6、愛玉子
月光食堂の休店日に、琴音は市場に行った。
しかも自分の運転だ。ペーパードライバーなので怖いけれど、魚を直に目で見て仕入れてみたいのだ。
店で必要な調味料などは、麓のスーパーに買い出しに行っている。荷物が重い時は配送を頼むので、ふだん琴音はバスで出かけていた。
今回は療養院が所有する車を貸してもらえることになっていたけれど。前日にそのことを知った知夏が「うちの車を使えばいいよ。あたしもついて行くし」と提案してくれた。
「申し出はすごく有り難いのですが。軽トラですか?」
「まっさかー。軽四だよ? さすがに軽トラは慣れない琴音ちゃんには無理でしょ」
確かに知夏の言うとおりだ。
婚約を破棄されて、沈んでいるかと思ったのに。知夏はなぜかうきうきとしている。
そして金曜。イダ・ファームとロゴの入った軽自動車が、月光食堂の前に乗りつけた。アイスブルーの淡い色がとても愛らしい。
「わぁ、かわいい車ですね」
「でしょ? 農園の名前がなければ、もっといいんだけど」
琴音は大きなクーラーボックスを、車の後ろに載せた。運転は二日ぶりだ。といっても、修道院の伝手で借りた車で三日月湖の湖岸道路を何週かしただけ。
市街地の運転は、営業事務の頃に用事で出かける時に社用車をしたっきり。
「大丈夫。あの頃は少しは街中を運転できてたし」
自分に自信をつけるために、琴音はくり返し呟いた。
バスや車は、この辺りもよく通っている。しかも意外と自転車も多い。それもロードバイクなどの速度が出るタイプだ。
街中で運転する場合は、他の自動車、歩行者の外にも自転車にも気を付けなければならない。車道を自転車が逆走していることも有るし、ふらふらと走っている自転車もあるからだ。
「さぁ、行きますか。琴音ちゃんは見るからに安全運転のタイプだから大丈夫でしょ」
気軽に言って、知夏は助手席に乗った。
月光食堂のある三日月町から、海辺の市場までは車で二十分。バスなら、遠回りになるので四十分近くかかるだろうか。
ハンドルにしがみついた琴音には、緊張に次ぐ緊張の時間であった。
山を下りるまではカーブが多い。とにかく多い。しかも――
「な……なんで、スケボーで山道を下っている人がいるんですか?」
「ダウンヒルってやつかな。速いよねー」
琴音たちの車の前を、矢のように飛んでいくスケートボードに乗った男性が二人。ヘルメットをかぶっているが、とんでもないスピードだ。
緑滴るのどかな山道じゃなかったの? 琴音は「ひー」と悲鳴を呑みこみながら、ハンドルにかじりついた。
かろうじて昔のカンを取り戻した琴音は、海辺の市場にたどり着いた。
「……すごい。右折を避けまくって運転ってできるんだね。カーナビもあれだけ無視されたら、困ってたね」
知夏の口調は褒めていない、明らかに呆れている。けれどどこか楽しそうだ。
ふられた傷は、琴音と話している時は忘れていられるようだ。
「右折はいつまで経っても慣れないんです」
何度も切り返して、ようやく琴音は駐車した。競りのある早朝なら、邪魔なことこの上ないだろう。
漁港や市場といっても、小さなものだ。それでも港には漁船が十隻以上も係留してあるし、カモメも飛んでいる。
むわっとした海の匂いを強く感じた。
琴音は水の近くで暮らしているのだが、三日月湖は水がとても澄んでいるので棲息している魚の数は多くないし、藻も少ない。だからだろうか、三日月湖はあまり匂いがしない。
「市場の中に鮮魚店があるんですよ。ふだんは月光食堂に運んでもらっているんです」
「うちのイダ・ファームと一緒だね」
知夏の農園も直に買い付けに来る人と、月光食堂のように搬入する得意先とがあるらしい。
競りの時間が終わり、片づけの終わった市場は静かだった。だが、魚の濃密な匂いが残っている。床は湿っていて、岸壁に面した部分は柱と天井だけで大きく開けていた。トロ箱に入った魚が、早朝にはずらりと並んでいたのだろう。
