7、透真の手
月光食堂に戻った琴音は知夏と別れ、キッチンに入り急いで鰯を調理した。保冷ケースの中は、びっくりするくらい冷たい。これなら鮮度は大丈夫だ。
鉄フライパンを用意して、ひたひたのオリーブオイルで鰯を煮る。揚げるのではなく、ごく弱火なので煮るという表現が合っている。
「魚の匂いがします」
そう言いながら店に入ってきたのは透真だった。今日は月光食堂は休みなので、通りがかりに立ち寄ったようだ。
琴音は手を拭きながら、透真のいるがらんとした客席へと向かった。
「知夏さんと一緒に魚市場に行ったんですよ。彼女はお酒のおつまみにするって、イカの塩辛とか買ってましたよ」
さすがに知夏に「左折の達人」と言われたことは、透真には黙っていよう。
「で? 運転はどうでした?」
うっ。訊かれたくないところを突かれてしまった。月光食堂と月灯り図書館は近いので、琴音が運転しているところも窓から見えたのだろう。
「まぁ、無事に……戻ってきました、よ」
琴音は透真から目を逸らしながら答えた。
車線変更の時に慎重に確認しすぎて、逆に怖いとか。ゆっくりすぎて、それも怖いとか。知夏には散々怖がられたが。それでも「また行こうね。運転も慣れるからさ」と言ってくれたのは、助かった。
「そうそう。琴音さんがお尋ねの『えんにち』の絵本ですが。うちの蔵書でしたが、三十年以上前に廃棄扱いになっています」
「廃棄ですか?」
琴音の問いに、透真がうなずいた。
「実際は捨ててしまわずに、再利用本――いわゆるリサイクル本としてしたのでしょう。ラベルや蔵書印がマジックで消されていましたからね」
「あの、月光食堂の先代って……透真さんのおばあさまですよね?」
「はい。言っていませんでしたか?」
意外そうな口調だ。透真の中では伝えたつもりになっていたのだろう。
「図書館の先代の館長は祖父だったのですが。だとしたら妙ですね。『えんにち』は古い絵本です。出版年は確か――」
琴音はキッチンに向かい吊戸棚から黒い表紙の絵本を取り出した。1973年発行と記されている。 そして月刊「こどものとも」と。
「これは定期購読の月刊誌ですね。毎月、絵本が届くんです。その一冊ですね。昔は、うちの図書館でも購入していたようです」
透真によれば、百花が気に入っていた『やっぱりおおかみ』も、同じ月刊誌であったらしい。ただ『やっぱりおおかみ』と違い、月灯り図書館ではちゃんとした絵本として製本された『えんにち』を購入していなかったようだ。
透真の祖母が人にあげたものなら、どうしてこの月光食堂に絵本が残っているのだろう。それとも結局、あげることができなかったのか。
気にはなったが『えんにち』がここに、写真と一緒にあることに意味があるように感じた。
「何か落ちていますよ」
失礼します、と言いながら透真がキッチンへと向かう。
床に落ちていたのは二枚の写真だった。ノートに挟み直したとばかり思っていたが、琴音はどうやら絵本に挟んで吊戸棚に戻していたらしい。
さっき絵本を取り出した時に、落ちてしまったのだろう。
写真を拾った透真が、縁日を背景に写っている女性をじっと見つめる。
「……マナさん」
ぎりぎり言葉として聞こえる程度の、息にも似た声を透真は発した。
まるで時が止まってしまったかのように、透真は佇んだままだった。そうしてようやく、もう一枚の子供たちが写っている方に目を向けた。
「ああ、これは知夏さんとお兄さん、そして亡くなったお母さんですね」
捕虫網と虫かごを持つ幼い兄妹の写真を見て、透真はそう告げた。さっきとは違う明るい声だ。どこかほっとしたような表情のように、琴音には思えた。
「この子、知夏さんなんですか?」
「はい。かつての月光食堂に野菜を届けてくれていたのが、知夏さんのお母さんなんです。ぼくも子供の頃に、祖父や祖母を訪ねてこちらに来ることが多かったので。よく覚えています」
懐かしそうに透真は目を細めた。
イダ・ファームを継いだのが知夏で、兄は東京の会社に勤めているという。
虫捕りが好きだった兄は、いつしか虫そのものも草や土も嫌うようになったのだそうだ。
母親も亡くなり、父一人では野菜を作るのも大儀になってきた。そもそも野菜の価格は安定せず、豊作であれば値崩れをしないように野菜を廃棄しなければならない。
跡継ぎもおらず、父親は農園を閉じようと考えていたようだ。
だが、知夏は反対した。勤めていた会社を辞め、イダ・ファームの存続を真剣に考えたらしい。
「そこで知夏さんが目を付けたのが、希少野菜です」
白い人参に似たパースニップ、チコリともいうアンディーブに大きな蕾のアーティチョーク。
「月光食堂も閉じていたので、知夏さんは最初は道の駅で希少野菜を売っていたようです。ですが、素人では見たこともない野菜をどう食べたらいいか分からない。つまり買ってもらえなかったようです」
琴音は、写真の幼い知夏に視線を落とした。
お母さんがいてお兄さんがいて、当たり前にイダ・ファームが家業として成り立っていた頃。家族が欠ける未来など、考えるはずもない明るい笑顔だ。
