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18、グラスの中の夕暮れ

 午後七時前に、百花と母親が月光食堂を訪れた。そしてもう一人、百花の姉の千華だ。半袖の百花と違い、千華はワンピースにカーディガンをはおっている。黒髪をひとつに結んで、痩せているせいかワンピースが大きく見える。


 ああ、やっぱり、と琴音は納得した。


 百花の行方が分からなかった時、療養院から外に出ようとしていたパジャマの女の子が千華だったのだ。不調を押しても、妹を捜そうとしていたのだ。


「あのね、お姉ちゃん。ここね、百花の行きつけのお店なんだよ。テラス席でご飯を食べてるの」


 百花が千華の腕を掴んで引っ張る。今日のウインドチャイムは元気な音で鳴った。


「いらっしゃいませ。百花さん、今日は特別に三日月湖の浜辺でお茶にしませんか?」

「いいの? とくべつ?」

「はい。ご案内しますね。千華さんもお母さまもどうぞ」


 車が来ないことを確認して、琴音は道を渡った。弾むように歩いている百花と違い、千華は恐る恐る歩いている。どうやら足下に横断歩道の白い線がないのが不安なようだ。


「お母さまはコーヒーと紅茶、どうなさいますか? 温かいのと冷たいの、どちらでもご用意できますが」

「あ、じゃあ温かい紅茶を」


 さくさくと石英の砂を踏みながら、四人は進む。夕方になり湿気があるせいか、砂は鳴かない。


「もう療養院では夕食の時間は終わったんですよね?」と琴音が尋ねると、千華はこくりとうなずいた。百花は昼食が遅かったので、夕食は帰宅してから取るそうだ。


「お姉さん、百花もお手伝いしていい?」


 千華と母親をデッキチェアに座らせながら、百花が尋ねてきた。


「それは助かりますが。百花さんもお客さんですよ?」

「百花ね、おとなになったらお姉さんの食堂ではたらくの。だからしゅぎょうするの」

「そうなんですか?」


 突然の進路報告に、琴音はびっくりして瞬きをくり返した。これは大変だ。閉店しないように、経営状態も良くしていかねば。


「すみません。ご迷惑になるからって諭したんですけど、百花はもう決めたみたいで。その、この子が大きくなったらお手伝いをさせてもらえませんか?」


 申し訳なさそうに、母親が言葉を挟んだ。

 大人であることを押しつけられた百花が、自ら未来を見つけたのだ。とても喜ばしいことで、琴音は自然と頰が緩んだ。


「では、お願いしますね。砂浜は足が取られるので、転ばないように気を付けてください」

「うん、まかせて」


 大冒険を終え、葉っぱの気球を見送った百花はすっきりとした表情をしている。

 道路を走る車はほとんどないけれど、百花は左右を確認して道を渡る。さすがに紅茶の入ったポットやカップにグラスは、琴音が運んだ。


「おまたせいたしました」


 澄ました声で、百花がそれぞれのサイドテーブルにお皿を置く。切り分けたキーライムパイだ。生クリームを絞り、スライスしたライムで飾ってある。


「こちらは、えーと、きーらいむパイ。おのみものは、ちかさんのはゆうぐれのジュースです」


 先ほど食堂のキッチンで琴音に教えられたメニューを、百花は(そら)んじた。


「うわぁ、なに、これ。すっごくきれい。グラスの中が夕暮れだわ」


 思いがけず千華が大きな声を上げた。


「ほら、ママ見て。お空を映したみたい。こんなきれいなジュース、初めて見たわ」

「本当ね。今日の空と同じ色ね」


 紙のコースターを敷いた上に、百花は緊張しながらグラスを置いた。ステムのついた大人っぽいグラスの下半分は白、そしてピンクから紫に分かれている。


「百花、説明をお願いできる? お姉ちゃんに教えてあげて」


 母親に頼まれて、百花は背筋をただした。こほん、と一つ咳払いをして畏まる。


「これは、まろーぶるーというお花で作っています。白いのはカルピスなんです。ストローでまぜたらピンクになる、です。げっこうしょくどうで人気のジュースです」


 マローブルーはウスベニアオイという花だ。ハーブティーであり、熱湯で淹れると最初は青が鮮やかだが、しだいに茶色くくすんでしまう。なので琴音は水出しにしている。


「マローブルーは、バタフライピーのように青いお茶になります。レモンなどの酸に反応して、色がピンクに変化するんです。こちらは時間をかけて抽出しているので、青というより紫に近いんです。グラスをご覧ください」


