺はそんなつもりなかったよ。ただ、最近になって才琉に彼女できた噂をきいた。だから、本当に嬉しかったんだ。確かめたくて、それで」
声に威勢がない。長谷川は干からびた野菜みたいに目に見えて気落ちした。
「分かってるよ、オレにも長谷川さんに悪気がなかったって。でも、次、同じ事が起こったらオレは多分、長谷川さんのこと一生許せないと思う。心が狭いって分かっているけど」
長谷川と話す才琉の目の奥はぞっとするほど冷たく薄暗い。
才琉はうろたえる光莉を一瞥して「彼女に関わらないで欲しい」と長谷川に告げた。
言葉を聞いた長谷川は、大きな体躯を丸めて項垂れている。頭を上げた顔は少し泣きそうだ。小さな声で「ごめんよ」と残して去ってしまった。
嵐のように情報が過ぎて何がなんだか分からない。才琉を見ると目があった。能面のような表情ははじめて見る。
「あの人ね、元カノの浮気相手の一人なんだ」
言葉の続きはなかった。なんと声をかけていいのか分からず沈黙が続く。ため息が聞こえる。
もう帰ろうか、と才琉が言った。




