第8話(前編)「収入合算」
「え、ええっとですね……収入合算というのは……」
相川澪の声が、相談ブースから漏れていた。
「はい、ご主人様の収入だけでは住宅ローンの返済比率が少し超えてしまう場合でも、奥様の収入を合算することで――」
一度止まる。
「えっと……あ、はい、“連帯債務”という形になりまして……」
その横を通りながら、秋月耕助は小さく笑った。
相川は受話器を押さえながら睨む。
「笑わないでください!」
「いや、頑張ってるなと思ってな」
「絶対思ってません!」
電話の向こうへ慌てて戻る。
「あ、申し訳ございません! 続けます!」
数分後。
電話を切った相川は、大きく息を吐いた。
「難しいです……収入合算」
「慣れれば簡単だ」
「秋月さん、さらっと言いますけど絶対難しいですって」
相川は資料を抱えながら言った。
「今度の日曜日、相談会に来られます」
「夫婦で?」
「はい。小さい赤ちゃんも一緒みたいです」
日曜日。
相談ブースへやってきたのは、三十代前半くらいの夫婦だった。
夫の名前は、川村健吾。
妻は、美咲。
そして、ベビーカーには小さな男の子。
ぐっすり眠っていた。
「かわいいですね」
相川が覗き込む。
「ありがとうございます」
美咲が優しく笑った。
「蒼太っていいます」
健吾が照れくさそうに言う。
「最近やっと夜寝るようになってくれて」
秋月は資料へ目を落とした。
希望物件は、新築マンション。
だが、健吾単独では返済比率が少し厳しい。
「収入合算なら、可能性はあります」
秋月が言うと、健吾は身を乗り出した。
「やっぱりそうですよね」
「ただ」
秋月は静かに続けた。
「収入合算は、“簡単に借りられる制度”ではありません」
「奥様には持ち分がありません」
「団体信用生命保険もありません」
「住宅ローン控除もありません」
健吾が首を傾げる。
「でも、書類とか少ないんですよね?」
「はい。源泉徴収票や本人確認書類程度です」
「じゃあ、そんな大変じゃ――」
「連帯債務者になります」
秋月は言葉を区切った。
「つまり、ご主人が返済できなくなった場合、奥様に返済義務が生じます」
相談ブースの空気が少し静かになる。
「例えば」
秋月は穏やかな口調のまま続けた。
「ご主人が突然いなくなったとします」
「夜逃げでも、駆け落ちでも」
「その時、“私は住宅ローン契約してません”は通りません」
美咲の表情が少し強張った。
健吾も黙る。
「収入合算は、“夫婦で借りる覚悟”が必要なんです」
それでも。
夫婦は申し込みを決めた。
審査は順調に進んだ。
勤務先。
年収。
返済比率。
大きな問題はない。
だが数日後。
審査部の甲田から連絡が入った。
『秋月さん』
「はい」
『奥様の雇用形態が分かる書類、追加でもらえます?』
「雇用形態ですか?」
『正社員でも派遣でも問題なさそうなんですけど、一応念のため』
秋月は少し不思議に思った。
たしか、美咲は正社員と言っていた。
後日提出された雇用契約書。
そこには、旧姓が書かれていた。
「……ん?」
秋月は目を止めた。
審査部で追加確認が行われた。
そして。
信用情報照会。
過去の借入。
延滞履歴。
完済済みではある。
だが、長期滞納歴が残っていた。
結果。
審査否決。
後日。
相談ブース。
「今回は、ご希望に沿う結果になりませんでした」
秋月は静かに頭を下げた。
健吾の顔が曇る。
「理由って……聞けないんですよね」
「申し訳ありません」
銀行は、審査理由を伝えない。
それ以上は言えなかった。
帰り際。
美咲はほとんど言葉を発しなかった。
数週間後。
他行で審査したらしいという話を相川が持ってきた。
「ご主人だけの単独なら減額承認だったみたいです」
「そうか」
「でも、ペアローンにしたら否決されたみたいで……」
秋月は小さく息を吐いた。
その頃。
川村夫婦は、激しくぶつかっていた。
「なんで黙ってたんだよ!」
健吾の声が、狭いアパートへ響く。
「ごめんなさい……」
「“ごめんなさい”じゃ分かんないだろ!」
「何かあるんだろ!?」
美咲はうつむいたまま、小さく首を振る。
「違うの……もう終わった話なの……」
「終わってないからこうなってるんだろ!」
蒼太が泣き出した。
美咲は慌てて抱き上げる。
「ごめん、ごめんね……」
その姿を見ながら、健吾は苛立ったまま言う。
「何の借金だったんだよ」
沈黙。
「……言えない」
「なんで?」
美咲は唇を噛んだ。
「昔……」
そこで言葉が止まる。
「昔、ちょっとお店の人に……」
「店?」
健吾が眉をひそめる。
「……ホスト」
空気が止まった。
美咲自身、言った瞬間に後悔したような顔をした。
「違うの……今みたいな感じじゃなくて……二十代の頃で……」
健吾は壁へ寄りかかった。
「……マジかよ」
「本当にごめんなさい……」
「なんで今まで黙ってたんだよ……」
その夜。
健吾は実家へ戻った。




