第5話(前編)「一人で住む家」
昼過ぎ。
相談ブースへ案内された女性を見て、秋月耕助は少しだけ意外に思った。
三十五歳くらいだろうか。
落ち着いた紺色のスーツ。
姿勢が綺麗で、話し方にも無駄がない。
営業職か、管理職か。
そんな雰囲気があった。
「本日はよろしくお願いします」
女性は丁寧に頭を下げた。
「早瀬真理と申します」
秋月も名刺を差し出す。
「秋月です」
席へ着いた真理は、すぐにマンションの資料を取り出した。
「こちらの物件を検討しています」
差し出されたパンフレットを見て、秋月は小さく眉を動かす。
3LDK。
駅徒歩八分。
価格帯も高い。
典型的な“ファミリー向けマンション”だった。
「ご家族でお住まいになる予定ですか?」
秋月が確認すると、真理は静かに首を振った。
「一人で住みます」
相川澪が、近くのデスクで小さく目を丸くした。
秋月は資料へ目を落とす。
年収は十分高い。
勤務先も大手企業。
勤続年数も問題ない。
ただ。
「正直に申し上げます」
秋月は静かに言った。
「単身でファミリー向けマンションをご購入される場合、“投資目的”を疑われるケースがあります」
真理は黙って聞いている。
「住宅ローンは、“本人が住む”ことが前提です」
「そのため、審査は少し厳しくなると思います」
「それでも、審査を希望されますか?」
真理は迷わなかった。
「お願いします」
その声は静かだった。
だが、強かった。
週末。
真理は、一人でモデルルームを訪れていた。
駅から徒歩八分。
街路樹の整った静かな住宅街だった。
エントランスには落ち着いた音楽が流れ、ガラス越しに見えるラウンジには、上品そうな家具が並んでいる。
「こちら、3LDKのタイプになります」
営業担当の男性が、慣れた笑顔で案内する。
真理は静かにうなずいた。
リビングは広かった。
大きな窓から、午後の光が入ってくる。
「お子様二人くらいのご家庭を想定した間取りですね」
営業はパンフレットを開きながら説明する。
真理は、何も言わず部屋を見渡していた。
広すぎるとは思わなかった。
むしろ、不思議なくらい落ち着いた。
「……こちら、お一人でお住まい予定ですか?」
営業が、少し遠慮がちに聞く。
「はい」
一瞬だけ、営業の表情が止まった。
だが、すぐに営業用の笑顔へ戻る。
「最近は増えてますよ。女性お一人で購入される方も」
その“最近は”という言葉に、真理は少しだけ苦笑した。
営業に悪気はない。
ただ、“普通ではない”という空気は、どうしても混ざる。
真理は窓際へ歩いた。
バルコニーへ出る。
遠くに、夕方の街が見えた。
小さな公園。
スーパー。
帰宅する家族連れ。
洗濯物が揺れている。
その風景を見ながら、真理はふと思った。
こういう“普通”を、自分は持たなかったな、と。
二十三歳から働き続けた。
終電帰り。
休日出勤。
海外出張。
成果を出せば出すほど、次の仕事が増えた。
気づけば、仕事の予定だけで人生が埋まっていた。
それでも後悔はしていない。
仕事は好きだった。
自分で選んだ人生だった。
でも。
だからこそ。
最後に帰る場所くらい、自分で選びたかった。
真理は静かにリビングを見渡す。
大きなソファを置ける。
本棚も置ける。
休日に、コーヒーを飲みながら映画を見るのもいい。
誰かのためじゃない。
自分が安心して年を取っていくための場所。
そう考えた時。
初めて、“家が欲しい”と思ったのだった。
営業担当が、少し気を遣うように言う。
「こちらのマンション、管理体制かなり良いですよ」
「修繕積立金の計画もしっかりしてますし」
「単身女性のお客様にも人気あります」
真理は静かにうなずいた。
「だから、ここがいいんです」
営業は少し驚いた顔をした。
真理の言葉には、“憧れ”より、“覚悟”が混ざっていた。
結果は否決だった。
数日後。
秋月は電話で結果を伝えた。
「そうですか」
真理は、少しだけ沈黙した。
「分かりました」
それだけ言って、電話は終わった。
感情をぶつけるわけでもない。
理由を問い詰めるわけでもない。
静かな反応だった。
だが。
秋月には、その静けさの方が少し気になった。




