06-2
五月の日曜の昼だった。世間はゴールデンウィークで、今日以外の連休日は光莉はバイトの予定が入っていた。家で昼食を食べていた光莉は、井上からのメッセージに気づき緊急の用事だろうかと慌ててスマホを触る。
『いま何してる?』
(今? カレーを食べて、だらだらしてたけど……)
自分が何をしているのか。案外、人に説明するには難しい質問だ。
『今日は試験前なので勉強してます』
『勉強かー。よかったら教えてあげる。暇な時間教えて』
仕事とは関係がない内容のメッセージが、井上から届く頻度が増えた。そのどれも気さくな友達みたいな距離感の伝言だった。光莉は「バイトってそういうものなんだな」と少し悩んでから当たり障りのない返事をした。
『ありがとうございます。でも、友達たちと勉強の予定が入っているので大丈夫です』
嘘ではない。明日は朝シフト後に灯里や心晴と集まって女子会兼、勉強会をする予定だ。
『じゃあ、友達たちも呼んで一緒に勉強しよう』とメッセージが来たら、どう返答をしようと思ったがそれ以上、井上からの返事はなかった。
井上が「恩田さん」ではなく「光莉さん」と呼びはじめたのも五月だった。
六月末、井上が大学受験に備えるため退職すると知った。
「ジョージくん、一年間ありがとうねえ。すっごく助かってたよお。また食べに来てねえ」
「神田さんお世話になりました。こちらこそ、ありがとうございます」
「目の保養が〜。ジョー君、受験頑張って」
「俺のこと目の保養とかいうの、田沢さんくらいですよ。ありがとう頑張ります」
「キッチン仕事も教えた僕のことも忘れないでなー」
「忘れませんよ。シゴデキでカッコいい生田万さんみたいな男に俺もなりたいですから」
「ハハハ。相変わらず口がへらん奴だなー」
井上のバイトの最後日、シフトが被った光莉は、井上が異様に信頼を勝ち取っている様子に心のうちで驚愕していた。
自分が退職する日はここまで言われる存在になれるだろうか、という疑問と井上はここまで人に好かれる人物だったのか、という素直な驚きである。
光莉はこの頃になると、井上という存在をどう扱って良いのか分からず、薄っすらと苦手になっていた。
最初は気のせいかと考えたが、会話をするにも井上の目線は、光莉の胸部あたりに注がれていることが多くなり、呼び方も「光莉ちゃん」や「光莉」と呼ばれることもあった。
相変わらずメッセージは「暇なら会おう」と取れるような内容が、週に一度は送られてくる。
光莉が仕事に慣れるまで、根気よく良く指導してくれたことは確かだ。
それでも、最近のあのネットリとした視線が体を這うたびに、気味が悪いという感情が消えなくなった。井上の目はいつも光莉に何かを訴えている。
光莉は井上が退職すると聞いて、嬉しいという気持ちを一番に感じた。それが自分の醜さを露しているようで自己嫌悪に陥った。自分の知っている井上と、他の人が信頼している井上が別人みたいで誰にも言えなかった。
「ひかちゃんは何か無い?」
田沢の一言で、はっと我に返る。その場にいる全員の目線が光莉に集まっていた。
「……受験、がんばってください」
「ええ、それだけえ?」
「ひかちゃんは学校同じだから」
「それはそう。学校で会えるからなー」
周りは「出た恩田さんのぼんやり不思議ちゃんモード」と光莉を揶揄し場を収めようとした。
そのとき見えた井上の目は、笑っていなかった。
井上の退職日を乗り切った光莉は、自分の想像以上に参っていたことに気づいた。
もともと、学校で会うことがない関係だ。だから、光莉と井上の繋がりは無かったように、みるみる希薄になっていった
秋に入った。井上はグラシアスに訪れているらしい。
初夏ごろから毎日塾に通う井上の休憩時間と、光莉のバイトの時間は奇跡的に噛み合わず、光莉は田沢の噂でしか、井上の存在を知ることがなかった。
それでも、月に一度は井上からメッセージが届いた。「会おう」という言葉は見当たらない。「この分野は一年から勉強したほうが良い」と受験勉強に関することばかり書かれていた。
出会った頃の先輩と呼べる井上に戻ったようだった。だけど、心の何処かで、いつまたあの井上に変貌するのだろうと、光莉の内心は穏やかではなかった。




