第7話(前編)「0.2%」
「金利って、少しでも低い方がいいですよね?」
相談ブースへ座るなり、男はそう言った。
三十代後編くらいだろうか。
日に焼けた顔。
引き締まった体。
いかにも健康そうな男だった。
「大林涼介です」
隣の女性も頭を下げる。
「妻の真奈です」
秋月も名刺を差し出した。
「秋月です」
資料を見る。
夫婦と、小さな娘が一人。
郊外の建売住宅。
借入額は、かなり大きい。
「この物件、本当に気に入ってるんですよ」
涼介は楽しそうに笑った。
「庭もあって、公園も近くて」
そう言って、スマートフォンを見せる。
小さな女の子が、公園で笑っている写真だった。
「娘の結菜が、走り回れる家にしたくて」
真奈も優しく笑う。
「今のアパート、狭いんです」
秋月は静かにうなずきながら資料を確認した。
返済比率は、かなり高めだった。
年収に対して、借入額が大きい。
だが、審査上は不可能ではない。
「金利を下げたいんです」
涼介が言った。
「団信の“がん100%保障”を外したら、0.2%下がりますよね?」
「はい」
「それでお願いします」
即答だった。
隣で、真奈が少しだけ視線を落とす。
「奥様は、どうお考えですか?」
秋月が尋ねると、真奈は控えめに言った。
「私は……つけておいた方が安心かなって」
「ほら」
涼介が苦笑する。
「こいつ、心配性なんですよ」
「でもさ、0.2%って結構大きいじゃないですか」
「月々も違うし」
「家計だって大変なんだから」
どこか、“自分が正しい”と信じている口調だった。
真奈は強く反論しない。
ただ、小さく唇を噛んでいた。
「それに」
涼介は続ける。
「俺、がんにならないと思うんですよね」
「運動してるし」
「毎日走ってるし」
笑いながら、自分の腹を軽く叩く。
「健康だけは自信あるんで」
秋月は静かに聞いていた。
「生命保険は加入されていますか?」
「あ、入ってます」
涼介はすぐ答えた。
「でも、それも見直そうと思ってるんですよ」
「会社に来てる保険会社のパンフレット見たら、今の半額くらいで済みそうで」
秋月は、少し嫌な予感がした。
「現在の保障内容、分かりますか?」
「えーっと……」
涼介はスマートフォンを取り出した。
「たしかアプリで見れたはず」
隣で真奈が呆れたように言う。
「あなた、自分が何の保険入ってるか、ちゃんと分かってないでしょ」
「いや、なんとなくは分かってるって」
画面を見ながら涼介が笑う。
「終身で、がん特約ついてるやつです」
「社会人になった時に、プッシュネット生命の営業の子にすすめられて」
「かわいい子だったんで、そのまま契約しました」
真奈が呆れた顔をする。
「もう……」
秋月は苦笑しながら思った。
この調子なら、住宅ローンも“なんとなく得そうだから”で決めかねない。
「生命保険も、見直し相談乗ってくださいよ」
涼介は軽い口調で言った。
「団信あるなら、生命保険ってそんな要らないですよね?」
「がん特約外したら、かなり安くなるし」
「俺、ほんと病気しないタイプなんで」
秋月は静かに資料を閉じた。
「大林さん」
「はい?」
「病気になる人は、みんなそう言います」
一瞬だけ、空気が止まった。
その後も、相談は続いた。
返済計画。
教育費。
今後の家計。
真奈は真剣に聞いていたが、涼介はどこか楽観的だった。
「なんとかなるでしょ」
その言葉を、何度も口にした。
そして。
「ちょっとトイレ行ってきます」
涼介が席を立った。
ドアが閉まる。
秋月は、真奈へ身を少し乗り出した。
「奥様」
「はい?」
「生命保険は、絶対に見直ししないでください」
真奈が目を丸くする。
「え……?」
「団信は、ご主人の希望どおり、がん保障なしで進めます」
「ですが、生命保険だけは残してください」
秋月は、できるだけ早口で言った。
「団信は住宅ローンを守るものです」
「生命保険は、ご家族の生活を守るものです」
「役割が違います」
真奈は、小さくうなずいた。
「……分かりました」
その直後。
「すいませーん」
涼介が戻ってきた。
「なんか俺の悪口言ってました?」
相変わらず明るい。
秋月は静かに笑った。
「いえ。ご主人は健康そうですね、という話です」
その後。
一般団信で契約は進み、無事に住宅ローンは承認された。
大林家は、小さな庭付きの一戸建てへ引っ越した。
春には庭へ小さな花壇を作った。
夏にはビニールプールを出した。
休日になると、涼介は結菜を肩車して近所を歩いた。
真奈が撮った写真には、いつも笑顔の家族が写っていた。
涼介は毎朝ランニングを欠かさなかった。
夜はビールを一本だけ。
「健康には気を使ってるから」
それが口癖だった。
引っ越しから一年後。
会社の健康診断で、胃に影が見つかった。
「まあ大丈夫でしょ」
涼介は笑っていた。
「再検査って、だいたい何もないし」
だが。
精密検査の結果。
悪性新生物。
胃がんだった。
涼介は、診察室で医師の説明を聞きながら、最初こう思った。
――なんだ。がんか。
その瞬間までは、どこか他人事だった。
だが。
「手術が必要です」
「抗がん剤治療も行います」
「しばらく仕事は難しいでしょう」
その言葉で、現実が一気に押し寄せてきた。