 琴音は説明を続けた。


「下の白はカルピスです。乳酸菌というくらいですから、酸性です。なのでマローブルーとカルピスが触れあう部分はピンクに変化しています」

「リトマス試験紙みたいね」


 そう口にした百花の母は、はっとした表情を浮かべた。すぐに「ごめんなさい。夢がないわね」と肩をすくめる。


「いえ、お母さまのおっしゃる通りです。でも化学にも夢はあると思います」


 グラスにカルピスの原液と氷を入れ、氷に添わせるようにそーっと、そしてゆっくりとマローブルーのお茶を注いでいく。比重の違いでグラスの中は白と紫の二層に分かれる。そして両方の接点は淡いピンク色だ。


 カクテルでプースカフェというのがある。リキュールや蒸留酒、シロップの比重の違いを利用して、グラスの中で何層にも重ね合わせる。大正時代には五色酒(ごしきのさけ)として日本でも流行ったらしい。

 お酒に詳しい知夏が教えてくれた。


――プースカフェはたいして美味しくないんだけどね。でも、見た目が虹みたいできれいなのよ。ただ、バーテンダーさんは注文されるの嫌がると思うよ。時間もかかるし、腕も試されるし、ね。


 月光食堂で夕方のアペロを飲むようになる前は、知夏は農作業の後にバーによく通っていたらしい。


「三日月湖の夕暮れを眺めていて、この景色をグラスに入れることはできないかと考えた飲み物なんです」


 薄くれないから紫へ、そして群青の夜へうつろう空と、夏の白い雲。夕映えに照らされた雲は、薔薇色に染まっている。


 マローブルーのハーブティーにレモンを入れて、青からピンクへの変化を楽しんでもらうのも考えたが。それだとよくあるバタフライピーと変わらない。


 暮れていく空に向かい、お酒のグラスを掲げていた知夏の言葉がなければたどりつくことができなかったジュースだ。


「すごいね、百花ちゃん。あたしなんかより、ずっとずっとすごいんだね」


 思いがけず姉に褒められたからだろう。百花は焦ったように、何度も横に立つ琴音を見上げた。

 なんと答えていいのか、思いつかないのだろう。


「あたし、がんばって元気になるからね。だから、いっしょに月光食堂に行こうね。いろいろ教えてね?」

「う、うん」


 百花が不器用な笑みを浮かべた。その心からの笑顔は、とても愛らしい。


「……かき氷もお出ししているんですよ。次回いらした時に、いかがですか?」


 琴音はためらいがちに、百花の母親に提案した。

「わぁ、食べたい。ね、百花ちゃん」と千華の声が弾む。


 ジュースの氷は認めてもらえたが、さすがにかき氷は無謀だっただろうか。

琴音は、そうっと母親の様子を窺った。

 母親は肩をすくめてため息をつく。


「しょうがないわね。店長さん、どんなかき氷があるんですか?」

「えっと。あの。スモモ蜜と、レモン蜜です。どちらも手作りで、お砂糖と一緒に煮詰めてあるんです。サイズは小さめで、グラスに入る程度です」


 前向きな質問に、琴音は動揺してしまい、説明するのがやっとだった。気づけば胸の前でお盆を握りしめすぎて、右手の指の動きがぎこちなくなっていた。


「小さいサイズだし、ちゃんとしたシロップなら大丈夫かしらね。次のランチの時に三人分のかき氷をお願いできるかしら」

「は、はいっ」


 返事する琴音のエプロンを、風が触れた。


 千華と母親は、湖の浅瀬に生える木を「影絵みたい」と眺めている。暮れていく鮮やかな空を背景に、とてもきれいなひと時を切り取ったかのようだ。


 琴音の手を握った百花は、一瞬泣きそうな表情を浮かべて。そして満面の笑みを浮かべた。潤んだ瞳に壮大な夕映えの空を宿して。

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