「希少野菜でしたら、知夏さんはレストランに直接売り込みに行ったんでしょうか?」
スーパーでも道の駅でも買ってもらえない野菜。けれど、正しい場所で売れば正当な値段で買ってもらえる。しかも一度きりではない、ずっと仕入れてくれる。
「はい。車に野菜を積んで、あちこちの店を回ったようです。最初はかなり苦労したようですよ」
透真の言葉の重みに、琴音は気づいた。
会社の営業でも大変なのに、知夏の家は個人経営の農園だ。販路は自分で切り拓かねばならず、電話をしてレストランを訪問しても何度も何度も断られただろう。
――うちの野菜は食べてくれたら、よさが分かるんだけど。でも、まず食べてもらうまでが難しい。
イダ・ファームの経営が安定するまで、知夏はどれほど挑戦をくり返しただろう。
「知夏さんの努力と、他に希少野菜を作る農園がなかったのも幸いしたのでしょうね。今では卸し先の販路も広がり、イダ・ファームに直接仕入れに来る人も増えたそうです」
「うちのお客さんも、知夏さんのところに野菜を買いに行っているそうです」
婚約者は知夏を選ばなかった。けれどそれ以外の人たちは、知夏こそが素晴らしいのだと分かっている。
彼女の努力と真摯な生き方。婚約者につけられた傷は深く、きっと知夏の中でいつまでも存在し続けるだろう。
笑顔の裏で、知夏は今も枕を涙で濡らしているかもしれない。
それでも、不当に扱われた傷はいつしか光を宿すに違いない。時間はかかるだろうけれど、琴音はその日を待ち続けたいと思った。
「月光食堂で、琴音さんがおいしい料理を出してくださっているからこそですね。ある意味、イダ・ファームの広報活動になっているかもしれませんよ」
ふと、透真が手を伸ばした。だが、その手は宙で止まってしまった。
琴音の視界に透真の長い指が映る。
「あの、透真さん。どうかしましたか?」
「いえ、いけませんね。琴音さんは立派な大人なのですから、この手はなかったことにしましょう」
意図の酌めない返事だ。だが琴音は「そうですか」と引き下がってはいけないような気がした。
「なかったことにならなければ、その手はどうなるんですか?」
「え? そこを突っこむんですか?」
透真の声が上ずっている、珍しい。そして動かされないままの手を、琴音はじっと見上げた。
「えーとですね。その、ぼくが子供の時は、祖父が褒めてくれると頭を撫でてくれたんです。ほら、本ばかり読む子供でしたから。両親に外で遊べと言われたら、外で本をこっそりと読むタイプだったんです」
「想像できます」
「祖母は『太陽光で本を読んだら、目が悪くなる』と心配していたのですが。祖父は『自分のしたいことを貫くのは芯がしっかりしている証拠だ』と、頭を撫でながら褒めてくれたんです」
自分でもよくわからないのですが、と透真は続けた。
大学で授業を持っているから、学生を褒めることはある。図書館に来る子供を褒めることもある。けれど、絶対に相手の頭を撫でることなどない。
「なのにどうして、私は琴音さんの頭に手を伸ばしたのでしょう?」
本当に困惑した様子で、透真は自分の右のてのひらを眺めている。
「百花さんとお母さんに関しても、琴音さんはとても頑張っていらしたでしょう。本当はあの時も頭を撫でてあげたかったんです。さすがにまずいかと思って、控えましたが」
「あたまを、なでてほしいです!」
自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。琴音のたどたどしい願望が、静かな店内に響いている。
「え? セクハラって言いませんか?」
「言いません。はい、どうぞ」
琴音はぎゅっと瞼を閉じた。頭を撫でられた記憶はない……いや、ないわけではない。ただ、思い出の中から消してしまっていた。遠く小さくなっていく、母の背中を甦らせたくなくて。
小さい琴音を修道院に残して去った母は、最後に琴音の頭を撫でたのだ。
ひんやりとした細い指が、子供だった琴音の頭を包みこんで。そして見つめてくる母の目に涙が浮かんでいた。
事情の分からない琴音のきょとんとした顔が、母の濡れた瞳に映っていた。
「で、では……」
緊張のあまりだろうか、ぎくしゃくした動きの透真の手が、琴音の頭上に載せられた。
意外と重みを感じた。そしてゆっくりと手が動く。
「琴音さん、あなたのおかげで祖母が守ってきた月光食堂は、眠りから目を覚ましました。ありがとうございます、」
透真の一言一言が、まるで水晶のかけらのようだ。きらきらと煌めいて、琴音を包んでいく。
なぜだろう、目の前の透真が水の中にいるように見えた。
そしてようやく琴音は気づいた。自分が泣いていることに。
母は消え、修道院では守られていたけれど。独立した琴音は疲れ、ひりついた生活に追われていた。
先代が月光食堂を残してくれたから、ようやく琴音は安住する場所を得たのだ。
「ありがとう……ございます。わたしを助けてくれて、わたしに居場所を与えてくれて」
琴音の小さな呟きに、小鳥の澄んださえずりが重なった。




