5、海ほおずき
ランチの営業を終えた琴音は、もう一度写真を見ようと吊戸棚を開いた。さすがに大事なノートを落とすわけにはいかない。椅子を運んで乗ると、見た目以上に奥行きがあった。
「あれ、何だろ。これ」
ノートの並びの奥に、絵本が置いてあった。立てて並べていなかったので、気づかなかったのだ。
取り出してみると、黒い表紙にお面が一面に並んでいる。裏表紙は舞妓さんや、昭和レトロな女の子や背の高いパンダが、それぞれ円形の中に描かれている。しかも表紙の紙が固くない、いわゆる書店で売っている絵本と違う。
『えんにち』
とてもシンプルなタイトルだ。
どうやら元は月灯り図書館の蔵書だったらしい。昔の図書館本にあった貸出カードを入れる袋が貼ってある。そして蔵書印や、背表紙の図書ラベルは黒いマジックで塗りつぶされていた。
時を経たせいだろう。マジックは色褪せ、その下の文字が読める。
椅子から降りた琴音は、ページをめくった。
絵本は兄妹が家を出るところから始まり、縁日の屋台を組み立てるところを眺める。
開店した屋台が次々と描かれて、まるで自分も縁日に参加している気分になる。綿あめ、いか焼き、ビニールプールの中や平たい氷の上でジュースの瓶が冷やしてある。
文章はたった一文だけ。
――これからふたりは、えんにちにでかけます
辺りはしだいに夜になり、まさに夜店という雰囲気になっていく。
手回しのかき氷機に、瓶に入った色とりどりのシロップ。
どうやら裏表紙の円形の絵は、紙でできた飾りの傘のようだ。
あんず飴の屋台の隣で男の子たちが群れて、何かを覗きこんでいる。気になった琴音は目を凝らしたが、彼らが夢中になっているものが見えるはずもない。
琴音は縁日に行ったことがない。
修道院で開かれるバザーやウィリディタス修道院が主催するお祭りは参加したことがある。
修道院の中庭で屋台も出ていたが、琴音が覚えているのはハーブを使ったハンドクリームや石鹸、ウィリディタス修道院の作る大麦の飴やレモネードだった。
琥珀色をした大麦の飴は絶品で、青と金で彩られた缶に入っているのも人気らしく遠くからわざわざ買いに来る人もいた。
おそらく琴音が知っている屋台は、一般的ではないのだろう。
「そっか、浴衣を着て縁日に行くんだ」
下駄を鳴らして、アセチレンランプの黄色い明かりに照らされた屋台を覗いていく。アセチレンランプなんて、文学でしか見かけたことがない。
赤や黄色のうにょっとした平たいものを、緑の大きな葉の上に並べた店もある。屋台の上部にかけられた水引のれんには「海ほうずき」と書かれていた。
「これ、何かしら」
あまり使わないスマホを取り出し、検索してみる。出てきたのは「海ほうずき」ではなく「海ほおずき」という記載だった。
――海ほおずきとは巻貝の卵嚢である。口に含んで音を鳴らして遊ぶさまが、植物のほおずきに似ていることから名づけられた。主に縁日や海辺の駄菓子屋で、鮮やかに着色して売られていた。
「……巻貝の卵嚢」
なぜそれを口に入れて、音を鳴らそうと思ったのか? そもそも植物のほおずきの実も、音が鳴るなんて知らなかった。
さらに調べると、ほおずきは硬い実をもんで潰し、皮だけを残して口に入れるのだそうだ。そして舌に載せて、ぎゅっぎゅっと押して鳴らす。
「食用ほおずきはゴールデンベリーといって、口に入れるのは分かるけど。ふつうの観賞用のほおずきって、確か毒があるんじゃなかったかしら」
ほおずきも海ほおずきも、知らないことがいっぱいあるのだ。
琴音はノートに挟んであった写真を取り出した。
「この縁日にも海ほおずきはあったのかしら」
写真に写っている女性は、縁日で何を買ったのだろう。妊娠しているようだから、さすがに派手な色合いの海ほおずきを口に入れたりはしないかな? と、考えを巡らせる。
「『えんにち』の絵本は先代の私物なのかしら。この人との思い出なんじゃないのかな」
だとしたら、透真に相談した方がいいかもしれない。ウィリディタス修道院とのかかわりが深い月光食堂だが、先代の店長は透真の祖母なのだろうから。
琴音はふと写真を裏返してみた。
――必ず三人で縁日に行きましょうね。待っていますよ。
ボールペンの文字で、そう書かれていた。




