3、シチュー当番
ランチの営業後、百花の母親から予約の電話が入った。療養院に入院している千華も一緒だ。
『今週の土曜日になりますけど、かき氷をお願いします』
日暮れよりも予約の時間が早い。どうやらその日は三日月町で夏祭りがあるとのことで、かき氷を食べてから祭りに行くと百花の母親は話した。
ランチの後に提供したかき氷を、千華も百花もとても気に入ったとのことだ。
夏祭りは、三日月町にある神社の例祭だそうだ。境内だけではなく、参道にも夜店の屋台が並ぶらしい。
下駄で砂浜を歩いたり、浴衣姿でデッキチェアにもたれるのは難しいので予約はテラス席だ。
『千華も体調がよくなって、外出許可も下りたんです。その日は百花や千華と縁日に行って、皆で自宅に帰るんです』
「それは素敵ですね。きっと楽しいと思います。では、土曜日の五時にお待ちしております」
琴音が受話器を置こうとした時。『あの……』と、母親の声が続いた。
『先日はありがとうございました。その、夫に電話して事情を話したところ、休暇を取って帰国してくれるそうです。千華どころか、百花のことも気遣っていなかったって、そう言ってくれて』
ためらいがちに告げながら、それでも百花の母親は少し笑った。
『でもね、月光食堂はパパには内緒にしてね、って百花が話していました。とっておきの場所だから、知られたくないんですって。信用ないですよね』
それは夫だけではなく自身にも向けた言葉だったのだろう。
いい子であることを強いられた百花が、父には秘密の場所を持つ。ちょっと悪くて、なんだかいい。
電話を切った琴音は、キッチンの掃除を始めた。コンロやその周囲を磨くと、銀色が輝きを取り戻す。自分の顔が映るくらいにぴかぴかに。
料理をする場所は油汚れもよくつくし、水を使うので汚れやすい。清潔さこそが大事なのだ。
シンク用、コンロ用と洗剤を使い分ける必要はない。先代の店長が残したノートに、掃除方法が記されていたからだ。
――ホワイトビネガーを、水で薄めて使用する。スプレーに入れると使い勝手が良い。但し、鉄やアルミ、大理石には用いないように。
ホワイトビネガーは穀物酢ほど匂いは強くないし、黄色くもない。無色透明だ。月光食堂に来てすぐにノートを見つけた琴音は、掃除用のホワイトビネガー水を作っておいた。
お酢を使うの? と最初は思ったけれど。意外とつんとする匂いは残らない。
「そろそろビネガー水を新しく作らないと。お酢と水の割合は、えーっと」
ノートを確認するために、琴音は吊戸棚を開いた。ばさばさっ、と音を立ててノートが落ちてくる。
「うわっ」
手で頭や顔を守る前に、ノートを落とさないように手で受ける。古いノートなので、衝撃を与えるとばらばらになってしまうかもしれない。
「はー、危なかった」
吊戸棚に入っているのは、先代の忘備録だ。人気があったレシピであったり、掃除方法であったり、季節の行事ごとのあれこれ。日記のようなものも。
ケイジャンポップコーンもこのレシピ帳を参考にしたし、他にもプルドポークなど、洒落たアメリカの料理が記載されている。
ホワイトビネガーを使う掃除も、このノートから見つけた。
その時、別のノートからするりと抜けるものがあった。ページが外れたのかと案じたが、そうではなかった。
床に落ちていたのは写真だった。古い色褪せた写真が二枚。
「これってもしかして、先代が写ってる?」
拾い上げた写真の一枚は、月光食堂を背景に三人が写っていた。右にエプロン姿の女性、四十歳ほどだろうか。時代が違うから判断しにくいけれど。
その女性は上品そうな目許が透真に似ている。やはり透真の祖母なのかもしれない。隣には幼い兄妹とその母親が写っている。
透真――ではなさそうだ。男の子は日焼けをして元気そうで、手には捕虫網を握っている。女の子の方は虫かごだ。落とさないように、かごをしっかりと抱えている。
「この辺りは森だから、カブトムシやクワガタもいるものね」
ふふ、と思わず笑みがこぼれる。きっとこのお母さんは子供たちにお願いされて、虫を捕まえに来たのだろう。
もう一枚の写真は、どうやら縁日のようだ。
先代の店主は写っておらず、お腹の大きな若い女性が写っている。さっきの写真とは別人だ。繊細そうな人だが楽しそうに微笑んでいた。
夜店の屋台には、りんご飴や焼きとうもろこしの字が読み取れる。
先代は確かに月光食堂にいて、友人やお客さんと三日月町での生活を楽しんでいた。
透真のおばあさんであろう人の暮らしが垣間見えて、琴音は微笑んだ。
リリリ、とウィンドチャイムが軽やかな音を立てる。
「琴音さん。頼まれていた本が返却されましたので、持ってきましたよ」
「あ、ありがとうございます」
店に入って来た透真が、そのままキッチンへとやって来る。貸出カードとお金を事前に透真に渡しておいたので、月灯り図書館で貸出手続きを完了して持ってきてくれたのだ。
琴音が待っていたのは『じつは、わたくしこういうものです』だ。タイトルを知ったのは、今だが。
クラフト・エヴィング商會が記した本で、ずいぶんと昔に街の図書館で見かけたことがある。琴音が覚えていたのは、白い表紙とお辞儀するキューピッドの絵、そしてほんの少しの内容だけだ。
「嬉しい。ずっと読んでみたくて、でもタイトルも著者も分からなかったので諦めていたんです」
「私も仕事柄、本を読むことが多いですし。図書館の館長としても、ある程度の情報があればレファレンスできますよ」
貸出期間の印刷された紙と共に、透真が本を手渡してくれた。
レファレンスは、利用者が求める本や情報の記されている資料を検索し、照会する業務だ。
今は誰でも端末で検索できるので、タイトルや著者が断片的にでも分かれば目的の本にたどり着きやすい。
けれど、内容だけを覚えている場合は自分ではお手上げだ。司書の資格を持っている透真に頼るほかない。
「あの、失礼ですけど。どうしてこの本にたどり着いたんですか? わたしはタイトルすら覚えていなかったのに」
「ああ、簡単なことですよ」と、透真はまるでミステリ小説の探偵のようなことを口にした。
「琴音さんは『冬眠のように冬になると毛布にくるまって、ゆっくり静かに夜通し本を読む図書館がある。そこの夜食はシチューとコッペパン』と仰っていたでしょう?」
こくりと琴音はうなずいた。
毛布と夜食のシチュー、そしてコッペパン。夢のようだと思った。
子供向けの本ではないので書店で立ち読みした時は、難しいし流し読みだったけれど。
修道院で育った琴音は就寝時間も起床時間も早く、夜更かしして読書するなど考えもしなかった。
「ああ、シチュー当番だなとピンと来たんです」
透真の言葉に、琴音は目を見張った。確かに読みたかった部分のサブタイトルは『シチュー当番』だった。
『シチュー当番』は写真以外の本文は、わずか四ページほどの話だ。他にも『月光密売人』や『冷水塔守』など魅力的なタイトルが並んでいる。
どれも架空の職業に就いている人々へのインタビューという形を取っている。
「楽しみです。寝る前にゆっくりと読みますね」
「いいですね。楽しんでください」
貸出料金を受け取った透真は微笑んだ。
それにしても、わずかな手がかりからよくこの本が見つかるものだ。
「透真さんは文芸評論家で司書さんですから、なんでも頭に入っているんでしょうか」
「まさか。たまたま知っていただけですよ。人気の本でしたから」
透真は謙遜するが、たまたまの範囲がとても広そうだ。