琴音は知りあいの鮮魚店に向かい、挨拶をした。そして知夏のことも紹介する。
「おや、月光食堂さん。どうしたんだい。今日はお休みじゃなかったっけ」
鮮魚店のおばさんが、奥にいる男性に「月光食堂さんがいらしたよー」と声をかける。魚を持ってきてくれるおじさんだ。
重いトロ箱を運ぶからだろうか、年の割に二の腕の筋肉が眩しい。
「いらっしゃい、飴山さん」
「オイルサーディンを作りたいと思いまして。魚を見せていただけますか?」
「洒落たもんをこしらえるなぁ。となると……サーディンって鰯か? あれって缶詰じゃなかったっけ」
おじさんはキャップをかぶり直しながら、おばさんに確認する。
オイルサーディンは缶詰のイメージが強いが、手作りすることができる。
新鮮な鰯を手開きして――といっても最初は包丁を使うのだが、頭と内臓を外した後は指で開いて中骨を外していく。
その後、鰯を塩水に浸しておく。水気をよく切ってから、フライパンに並べてオリーブオイルをひたひたになるまで注ぐ。
あとはニンニクやとうがらしにローリエ、粒こしょうとハーブのタイムを入れて、ごく弱火で加熱する。
オイルにつけたままで清潔な瓶で保存ができるので、作るのは手間だが重宝だ。
「バゲットに載せるとおいしいんですよ」
「あ、いいね。アペロに出してくれるんだ」
「はい。食べごろになったら、お伝えしますね」と、琴音は知夏に答えた。
「仲良しだねぇ、姉さんたち」と、奥からおばさんが声をかけてくる。
見せてくれた鰯は、氷の上に並べられて新鮮だ。
改めて「仲良し」と言われると、ちょっと照れくさい。もともと琴音は友人が少ない、というかほとんどいないし。知夏もあまり友達の話はしない。
たぶん二人とも女性のグループにいたら、浮いてしまう。
琴音は学生の頃から、修道院育ちということで疎外感を覚えていた。皆が、琴音を遠巻きにするのだ。
意地悪されるわけではない。ただ、きらきらして楽しそうな女の子たちの話題についていくことができなかった。会話に入ることが難しかったのだ。
もし見当違いなことを言って、場が冷めてしまったらどうしよう。そんな不安が先に立ち、集団の中で見えない壁を作ってしまっていた。
「琴音ちゃんといると、楽しいですよ。知識も豊富だし、なにより冒険心があるので話が弾みます」
え? 楽しいの?
琴音は、知夏の発言に目を丸くした。
「あと、琴音ちゃんは左折の達人です」
「なに? それ」と、おばさんが笑う。
朗らかな知夏の笑顔に、琴音は戸惑ったままだ。でも、胸が暖かくなる戸惑いだった。
「そういえば先代の店主も、時々買い付けに来てくれてたけど。お連れさんと一緒だったことがあったねぇ。ね、あんた?」
「そうだなぁ」と、鰯を氷と一緒にビニール袋に詰めながら、おじさんが天井に目を向けた。
「娘さんですかって訊いたら『娘みたいなものです』って答えてたから。姪っ子さんだったのかねぇ。はい、おまけも入れといたよ」
ずっしりと重い袋を琴音は受けとった。
「帰る前にちょっとお茶していこうか」
「いいんですか? 街に来ることってほとんどないから楽しみです」
魚市場を出た知夏に誘われた琴音は、車に積んでいた発泡スチロールの箱に氷ごと鰯を入れた。
びっしりと氷を詰めてあるし、車も日陰に駐車しているので少しの時間なら問題ない。
「こっちにね、面白い店があるのよ」
カフェにでも行くのかと思ったが、そうではなかった。魚市場から道路を挟んだ向かいに建つ木造の古い店を、知夏は指さした。
農作業で日焼けをしているのに――いや、だから余計にだろうか、知夏は黒い日傘を差している。
店には「愛玉子」と書かれた暖簾が掛かっている。道を渡ると、平日の午前ということもあり店内にに客はいなかった。
「あいぎょくし、って何ですか?」
琴音は隣に立つ知夏に尋ねた。
