第10話(後編)「時間は戻らない」
数日後。
秋月はオガタ不動産を訪ねていた。
「珍しいですね」
尾方修一は少し驚いた顔をした。
「相談だ」
秋月は吉野の件を説明した。
尾方は途中から真顔になる。
「……かなり高く売ってますね」
「やっぱりそうか」
「普通に売ったら、残債かなり残ります」
尾方は資料を閉じた。
「正攻法じゃ無理です」
秋月は黙っていた。
「お前、何する気だ」
尾方は少し笑う。
「秋月さんは知らなくていいです」
短い沈黙。
「ただ」
尾方は静かに言った。
「若い奴の人生、これで終わるのは後味悪い」
秋月は何も言わなかった。
その夜。
尾方は事務所に一人残っていた。
時計は深夜一時を回っている。
古いスマホを取り出す。
しばらく画面を見つめたあと、電話を掛けた。
『……珍しいですね』
低い男の声。
『尾方さんが俺に連絡してくるとか』
「久しぶりです」
尾方は窓の外を見ながら言った。
「一件、買ってほしい物件がある」
電話の向こうで笑い声がした。
『また危ない橋ですか?』
尾方も少し笑った。
「昔よりマシですよ」
そこで電話は切れた。
数週間後。
吉野は再び相談ブースへ来ていた。
「……助かりました」
声が震えていた。
「住宅ローン、完済できました」
秋月は静かに頷いた。
「損失も……思ってたより少なく済みました」
吉野は目を赤くする。
「本当に……ありがとうございました」
深く頭を下げた。
秋月は静かに言う。
「私は何もしていません」
吉野は首を振った。
「尾方さん、すごかったです」
少し苦笑する。
「何したのか全然教えてくれませんでしたけど」
秋月は何も聞かなかった。
ただ。
尾方の疲れた顔だけは、頭に残っていた。
その日の夕方。
駅前の歩道で、吉野は偶然、茂本強を見つけた。
一瞬、頭が熱くなった。
土下座しろ。
そう思った。
お前のせいで、どれだけ苦しかったと思ってる。
眠れなかった。
会社でも笑えなかった。
人生が終わったと思った。
でも。
近づいてきた茂本は、以前よりずっと痩せて見えた。
「……吉野さん」
茂本は立ち止まる。
しばらく黙ったあと、深く頭を下げた。
「……すみませんでした」
吉野は、その頭を見下ろした。
謝れよ。
もっと謝れ。
そう思う。
土下座して謝れ。
そう言いたかった。
でも。
茂本は小さく言った。
「土下座して済むなら、いくらでもします。すみませんでした」
声が震えていた。
「でも……」
言葉が止まる。
「そんな事しても、吉野さんの苦しかった時間は戻らないですよね」
吉野は何も言えなかった。
茂本は続ける。
「俺、自分に都合いい言葉ばっかり使ってました」
『皆さんやってます』
『大丈夫です』
『将来のためです』
「……あんなの、俺が楽になる言葉だったのかもしれません」
吉野は、その顔を見た。
怒りは消えていない。
でも。
自分もまた、“近道”へ飛びついた。
それだけは事実だった。
夕方。
住宅ローン相談室。
相川澪が窓の外を見ながら言った。
「私だったら絶対騙されないです」
秋月が顔を上げる。
「……たぶん」
「この前、騙されかけてただろ」
相川は固まった。
「忘れてください!」
秋月は少し笑った。
閉店後。
誰もいなくなった相談室。
秋月耕助は、静かな窓口を見渡した。
今日もまた。
誰かの人生が、少しだけ傷つき、少しだけ前へ進んだ場所だった。




