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10、月灯り図書館

 遅めの昼食を終え、透真は図書館に戻った。

 湖が一望できる明るい月光食堂と違い、木々に囲まれた図書館は薄暗い。ドアに掛けた「休憩中」の札を「開館中」に変更する。


 ――月灯りのもとで読書をするという話があったでしょう? だから図書館は月灯り、食堂は足下を照らす月光を名前に使おうと思うのよ。


 祖母の提案から、彼女が経営する食堂と祖父が運営する図書館は寄り添うように営業を始めた。

 ウィリディタス修道院が母体である療養院に近いこともあり、図書館と食堂の立ち上げには当時の修道女たちが尽力してくれたらしい。


 大人になった今思えば、苦労して勉学したり読書をするのは蛍の光や、窓の雪だと分かる。

 祖母の勘違いから名づけられた図書館だが、当時の祖父も分かっていて敢えて「月灯り」を大事にしたのだろう。


 本の匂いに満ちた書架を眺めつつ、透真は進んだ。自分自身が配架ミスをしていないか、利用者が一度手に取った本を間違った場所に戻していないか確認しながら。

 自分が間違えた場合は、たとえば分類番号の数字の読み違えだ。


 祖父が館長をしていた頃は、分類記号が手書きのこともあり数字の「1」と「7」、カタカナの「ワ」と「ク」を見間違えることがある。


 利用者が適当に書架に戻した場合も、ある程度想像がつきやすい。まったく関係のない棚に戻された場合でも、戻しやすい位置というのがある。

 低すぎず、高すぎず。狭い奥の通路ではなく、広い通路の書架。そして本は左側から詰めておくと決まっている。つまり、棚の右側にスペースがあるのでその辺りに目星をつけていけばいい。


 これらは祖父から教わったことだ。大学で司書の資格を取った時には教わっていない実務の範疇だ。


 今は来館者がいないのもあるが、人がいても図書館の中は常に静かだ。透真が本を抜き差しする音と、窓の外から聞こえる鳥の声がする程度。


「琴音さんは静かなのに、月光食堂はにぎやかですよ」


 自分の他には誰もいないのに、透真は話しかけるように言った。

 おそらくそれは祖母に、だ。病床の祖母は最期まで月光食堂のことを気にかけていた。

 守れなかった約束があるのだ、と。


「月光食堂の再開の約束は果たせました。おばあちゃん、あなたの代わりにぼくがもう一つの約束を果たしてもいいですよね?」


 アロハシャツのポケットに入れているスマホが震えた。来館者がいないので、透真は館内で電話を取る。


『今、大丈夫かな。透真くん』

「はい、大丈夫です。すみません、知夏さん。いろいろとお願いをしてしまって」


 ついクセで、自然と声を落としてしまう。


『ああ、いいのいいの。こっちにもメリットはあるからね。けど、車で行くから帰りはどうしたものかなぁ。明日は月光食堂もうちもお休みだし、わざわざバスに乗って車だけ取りに行くのもなぁ。運転代行を頼んだらいいのかなぁ』


 そもそもお酒を飲まなければいいのでは? と言いかけた言葉をぐっと呑み込む。

 子供の頃は元気いっぱいでサイダーが大好きだった知夏も、今では「炭酸? ハイボールかな。あ、でもジンフィズもいいよね」と言う始末だ。むしろ彼女の兄よりも酒に強い。


 最近、知夏は婚約を破棄されたとのことだが。それにしては声が明るい気がする。

 結婚前に破談になる――描いていたはずの将来が、すべて霧散する。それは相当つらいことのように思えるのだが。


『透真くん、どうかしたの?』

「いえ、知夏さんが空元気でなければいいなと思いまして」


 しばしの沈黙。透真は手にしていた本を棚に差し込んだ。


『うん。昔だったら空元気だったかもね……でもね、今は違うよ。透真くんのアロハが、あたしにとっての月光食堂かも』

「琴音さんですか?」

『そう。元カレと付き合ってたあたしは、やっぱり無理してた。キレイ売りっていうの?』


 キレイ売り? 聞いたこともない。


『あいつの望むようにふるまって、あいつの望むような返事をして。お酒もあいつの前では控えめにしてた。本当はザルだから、いくらだって飲めるのにね』


 窮屈だったのだ、と知夏は声を低くした。その窮屈でキレイな自分が、五十年以上も続くのかと思うとぞっとした、と。


『新しい彼女が本当に清楚で、守ってあげたいタイプかどうかは分からないよ。やっぱりキレイ売りしてるかもしれない。だって、そうじゃないとあいつに嫌われるから』


 なるほど、色々あるのだろう。電話を終えた透真は、あごに手を添えて考え込んだ。


 透真自身は恋愛をほとんどしたことがない。

 言い寄られることは何度かあったが、結局付き合うことはなかった。両親からは早く身を固めろとせっつかれていたが、知夏の言う通り五十年も共に暮らせる相手かどうかと考えると……誰でもいいわけではない。

 周囲を安心させるための結婚は、果たして自分たちにとって幸せなのかどうか。


 透真の家は、外から見ればこれといった問題はなかったように思う。だが、居心地は悪かった。おそらく父と母の間に打ち解けた会話がなかったのが原因かもしれない。


 父は毎日深夜に帰宅し、母は習い事に出かけてばかりだった。

 だからだろう、透真は長期の休みになれば三日月町で暮らす祖父母をよく訪ねていた。


 図書館にいる祖父と月光食堂にいる祖母。近い場所なのに、べったりと寄りそう訳ではなく。それぞれが自分の大事な居場所を持っている。

 透真にとって祖父母は理想の関係だった。


『透真、これを着てごらん』


 本の中に逃げこんでいた幼い透真に、祖父はアロハシャツを贈ってくれた。

 パイナップルがたくさん描かれた小さなシャツは、母が絶対に選ばない柄だった。


 なぜだろう。着るものが変わっただけで足取りが軽くなる。両親は口喧嘩をするわけではないのに家の中はじっとりと空気が重くて。

 なのに、祖父が選んでくれたアロハシャツを着て、図書館で本を読んでいる時。月光食堂で祖母が作ってくれたおにぎりを食べる時。まるで魔法にかかったように透真は羽ばたくことができた。


 大人になってから気づいた。月灯り図書館と月光食堂に自分は癒されたが、他の人もそうなのではないか。

 だとしたらこの場所は残していかなければならない。


 透真は、壁際のカードボックスに目を向けた。小さな引き出しがずらりと並んだ棚には、カード目録が収められている。


 今ならばパソコンで検索できる蔵書も、かつてはカード目録で探していた。

 カード一枚一枚に書名と著者名、配架の位置を示す所在番号などが記載されている。


 祖父が一枚ずつ手書きで記していったものだ。もうカード目録を使うことはないが、透真は廃棄せずにそのまま置き続けている。

 アロハシャツの背を少し丸めて、老眼鏡を何度もかけ直しながら祖父は本の住所を与えてあげるべく、カード目録を作成していた。


 透真自身は本ではないが、この図書館にいていいのだと祖父に居場所を与えられたのだろう。


 ぎぃっと軋む音がして、扉が開いた。療養院に入院している子が、両親と共に図書館に入ってくる。


「こんにちは」


 透真は午後初めての来館者を迎えた。


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