「オーギョーチって読むのよ。台湾のデザートね。聡と台湾に行ったときに……あ、思い出したらムカついてきた」
聡というのが知夏をふった元カレの名前らしい。日傘を持つ手が小刻みに震えている。あえて尋ねることはできないが、おそらく一緒に台湾旅行に行ったときには、すでに「本気」という名の浮気をされていたのだろう。
「でもま、いっか。奴が自分で決断したことだもんね」
知夏の怒りに火がついたのは一瞬だった。
「何かあったんですか?」
「ん? まだ特に何もないけど。この先が楽しみってだけよ、悪い意味でね」
「いらっしゃいませ」を意味する「歓迎光臨」の声が、知夏の企んでいそうな言葉に重なった。
外が明るすぎるせいで、店内はより暗く見える。
「うちは本物の愛玉しか使ってないよ。はい、どうぞ」
メニューも一品だけなのだろう。注文していないのに、琴音たちが座った席にガラスの器が運ばれてきた。
「これがオーギョーチですか? ゼリーみたいです」
「ゼリーだけど、ゼラチンも寒天も使ってないのよ。本物はね」
知夏に勧められて、琴音は「いただきます」と告げ、愛玉子をスプーンですくった。琥珀色の塊がぷるぷるしている。
口に運ぶと、まずレモンとシロップの甘酸っぱさが広がる。そしてとても柔らかい。
「噛む必要がないくらいです」
「でしょ。偽物はね、こんなに柔らかくないの。ふつうのゼリーみたいに弾力があるのよね」
なるほど、と頷きながら琴音は食べ進める。
三日月湖周辺よりも、気温は五、六度は高い気がする。海に面した場所なので湿度も高く、蒸し暑い。台湾も南国であり湿度も高いそうだから、レモン味のさっぱりとした愛玉子は人気も高いだろう。
「ほら、これが愛玉。中国語なら『アイユィ』だね。この中の種をガーゼに入れて、水の中で揉むんだ。火を入れなくてもそのままで固まるんだよ」
おかみさんが見せてくれた愛玉は、外見はパッションフルーツに似ていた。中は無花果の種のように、びっしりと茶色い粒が詰まっている。
火を入れなくても、鍋いっぱいのゼリーができあがるなんて素敵だ。
「とてもおいしいです」
「でしょ。気に入ってもらえてよかったぁ。中華のチェーン店にもデザートとしておいてあるけど、あたしはここのが好きなんだ」
琴音のスプーンが止まらないのを、知夏は楽しそうに眺めていた。
「知夏さん」
「ん?」
ぽつりと呟いた琴音に、知夏は顔を上げた。
確かに笑顔なのだ、知夏は。けれどどこか無理をして笑っているように見える。
恋人に選ばれていたはずの知夏は、かかっていた梯子を外されたようなものだ。どんなに本人が気丈に振る舞おうとも、先の展開が見えない状態では、委縮してしまうに違いない。
「無理をしないでください」
言葉を選ぶほどの余裕は、琴音にはない。だから思ったままを伝える。
「わたし、知夏さんといます。邪魔って思われないなら、なんですけど。これからも知夏さんの側にいて、本当の笑顔になれるまでずっといます」
勢いで言ってしまってから、琴音ははっとした。
どうしよう。これってむしろ迷惑なのでは?
沈黙が怖い。店の外の道路を往来する車の音が、やけに大きく聞こえた。
「本当の笑顔になれるまでって、それは違うよ。琴音ちゃん」
ああ、やっぱりわたしは間違えてしまったのだろうか。まるで自分の存在に価値があるかのように話してしまった。もし時間を戻せるのなら、さっきの発言を取り消したい。
琴音のうなじを冷たい汗が伝った。
「なれるまで、じゃなくて。あたしが本当の笑顔になってからも、ずっと一緒にいてほしいの」
「……知夏さん」
「これはあたしの我儘。だから、琴音ちゃんは選んでいいよ。『なるまで』か『なってからも』か」
知夏は緊張しているのだろうか。声が掠れている。
「本当の笑顔になってからもずっと、に決まってます!」
琴音は古く小さいテーブルに両手をついて、立ち上がった。
「あらあら、元気なお客さんだねぇ」と店内から声が聞こえた。




