4、朝のミューズリー
その日の夜更け。二階の自室でベッドに寝転がり、琴音は本を読んでいた。 クラフト・エヴィング商會の『じつは、わたくしこういうものです』だ。
夏とはいえ、三日月町は湖に面しているし森もあるので夜はひんやりと肌寒い。少しでも窓を開けようものなら寒いくらいだ。なので琴音は夏なのに長袖のパジャマを着ている。
微かに虫の軽やかな声が聞こえる。ルルルルル、と聞こえるのはカンタンだろうか。邯鄲の夢、という言葉を琴音は思い出した。
「そういえばここで暮らし始めた頃は、驚いたなぁ」
それまで森の近くで生活したことのない琴音は、夜中に女性の悲鳴を聞いたのだ。
何ごと? 事件? それとも怪異?
恐怖に琴音の足はすくんだ。
すでに深夜だ。透真に電話をかけて、尋ねるわけにもいかない。警察に連絡しようかと思ったが、酔った人が喧嘩をしているだけかもしれない。
どうしよう。暗い室内をぐるぐると回るばかりの琴音は、突然の着信音に跳びあがって驚いた。
それこそオカルトかもしれないと、冷や汗がうなじを伝う。
恐る恐るスマホを覗けば、透真の名前が表示されていた。
『ほ、本当に透真さんですか?』
たいそう間抜けた声で琴音は問うた。
『本当に透真ですが。もしかして琴音さん、さっきの悲鳴を怪奇現象と勘違いしていますね?』
『う……っ』
見透かされてる。
『あれは鹿の声ですよ。ほら「奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋はかなしき」と、百人一首の五番にあるでしょう? その声です』
『歌は知っていますが、声までは。あの、奈良公園の鹿って鳴いているのを見たことがありませんから』
『確かに……ぼくも奈良公園の鹿が鳴いているのは記憶にないですね。まぁ、頻繁に行くこともありませんから、知らないだけかもしれません』
ふふ、と琴音は笑みをこぼした。
確かに初めて耳にした鹿の声には驚いた。百人一首の歌からは想像もできない絹を裂くような声だったから。
けれど、こうして透真が自分を心配して電話をくれるのが嬉しい。それが夜中であっても、きっと一人で怯えていると案じてくれているのだから。
琴音はスマホをぎゅっと握りしめた。
『ちなみに夜中は外に出てはいけませんよ。イノシシがいたら危険ですからね。猪突猛進の言葉通り、怪我を負いますよ』
『は……はい』
自然は厳しい。三日月湖も周辺の森も美しいイメージだったけれど、それだけじゃないと琴音は心に刻んだ。
「冬眠図書館は冬だけの開館だから、野生動物はいないのかしら」
ふんわりとした枕に頭を置いて、『じつは、わたくしこういうものです』を最後の章から読み始める。そこに目当ての「シチュー当番」の話が載っているからだ。
冬眠図書館が本当にあるわけではないし、司書がシチューとパンを手作りしているのも実際にはないと分かるのだけれど。
それでも、本当にそんな職業に就いている人が存在しているように思える。
月灯り図書館も森の中にあるのだから、きっと冬眠図書館もどこかの森にひっそりと、夜通し開館しているのだろう。
「素敵だなぁ」
満足なため息をこぼしながら、琴音は枕に顔を埋めた。
シチュー回数券もいい。しかも回数券には「brown or white」と印刷されている。ああ、どちらも選べない。
「シチュー、作ろうかな……」
外から聞こえる虫の澄んだ鳴き声と、コロコロという蛙の声に包まれて、琴音は眠りに落ちた。
◇◇◇
翌朝、「おばよぉ」と濁った声で知夏がよろけながら月光食堂に入って来た。
野菜の入った箱が重いのだろうと、琴音は手を貸したが。そんなこともなかった。
「寝不足ですか?」
「一睡もしてないわね。はは、何なんだろ。もうどーでもいいや」
確か昨日は彼とデートのはずだったのでは? 知夏は楽しみにしていたはずなのに、喧嘩でもしたのだろうか。
軍手を外した知夏の手首に、金の鎖はなかった。琴音の視線に気づいたのだろう、目の下に隈を作った知夏がへらっと笑う。
「あー、ブレスレットね。腹が立って切っちゃった。返せって言われたから、ぶちって引きちぎってあいつに叩きつけてやったのよ」
どうやら修羅場だったらしい。琴音は何も言うことができずに、ただ話を聞くことしかできなかった。
「久しぶりのデートだって浮かれていたあたしがバカだったのね。まさかの別れ話だったわ」
「あの、知夏さん。お水をどうぞ」
琴音は椅子をすすめ、急いで水を用意した。知夏に出す前に、グラスに砂糖と塩を少量入れてから水で溶かす。ちょうどレモンの残りもあったので、搾って入れる。
自分で作れる経口補水液だ。
確か熱中症には睡眠不足が良くないと、聞いたことがある。しかも徹夜状態で知夏は早朝から野菜の収穫をしている。朝食もちゃんと食べていない可能性が高い。
そんなの熱中症まっしぐらではないか。
「ありがと、琴音ちゃん。あー、なんかおいしいね、これ」
いや、おいしくはない。おいしく感じるということは、体が脱水状態なのだ。
このまま知夏を帰宅させてはいけない。事故を起こすかもしれないし、倒れてしまうかもしれない。
「知夏さん、急ぎじゃないなら朝食を一緒に取りませんか? サービスです」
「え? いいの? 助かるー。朝食抜いちゃったんだよね」
知夏は一気に飲み干したグラスを、テーブルに置いた。冷蔵庫で冷やしていた水なので、グラスの表面がうっすらと白くなっている。
