第10話(前編)「皆さんやってます」
銀行からの封筒が、ポストへ入る音が怖くなった。
帰宅すると、最初にポストを見る。
白い封筒が入っていないか。
銀行名が書かれていないか。
確認して、何もないと少し安心する。
でも翌日には、また怖くなる。
吉野陸斗は、そんな日々を繰り返していた。
スマホを見る。
GAJアーバンス 茂本強
何度目か分からない発信。
呼び出し音。
出ない。
LINEも既読にならない。
「大丈夫って言ったじゃねえかよ……」
独り言が増えた。
会社でも集中できなかった。
パソコンの画面を見ていても、頭の中では別の言葉が回り続ける。
一括返済。
払えるわけがない。
通帳残高を何度も確認する。
当然、足りない。
夜も眠れなかった。
ベッドへ入っても、銀行から届いた文面が頭から離れない。
『契約内容について確認したい事項があります』
たったそれだけの文章なのに、心臓が冷たくなる。
会社の先輩へ相談しようとも思った。
でもやめた。
同じように投資マンションを買っている先輩もいる。
「え、お前バレたの?」
そう言われる気がした。
情けなかった。
楽して将来安心したかった。
家賃収入。
資産形成。
住宅ローン減税。
都合のいい言葉ばかり信じた。
机の引き出しを開ける。
一枚の名刺が入っていた。
秋月耕助。
住宅ローン相談室。
『借りられる額より、“返せる額”で考えてください』
相談ブースで言われた言葉を思い出す。
『家は、人生を苦しくするために買うものじゃありません』
吉野は目を閉じた。
「……行くか」
その声は、諦めに近かった。
冬の雨が降る夕方。
「秋月さん……」
相談ブースへ入ってきた吉野は、数か月前とは別人のような顔をしていた。
頬は痩せ、目の下には濃い隈ができている。
「どうしました」
秋月は静かに椅子を勧めた。
吉野は座ってもしばらく口を開かなかった。
「……相談があります」
秋月は急かさず待った。
「俺……」
吉野は俯く。
「あのマンション……住んでません」
静かな相談ブースに、その言葉だけが落ちた。
「最初だけです」
吉野は苦しそうに続けた。
「住民票も移して、ちょっとだけ荷物も入れて……」
拳を握り締める。
「でも、すぐ賃貸に出しました」
秋月は何も言わなかった。
「銀行から連絡が来たんです」
「……」
「居住実態の確認をしたいって」
吉野は力なく笑った。
「終わりましたよね、俺」
秋月は静かに水を差し出した。
「GAJアーバンスには?」
吉野は乾いた笑いを漏らした。
「何回も電話しました」
スマホの画面には、同じ番号への発信履歴が並んでいた。
「……出ないんです」
その声は、怒りよりも、置いて行かれた人間の声だった。
「俺、信じちゃったんですよ」
吉野は俯いたまま続ける。
「会社の先輩もやってたし、“皆やってます”って言われて」
少し間が空く。
「自分だけ損したくなかった」
秋月は静かに言った。
「住宅ローンは、“住む人”のための商品です」
吉野は何も言い返せなかった。
「銀行員としては、駄目です」
秋月は続ける。
「ただ」
一瞬、言葉が止まる。
「……まだ二十九なんだろ」
吉野は顔を上げた。
「ここで人生終わったみたいな顔するな」
その言葉に、吉野の目が赤くなった。
完結
住宅ローン相談室で働く銀行員・秋月耕助。
住宅購入、相続、投資マンション、夫婦のすれ違い――
住宅ローンの先にある「人生」を描いた連作短編でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




