08-4
ふと強い視線を感じ目の前の窓を見た。反射した窓には、しらじらと赤い空気をまとった男がこちらを覗いている。その表情の抜けおちた顔は、怒りから来るものなのか憎悪なのか光莉には判別がつかない。
どうしてと思うと同時に、無意識のうちに足が震えた。
「なあに。タイミング最悪ですけど。邪魔しにきた?」才琉は相手を認めると鼻で笑った。
「カフェテリアに光莉がいるの珍しいから。見かけてつい――」
「つい? そうだとしてもさ、空気読めない? 嫌がられてるでしょ、アンタ」
あのとき確かに拒絶したはずなのにと思う。勇気をだして井上に放った「もう関わらないで欲しい」という些細な願いは、全く届いていないのだと知った。光莉の願いは簡単に蹴られるような、そのていどの存在なんだろうか。
目を合わせようと井上がこちらを覗きこむ様子が見えて、光莉は弾けるように俯いた。
「ダメ。噛んじゃダメだよ」
「あ……」
才琉に指摘されるまで、光莉は自分が下唇を噛んでいることに気づいていなかった。それに力いっぱい握りしめた手のひらには、痛々しく爪痕が残っている。
「違う。俺は誤解を解きたい。ただ、光莉と話したいだけなんだ」
「話したいねえ。そんな風には見えないけどね。詰問するような顔でさ、何を話すの」
「拗ねて意地をはったとか、メンクイだから乗り換えたのかとか、こっちだって話し合う理由があるんだ。だから、そっちこそ邪魔しないでくれよ」
「――なにそれ。喧嘩売ってる?」
井上が話すどれもが日本語を喋っているはずなのに、宇宙で話が通じないナニカと遭遇した気分になる。拗ねたとか乗り換えたとか、そんな関係になったことは一度もない。井上は本当にあの夏から光莉と付き合っているつもりだと紐解かれて吐き気がする。今もあの縋る視線でこちらを見ているのだろうか。
「私、井上さんの彼女になったこと、ありません」
光莉はスカートの裾を握って声をだす。皺になることも気にせず握った。なにかに掴まっていないと倒れそうだ。たった一言はっしただけなのに、なんだか疲れてしまった。幸い弁当は食べ終えていて残さずにすんだ。
「とりあえず、デートに誘う邪魔しないで、どっか消えて。光莉をこんなになるまで追い詰める自惚れ屋のアンタと話す機会なんて無いと思うよ」
才琉が心底呆れたように声を出したとき、驚くべきことに井上は初めて光莉の状態に気づいたような顔をした。それは、ひどく狼狽えていて、理解できないという表情だった。
(理解できないのは、こっちのほうなのに)
まるで忠義な家臣に裏切られたとでも言いたげな、心の底から自分は被害者なのだと訴える井上の表情に光莉の思考がふつふつと湧いてくる。
薄暗い感情を井上が大きな声で騒いでいたからだろう。周囲のいくつかの目がこちらを見ていた。「痴情のもつれ」だとか「略奪愛?」など密やかに、こちらにも届く音量で好き勝手に噂されている。
いままで直視してこなかった感情が一気に噴き出そうとしている。もう止まれそうにない。光莉の中でぷつりと糸が切れた。
怒りの前では、どうでもよかった。
光莉は井上を見据える。気がついた井上は歓喜の表情を見せたが、光莉の鋭く薄氷のごとく危うい顔つきを確認すると、瞬時に笑みをひっこめた。
「――才琉、行こう。被害者面して話にならない」
「え? あ、はい」
光莉の強い口調に目の前の二人が目を丸くしている。光莉がこんな風に刺すとは思っていなかったようだ。荒い口調の光莉にたいし、井上は物言わぬ石像になって動かなくなった。
付き合うのが馬鹿らしくなって席をたった。
光莉の表情は動かない。ただ弁当を巾着にしまい、教室に戻る準備をしている。
異様な雰囲気が気まずかったのだろう。周囲の好奇心はいつの間にか霧散していた。
傍らの黙考する男の存在を無視した。光莉は振り返らなかった。
(いちど反撃されたくらいで、ここまで被害者面できるんだ)
怒りのピークは六秒らしいと言ったのは誰だったか。ああ、そうだ。一年のころの朝の教室で灯里がアンガーマネジメントの本を用いて、クイズを出していたことを思い出す。あのとき確か灯里は「怒りの原因からは物理的に離れろ」と言っていた。随分と難しいことを言うなと思っていたけれど今ならよく分かる。早くそうすればよかった。
才琉は空の皿が乗ったトレーを返却口に置いた。行きと同じように、光莉に歩調を合わせて歩いてくれている。その様子を見ていたら、いくらか気持ちが静まる。
「ごめんなさい。御手洗さんのこと、嫌な噂されるくらい巻きこんでる」
「いや、それは別にいいんだけど。――なんていうか安心した」
「安心するところ、今のどこかにありました?」
光莉は心当たりがなくて首を傾げた。引かれはすれど、安心できるような要素は一つも思い当たらなかった。癇癪を起こしたと思われていないか不安になったくらいだ。
あたたかな春を思わせる眼差しが光莉を捉えている。どうして、そんな目でこちらを見ているのか光莉には分からない。歩きながら才琉の答えを待った。
「ちゃんと怒れるんだなって、安心した」
励ますような明るい顔。才琉は真心から言っているように見える。
なんだか、くすぐったい。
気持ちを悟られたくなくて、あわてて理由を探す。
「それよりも、デートってなんですか。私そっちのほうが驚いたんですけど」
才琉はちいさく言葉に詰まり、目が泳いだ。
「――恩田さんが知りたかった答えは、オレとデートしてるときに思い出せるかも、って持ちかけようと思ってた。どう? いい案でしょ?」
才琉はまるで名案を披露した少年のように自信ありげな表情を見せた。
(そこまでして逃げなくてもいいのに)
そんな気一ミリもないくせに、簡単にデートしようと言えるなんて、才琉の男女の仲の礼節というネジは全て外れているらしい。光莉はそんな口先だけの躱し方にすら、勝手に悲喜交交いたってバカみたいではないか。
「それって色々ズルくないですか?」
「ズルでもいい。こんくらいやらなきゃ、絶対言えない」
「御手洗さんがお礼って言ってたのに」
「これはダメ。別料金が発生するタイプ」
無理に隠すと変にハードルが上がるだけだと思ったが、才琉は譲らない。光莉が難色を示しても承知してもどちらでも良さそうだ。それどころか、光莉を意志薄弱と考えているだろう。
もうすぐ教室だ。きっとタイムアップを狙っている。
だから光莉は選んだ。
「御手洗さんデートしましょう」
「…………デートのほう、選ぶと思ってなかった」
たじろぐ才琉を見て、光莉はカフェテリアでの言葉を思い出しながら言葉を紡いだ。
「つまり――貴方が気になるってことだよ」
夏至を目前にして、人生ではじめて光莉は勝負に出た。
次回更新は六月末の予定です。