冷たいものの方が、知夏は食べやすいだろう。すぐに用意できるものはと考えて、琴音はミューズリーの瓶を取り出した。
イダ・ファームから仕入れた果物を干したものや、山を下りた時にスーパーで買ったドライフルーツを、シリアルに混ぜて大きな瓶に詰めてある。
オーツ麦とアーモンドやクルミなどのナッツ、レーズンにイチジクやアプリコットのドライフルーツ。さらにナツメヤシの実を干したデーツは、ねっとりとして干し柿と黒糖を合わせたような味が特徴だ。
デーツは栄養価も高く、イギリスではスティッキー・トフィー・プディングでも用いられる。
「はい、どうぞ」
冷たい牛乳をミューズリーにかけて、琴音は器をテーブルに置いた。
たしか水ばかりを飲んでも、熱中症には効果が高いわけではない。経口補水液、それと牛乳などのたんぱく質も取った方が体にゆっくりと水分が行き渡るのでいいらしい。
食欲がなかっただろうに、経口補水液のおかげなのか知夏はスプーンでミューズリーを口に運んだ。
静かな店内で咀嚼する音が聞こえる。
「……結婚の約束をしていたのよ」
ぽつりと知夏が話し始めた。普段は軍手をはめていることの多い知夏だが、今は素手だ。農作業のせいだろうか、知夏の指は女性にしては節くれだっている。琴音もだが、知夏も爪を短く切り揃えてある。
「ほら、あたしには指輪は似合わないから。彼に婚約指輪の代わりにってブレスレットをもらったのよ。ダイヤモンドのチャームがついていてね、失くしちゃいけないから普段はチャームは外していたんだけど」
琴音は向かいの席に座って、自分もミューズリーを食べた。知夏の話に頷きながら、知夏が話し終えるのを待つ。
「婚約しているからって、安心していたのかな。一時は経営難だったイダ・ファームを、あたしが立て直すことができて。それに珍しい野菜や果物を作るのも楽しかった……ここで、月光食堂でいろんな人があたしの野菜を食べてくれて、顧客も増えて」
知夏はもう金鎖のついていない左の手首を、そっと撫でた。
「あいつが結婚しようと考えている女性は、指の綺麗な人なんだって。ネイルも塗っててさ、あたしみたいにがさつじゃない。いつも微笑んで俺の話を『すごいですね』『さすがです』って褒めてくれるって。一緒にいて居心地がいいらしいよ」
でも、それは会話ではないのでは? 琴音は思った。
「うん、すっごく気が合うんだって。あいつの食べたいもの、行きたいところ、見たい映画、そういうの全部彼女と一緒で。服を選んであげても、あたしみたいに『これは趣味じゃないかな』って断ることがないらしいよ」
聞けば、元カレは以前から絶対に知夏に似合わなさそうな、オフショルダーのフリルの服を勧めてくることが多かったそうだ。
元々理想の彼女像が、元カレの中にあったのだろう。知夏はそれに合致せず、新しい彼女は合格した。
「肩出しの服ってさ、華奢で髪をきれいに巻いた人が着るから似合うのよ。靴もヒールの高いミュールとかね。そういうのを着こなせる相手ができて、すっごく嬉しいって浮かれててさ。せめて、申し訳なさそうな顔をしてくれたらって、思うじゃない?」
知夏は唇を噛んでうつむいた。
「なんで彼が、他の人に惚気てる話を聞かされなきゃいけないんだろ」
相手の女性は、本当に結婚する意思はあるのだろうか。元カレが入れ込んで、突っ走っているだけなのでは?
なぜなら話を聞いた限りでは元カレは、新しい彼女に接待されているではないか。
相手を持ちあげていい気にさせて、常に相手が望む答えを返して、喜ぶように相槌を打つ。
接待される方は、最初は居心地がいいだろう。けれど回を重ねるうちに、いずれ物足りなくなってしまう。
君は何が食べたいの? あなたと同じものでお願いします。
君はどこに行きたいの? センスのいいあなたが選んだところにします。
君の夢は? あなたの夢を応援することが、わたしの夢です。
そんな会話はきっと退屈になる。
「彼氏さん、いつか後悔しますよ。こんな素敵な知夏さんを逃がしてしまったんですから」
いつか、というほど遠い未来ではないかもしれない。
だが、その時が来ても知夏とやり直すことはできないだろう。もし知夏が、自称誠意のある元カレを許したとして。
きっと二度、三度と本気という名の浮気を繰り返すに違いない。
そして堪忍袋の緒が切れた知夏が怒った時、きっと彼はこう言うのだ。
――は? なんで今回に限って怒るんだよ。これまで俺の本気の恋を応援してくれたじゃないか。お前がそんなつまらない女だったとは思わなかった。見損なったよ、と。
「一度相手に贈ったブレスレットを返せと言うのも、新しい彼女にお金がかかるんだろうね。あたしはデートの時に、レジでの支払いはあいつがして、店を出てからあたしの分を支払ってたけど。今は全部、あいつがデート代を持ってあげてるんだろうね。あたしの気遣いも意味なかったな」
馬鹿にされていた。舐められていた。どう扱ってもいい相手だと見くびられていた。
お金のことだけじゃなくて、雑に扱っていい女だと婚約者に思われていたことが、とてもつらいのだろう。
知夏は、今にも泣きだしそうな笑顔を浮かべた。
別れを切り出されたばかりで、まだ感情の整理がつくはずもない。しかも知夏は、琴音よりも年上だ。三十半ばで結婚を考えていた人が去れば、描いていた将来はすべて帳消しになる。
空はこんなにも晴れ渡っているのに。食堂内の陰は濃い。
食が細くなってしまった知夏のミューズリーは、ふやけてしまっていた。




