第6話(前編)「借りられる額」
土曜日の午後。
相談ブースへ入ってきた若い夫婦を見て、秋月耕助は少しだけ微笑んだ。
二人とも、まだ二十代後半くらいだろう。
どこか初々しい空気がある。
「本日はよろしくお願いします」
夫が頭を下げた。
「清野悠真です」
「妻の美咲です」
秋月も名刺を差し出す。
「秋月です」
席へ着くと、美咲がすぐに住宅会社のパンフレットを広げた。
「実は、もう他の銀行で事前審査は通ってるんです」
悠真が言う。
「でも、住宅会社の営業さんに、“他の銀行も比較した方がいい”って言われて」
「なるほど」
秋月は資料へ目を落とした。
注文住宅。
郊外の新興住宅地。
建物価格は、かなり高めだった。
「他行では、どのくらいの借入額でしたか?」
悠真が少し嬉しそうに答える。
「満額です」
「僕らが希望してた額、そのまま借りられるって」
美咲も笑顔だった。
「なので、これで家を建てようと思ってるんです」
秋月は静かにうなずく。
若い夫婦らしい、まっすぐな喜び方だった。
夢を現実にできる。
そんな高揚感が、二人から伝わってくる。
秋月は、収入資料を確認していく。
夫婦とも会社員。
勤務先も問題ない。
年収も若い世代としては悪くない。
ただ。
「失礼ですが」
秋月は顔を上げた。
「奨学金は、お二人とも返済中ですか?」
二人が同時に「あ」と声を漏らした。
「はい」
悠真が少し苦笑する。
「僕が月二万円」
「私は一万五千円です」
美咲も続けた。
「でも、他の銀行さんは“奨学金は返済比率に入れなくていい”って」
「だから問題ないって言われました」
秋月は静かに資料を閉じた。
「確かに、銀行によって考え方は違います」
「うちの銀行も同様です。奨学金は返済比率に入れません」
「ただ、毎月返済している事実は変わりません」
二人の表情が少しだけ曇る。
秋月は、電卓を叩いた。
返済額。
教育費。
固定資産税。
火災保険。
将来の修繕費。
車を買い替える可能性。
それらを一つずつ積み上げていく。
「お子さんの予定は?」
美咲が少し照れたように笑う。
「できれば、二人くらいは」
「なるほど」
秋月は静かに数字を書き込んでいく。
「保育園」
「習い事」
「スマートフォン代」
「高校、大学」
「これから先は、“教育費をどう準備するか”も大事になります」
そして、紙を二人へ向けた。
「私なら、このくらいの借入額をご提案します」
金額を見た瞬間。
二人の表情が変わった。
他行より、かなり少ない。
「……え?」
悠真が思わず声を漏らす。
「こんなに違うんですか?」
「はい」
秋月は静かに答えた。
「“借りられる額”ではなく、“返し続けられる額”が大事だからです」
相談ブースに、少し重い空気が流れた。
美咲が、小さくパンフレットを閉じる。
「……すみません」
悠真が立ち上がりかける。
「やっぱり、他の銀行でお願いしようと思います」
「清野さん」
秋月は静かに呼び止めた。
二人が振り返る。
「少しだけ、お時間いただけませんか」
二人は、もう一度席へ座った。
秋月は、急かすような口調ではなく、静かに話し始めた。
「私は、“借りること”を止めたいわけではありません」
「むしろ、家を持つことは素晴らしいことだと思っています」
悠真と美咲は黙って聞いている。
「ただ」
秋月は続けた。
「住宅ローンは、三十五年続く契約です」
「今、大丈夫でも、“ずっと大丈夫”とは限りません」
秋月は、一枚の紙へ数字を書いた。
「例えば、ご主人が病気になって休職した場合」
「例えば、奥様が出産後、一時的に収入が減った場合」
「例えば、どちらかの親御さんに介護が必要になった場合」
二人は黙っている。
「人生って、予定通りにはいきません」
「でも、住宅ローンの返済は毎月来ます」
秋月は静かに続ける。
「だから私は、“少し余裕を残す”ことが大事だと思っています」
美咲が、小さくつぶやいた。
「でも……せっかくなら、良い家に住みたいって思ってしまって」
「それは自然なことです」
秋月はうなずいた。
「家は、人生で一番高い買い物ですから」
「営業担当も、“今しかない金利です”って」
悠真が苦笑する。
「“皆さんこのくらい借りてます”とも言われました」
秋月は少しだけ笑った。
「その“皆さん”が、三十五年後も全員幸せかは分かりません」
二人が顔を上げる。
「住宅ローンは、“通った”ことがゴールじゃないんです」
「払い終わった時、“借りてよかった”と思えることが大事なんです」
静かな沈黙が流れる。
秋月は続けた。
「教育費もあります」
「保育園」
「習い事」
「大学まで行けば、もっとお金が必要になる」
「もちろん、奨学金を借りるという選択肢もあります」
その瞬間。
二人の表情が、ほんの少しだけ変わった。
秋月は、その変化を見逃さなかった。
「……お二人とも」
「大学時代、お金で苦労されましたか?」
しばらく沈黙が流れる。
先に口を開いたのは、美咲だった。
「しました」
小さな声だった。
「うちは母子家庭だったので」
「大学行くなら、自分で借りなさいって」
悠真も苦笑する。
「僕もです」
「夜、居酒屋でバイトして」
「朝、一限出て、そのまま寝たり」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
「大学の学食で、一番安いうどんばっか食べてました」
美咲が懐かしそうに言う。
「分かる」
悠真も笑った。
「あと、給料日前になると、“今日は百円で過ごそう”とか」
「やってたねぇ」
二人の空気が、少しずつ柔らかくなっていく。




